二章 2-3

  *     *     *



 大通りから少し外れると、車の多さと喧噪が嘘のように静かになる。

「……でけぇ」

 駅から歩いて五分ほど、譲が足を止めた高層マンションは一目で高級だとわかる建物だった。けやき並木はあれど、コンクリートとアスファルトばかりの町の中で、そこの敷地だけがゆったりと緑に囲まれている。

 首を左右に振りながら譲はエントランスへ足を向けた。

「でかいのは見た目だけ」

「そんなことないだろ。譲ん家って、実は金持ち?」

「普通の家。ここ賃貸だし。―――せっかく来たんだから上がってけよ。茶くらい出すぞ」

 指紋一ついていない自動ドアを指差す譲に、雪は片手を振った。

「今日はいいよ、遅いし。また今度遊びに来る。それより、ちゃんと休めよな」

「わかったって。ほんと、雪まで壱矢みたいになってきたよな」

「誰がオカンだ。んじゃまた来週」

「ああ」

 譲に見送られ、雪はエントランスを出た。敷地から出て、改めて振り仰ぐとやはり大きい。灰色の石畳ふうにデザインされた地面には拳大ほどのライトが不規則に、だが道標になるように埋め込まれ、ぼんやりと光っている。

(ヘンゼルとグレーテルだっけかな)

 道々落とした石を辿る童話を連想し、お菓子の家にしては無骨すぎるマンションから顔を戻して雪は地下鉄の駅へ引き返した。

「……玉藍」

 低く呼べば、右肩に気配が現れた。視界の端で白い尻尾がぱたりと揺れる。

「お呼びですか、セツさま」

「さっきはありがとう」

「いいえ。あれくらい、お褒めいただくほどのことではありません」

「でも、階段の上で目眩起こしてたんだろ? 玉藍が間に合ってくれてよかったよ」

 先程の地下鉄の駅は、特に階段の距離が長い。足を踏み外して、打ち所が悪かったらと思うとぞっとしない。

 早急に手を打たねばならないかと思いつつ、雪は本題を切り出した。

「あのさ、玉藍」

「はい」

「ずっと悪夢を見続ける原因ってなんだと思う?」

「さあ……、夢の内容がわからないとなんとも言えません」

「やっぱり?」

「ご命令くだされば、探って参りますが」

 やはりなんでもないことのように言う玉藍へ、雪は首を左右に振った。

「やるとしたら、本人の許可を取ってからな」

 夢を覗くということは、深層意識を覗くようなものだ。大抵の人間は夢の内容をコントロールすることはできない。そこへ無断で入り込むのは許されることではない。

「夢の内容か……素直に教えてくれるかな」

「セツさまがわざわざ骨を折ってまでお助けになることはありませんよ。非協力的な相手なら、尚更です」

「そう言うなって。非協力的って言うか、まだ引き摺ってるんだろ。幻覚だって思い込んでたのをさ」

「そうででしょうか。……まったく、セツさまはお優しいんですから」

「優しいとか優しくないとか、そういうんじゃなくて」

「壱矢にでも任せておけばいいではないですか。あのかた、そういうの得意でしょう」

「それは、まあ……」

 壱矢には玉藍が見えないので彼の方は知る由もないが、玉藍は昔から壱矢のことを、その気質や体質も含めて知っている。彼女が壱矢のことを大きな蚊遣りだと表現していたのを思い出し、実も蓋もないが的確な表現だと雪は苦笑する。

「でも、一応俺の方が専門だから。壱矢のは体質だし。体質で悪夢を解消はできないだろ」

「わかりませんよ。一度合宿でもしてみたらどうです?」

「合宿か。……それはいいかも」

 譲を悩ませる悪夢に外的な原因があるのであれば、一緒に寝てみれば何かわかることがあるかもしれない。

 中間テストが終わったら二人を誘ってみようと思いながら、雪は横目で玉藍を見た。

「玉藍が言い出すとは思わなかったな。多分、会場はうちだけど」

 玉藍は雪の歩調に合わせてゆらゆらと揺らしていた尻尾をぴたりと止めた。その様子に笑いを噛み殺しながら、雪は続ける。

「本当に合宿することになっても文句言うなよ」

「……セツさま、近頃なんだかわたしには意地悪ではないですか?」

「そんなことