二章 4-2
* * *
翌日の午後二時を回る頃、譲は玉藍を肩に乗せて現れた。雪が出迎えると玉藍はひょいと譲の肩から下りて雪の足下へ寄ってくる。そして、申し訳なさそうに項垂れた。
「すみません。まだ微熱があるようなのですが、行くと言ってきかなくて」
譲が顔を顰めて反論する。
「だから、熱なんかないっての。俺はもともと体温が高い方なんだ」
「嘘仰い。医者は誤魔化せてもわたしは誤魔化せないわよ」
玄関先で早速言い合いを始める二人を見ながら、雪は一人で納得した。
「だから時間がかかってたのか」
玉藍が譲のところに向かったのは一時頃である。地下鉄の時間にもよるが、譲の家から雪の家までは三十分くらいしかからない。やけに遅いと思ったら、譲の家で攻防があったらしい。本当に譲の具合が悪いなら、玉藍がどんな手を使ってでも外出を思い留まらせただろうから、そんなに心配することもないだろうと雪は譲を奥へ促す。
「とにかく上がれよ」
「お邪魔します」
リビングへ戻り、座るようソファを指しながら雪は譲を振り返る。
「無理するなって言ったのに」
「だから、体温が高い方なんだっつの。……悪かったな、気を遣わせて」
ぼそりと付け足された譲の一言を聞いて、雪はなんのことだろうと眉を顰めた。電話で話すのではなく家に招いたことだろうかと考え、片手を閃かせる。
「気を遣ったわけじゃなく、俺が楽したかったから呼んだだけ。―――で? なんか訊きたいことでもあるのか」
譲の向かいに腰を下ろしながら問えば、譲は躊躇いがちに話し始めた。
「雪って、霊能者か何かなのか?」
「うん?」
思いがけないことを問われたので聞き返しながら、しかし雪は、譲が本当に訊きたいことはこれではないのだろうと思った。本題に入る前に、小さな疑問を挟んだのだろう。
譲は答えを待っている。考えた挙げ句、雪はそのまま答えることにした。
「うちの父方の本家筋が、拝み屋やってんだ」
「拝み屋? ……霊媒師みたいな?」
「まあ、似たようなもの……かな?」
正確には霊媒師とは異なるのだが、説明すると面倒な上に長くなるので、雪は適当に流した。場合によっては霊媒もするのでまったくの間違いではない。
「そういう家系でさ。俺は小さい頃に基礎の基礎しか習わなかったから、難しいことはできないけど」
「へー。そういうのを仕事にしてる人ってほんとにいるんだ」
「あんま大きな声では言わないけどな。職業欄は『自営業』だ」
「雪の親御さんも?」
「いや、うちの父親は普通の会社員。母親はパン屋のパートタイマー」
現在は二人とも休職中だが、と雪は胸中で付け足す。
今年の三月に本家当主である伯父が急死し、そのごたごたで父が本家に呼ばれたのだ。おそらく本家は伯父の娘―――雪にとっては従姉が継ぐのであろうが、何やら揉めているらしい。夏休みに入る頃には帰ってくるようなことを言っていたが、毎日のようにかかってくる電話で状況を聞く限り、どうなることやらと雪はあまり期待しないことにしている。
「雪は将来、拝み屋になるのか?」
「へ?」
思いがけないことを言われて、雪はきょとんと譲を見た。彼に言ったように両親は普通の仕事をしているので、自分が本家の仕事に関わるなど考えたこともなかった。
「いやいや、ならないならない。できるとも思わないし」
このまま話がずれていきそうなので、雪は方向を修正した。
「それで?」
「……それでって?」
「まさか、俺ん
問えば、譲は視線を落として唇を引き結んだ。
人の姿になった玉藍が冷たいお茶を出してくれて、それを飲みつつ待っていると、譲が一言ずつ選ぶように言葉を紡いだ。
「俺が見てるのは……、幻覚じゃないんだよな?」
まだ言うかと、雪は鼻から息を抜く。
「譲も大概疑り深いな」
「いや、雪を疑ってるわけじゃなくて、その……あれが、幽霊の類なんだったら……」
譲は一度言葉を切った。膝の上で握り合わされている両手の関節が白くなっている。
「事故は、俺の……せい、かもしれない」
「はあ?」
深刻な顔で何を言い出すのかと、雪は間の抜けた声を上げた。
「バスジャックでもしたのか?」
「そんなわけないだろ。俺は真面目に言ってるんだ」
「俺だって真面目だ。何がどうなって譲のせいになるんだよ」
譲は迷うように視線を彷徨わせ、低く話し出した。
「……出かけた、帰りだった。多分四時半くらい」
事故は確か二月だったはずだ。四時半なら黄昏時かと、雪は口元に手を当てた。逢魔が時というのは迷信ではない。
「普段は電車使う方が多いんだけど、その日はたまたまバスで……走ってる途中、変なのと目が合ったんだ」
「変なの?」
「ああ。そのときは、また幻覚だと思った。止まってるならともかく、走ってるバスから外の人間と目が合うなんて、そうないだろ? それに、そいつは……腕が変な方に曲がってて、頭が陥没して、身体半分真っ赤だった」
想像してしまい、雪は軽く頭を振ってそれを振り払った。
「幻覚だと思ったから気にしないようにした。そのうち消えるだろうって……いつもそうだったから。でも、あのときは消えずにバスの中まで寄ってきた。でも、幻覚が動いたり、近くまできたりするのは珍しいことじゃなかったから無視してたんだ。何か言ってるようだったけど、声は聞こえなかったし……」
淡々と話していた譲の声が微かに震えた。一呼吸ほどの間を置いて、思い切ったように言う。
「そしたらそいつ、わざわざ俺の正面に回って……『死ね』って」
雪は思わず目を見張った。すぐに表情を戻し、痛ましくて眉を寄せる。それを幻覚だと、己の身の内から出たものだと思ってしまう譲の胸中を思うと、やりきれなくなる。
譲は俯いていて顔を上げない。
「やっぱり声はしなかったんだけど、口がそう動いたのがわかって……その直後に、事故が……。俺の……俺だけが見る幻なんだから無関係だって、思ってたけど……俺が見てるのは幻覚じゃなかったんだろ? なら、俺が無視してなかったら……、そもそも、あのバスに乗らなければ」
「違う」
雪は強く遮った。不安げに目を上げる譲に言い聞かせるように告げる。
「ほんとにちょっかい出せる奴で、手を出す気があるなら、わざわざ譲に絡まない。普段は誰にも見えてなくて、たまたま見えてそうな奴に会ったから、構って欲しくて寄ってきただけだ。事故はそいつが起こさせたんじゃなく、ただの偶然。死ねってのは譲が無視したから、ただの八つ当たりだろ」
譲の双眸が頼りなげに揺れる。
「……偶然?」
「事故ったとき、そいつは譲の目の前にいたんだろ?」
「いた、けど……」
「原因がどうあれ、そいつが事故起こそうとしたら、バス本体か運転手に何かしなきゃいけないよな。離れたところに影響を及ぼすなんてのは、相当力のある奴か、妖怪みたいのじゃないと。目が合ったのが嬉しくて絡んで来るようなのには絶対に無理。第一、遠くから手が出せるなら取り憑く必要ないじゃん」
「嬉しくて……絡んで来た?」
「ああ。そういう、普通の人には見えない奴は、大抵寂しいんだよ。そこにいても誰にもわかってもらえないから。だから、気付いた相手に絡んでくるんだ」
「……なんか、ちょっとわかる」
ぽつりと呟かれた言葉には妙に実感がこもって聞こえて、雪は顔を顰めた。
「駄目。本気で関わる気がない場合は同情禁止。下手するとどこまでもついてくるぞ」
「うえ」
情けない声を出す譲に深く頷いて見せて、雪は話を締めくくった。
「そういうわけだから、気にすんな。譲は被害者。一切、まったく、なんの責任もない」
「…………」
「安心したか?」
複雑な表情で黙ってしまった譲に笑って首をかしげれば、彼はほんの少しだけ表情を緩めた。
「……ちょっと」
「ならよかった」
笑んで返し、お茶を一口飲んだ雪は、思いついたことをそのまま口にした。
「譲って、ハムスターみたいだよな」
譲はぱちくりと目を瞬き、次いで渋面になった。
「……常に空回りしてるって言いたいのか?」
「いやそうじゃなく、余計なことまで考えて動けなくなってるって言うか」
「やっぱり空回りじゃねえか」
「違うってば。あんまり考えなくていいこともあるんだってこと」
雲行きが怪しくなってきたので、雪は話を変えることにする。
「ついでみたいで悪いんだけど、俺からも話しておきたいことがあるんだ」
「なんだ?」
「譲が見てる夢って、譲の夢じゃないんだって」
意味がわからなかったらしく、譲はきょとんと目を瞬いた。しばらくぽかんとしていたが、やがて言葉が浸透したか、頭と手を振る。
「いやいや。俺が見てるんだから俺の夢だろ。なんで他人の夢を見なきゃならねえんだ」
「玉藍が言うには、誰かの夢を共有しちゃってるらしい。だから、遮断すれば見なくなる」
「…………。すまん、まったく意味がわからん」
だろうなあと思いつつ、雪は説明を試みる。
「ええと……なんだろ。アナログアンテナみたいな?」
「アナログアンテナ?」
「テレビがデジタル放送になる前は、場所によってはチャンネルにないはずの隣の県の放送が見られることがあったって……あ、違うなこれ」
言いながらたとえが間違っていることに気付き、雪は取り消した。譲が顔を顰める。
「途中でやめんな。ますますわかんなくなるだろ」
「ええと……ぎょくらーん」
お茶を出した後は姿が見えなかったのだが、雪が呼ぶと三毛猫がどこからともなく現れた。雪の足下にちょこんと座って見上げてくる。
「お呼びでしょうか」
「譲に夢の説明してやってくんない? 俺じゃ上手く説明できない」
雪が抱き上げながら言うと、玉藍は困ったように雪を見た。
「わたしもセツさま以上の説明をできるとは思いませんが……」
「俺が言うより納得してくれると思う」
「そうでしょうか」
首を捻りつつも譲へ向き直り、玉藍は話し出す。
「譲は、物凄く性能のいい受信機なの」
「受信機? 俺が? アナログアンテナ?」
「アナログアンテナは一旦忘れて。多分、訓練すれば送信も受信もできるようになるわ。でも今は、波長が一致した相手からのみ、自分の意識がないときにだけ受信してしまうんだと思う」
「……なんだよそれ。テレパシーってことか?」
「そう」
首肯する玉藍を否定するように、譲はかぶりを振る。
「んな、超能力じみた力は俺にはないって。送信とか受信とか、漫画じゃあるまいし」
「だから、訓練すれば、よ。どんな力も、素質があるだけでは使えるようにはならないわ。今回はたまたま波長が合ってしまっただけ。人間って案外繊細だから、波長が完璧に一致するなんて
譲はしばし考えていたが、難しい顔のまま首をかしげた。
「その、波長ってのはなんなんだ?」
「そうね……、魂の波みたいなものよ。魂はそれぞれ固有の波を持つの。詳しく話すと長くなるから今度ね」
言って、玉藍は確かめるように雪を見上げた。
「こんな感じでいかがでしょう?」
「うん、ありがとう。―――そんなわけで、さっきも言ったけど譲が誰かの夢を受信して、それを見ちゃってるんだ。ね、玉藍」
「はい、セツさま」
譲はまだ納得していないような表情で雪を見る。
「他人の夢を見るなんてあんのかよ」
「あるんだよ」
雪も知らなかったので、玉藍に聞いてから少し調べたり、父に訊いたりしたのだが、事例は意外とあるらしい。知り合いどうしならともかく、まったくの他人の間だと気付かれることが殆どないので、報告されている例よりも数が多いだろうと言うことだった。
「何人かで同じ夢を見るケースもあるし、同じ経験をした人とは波長が合いやすくなる場合があるとさ」
「そ……」
反駁しようとしたようだったが、譲は何かに気付いた様子で目を見開き、次いで複雑そうな顔になった。
「待て。そうなるとその、実際に夢を見てる奴ってのは……」
譲が悩まされているのは事故の夢だ。しかも、東京にいるときは夢を見ることはなく、宮城に来てから見るようになった。宮城には今も眠り続けている被害者の一人がいる。―――そこから導き出される答えは一つである。
「話が早いな。そういうことだ」
雪が頷くと、譲は笑っているような怒り出しそうな泣きたそうな、形容しがたい表情になった。
「……マジか」
「多分、意識が戻らずに入院してるっていう子が、夢を見続けてるんだろう。譲が夢を見始めたのはいつだ?」
「いつって、四月の終わり頃……」
言いさして譲は口を噤んだ。促さずに待つと、戸惑った様子で呟く。
「……見舞いに行った、後から……」
「そうか……、受信し始めたのは物理的な距離が縮まっただけじゃなく、接触したからかもしれない」
共通の、強く記憶に残る体験をした人間どうしは波長が合いやすくなるという。譲の場合、夢の主と対面したことで「波」が重なってしまった可能性がある。
「なら、その子を起こせば、夢見なくなるかも」
「……敢えて訊くぞ。どうやってだ」
雪も考えていたことを言われ、雪はへらりと誤魔化し笑いを浮かべた。
「そこなんだよねー」
譲は束の間無言で雪を見つめ、かくりと項垂れた。
「あんま進展してない気がするんだけど」
「あ、ばれた? ―――そうなんだよ。俺は、その入院してる子の名前も顔も知らないしさ」
「顔と名前なら雪も見てるはずだぞ」
「え? どこで?」
顔を上げた譲は、両手でノートほどの大きさを示す。
「萩女のオケ部のコンサート、パンフレットまだ持ってるか?」
「うん? ……うん。ちょっと待って」
雪は自分の部屋へ行き、本棚を探す。捨てた覚えはないので、どこかに紛れ込んでいるはずだとプリント類をかき分け、埋もれかかっていたそれを引っ張り出してリビングへ戻った。
「はい」
「ありがと」
受け取った譲はパート紹介のページを開き、二枚の写真を示した。それはそっくりの女子生徒が欠席枠に載っている写真で、何故同じ写真を使うのだろうと疑問に思ったことを覚えている。しかし、よく見れば写真の横には、同じ名字の違う名前が書かれていた。パンフレットを雪に差し出しながら、譲が説明してくれる。
「俺も知らなかったから、これ見て驚いたんだ。……萩女のオケ部だったんだな」
「物凄く似てるけど、姉妹なのか?」
「双子なんだって。入院してるのはこっちの
「そっか……」
双子の姉妹で一人が命を落とし、もう一人は目覚めないというのは、近しい人々にとっては堪らないだろう。せめて早く目覚めればいいと祈りながら、雪はパンフレットを閉じてテーブルに置いた。
しばらくパンフレットに視線を落としていた譲は、複雑そうな表情で独白のように呟いた。
「でもさ……、こう言ったらあれだけど、証拠も裏付けもないし……やっぱり、俺が別人の……その女の子の夢を見てるなんて、そんなばかなことが……」
言葉の途中で玉藍が飛び出した。テーブルの上で助走を付け、譲に飛びかかる。
「あなたって人は!」
振り下ろされた玉藍の一撃を辛うじて腕で防御したらしい譲は、顔を庇いながら悲鳴を上げる。
「うわ、痛て、ちょっ、爪立てんな!」
雪は慌てて手を伸ばした。
「こら、玉藍」
「裏付け? 証拠? この期に及んで、セツさまが偽りを仰っているというの!? いい加減にしなさい、セツさまにはあなたなんか助ける義理はないのよ!」
「玉藍!」
雪はなおも譲を引っ掻こうとする玉藍を捕まえ、引き戻す。尻尾を膨らませて猫そっくりの威嚇音を出す玉藍を宥めながら譲の様子を窺えば、案の定、頼りなげで不安げな、夢の話をする前の表情に逆戻りしている。せっかく少しは気が紛れたようだったのにと雪は玉藍の頭をぽんぽんと軽く叩いた。雪のことを思ってなのだろうが、玉藍は雪のこととなると少々融通が利かなくなる。
「そう怒るな。夢の共有なんて突拍子もない話、いきなり信じろってほうが無茶だって」
「セツさまが理由なく嘘を仰るわけがないではありませんか! わたしはともかく、セツさまを疑うなど!」
「いや、一回酷い嘘ついてるし、俺。信じられなくても仕方ない」
「だとしても、相談を持ちかけてきたくせに、じられないと言うのは、身勝手にもほどが―――」
「……ごめん」
譲の声が玉藍を遮った。見れば、譲は目を伏せたまま立ち上がる。
「悪かった。疑ったわけじゃないんだ」
「謝られることじゃない。疑われたとも思ってない」
「ごめん……帰るわ」
雪の言葉は受け取らずに重ねて言いながら踵を返しかける譲を、雪は慌てて彼を引き留めた。
「ちょっと待て。帰られたら困る」
「なんで?」
「義理をこれから作ろうと思ってさ」
「義理って……なんだよ」
これを言うのは気が引けた。中途半端なプライドも邪魔をする。しかし、残り時間も少なく、背に腹は代えられない。こればかりは壱矢には頼むことはできない。―――雪と似たり寄ったりの壱矢では意味がない。
不思議そうにしている譲の顔を見据え、雪は意を決して口を開いた。
「譲、古文は得意か?」
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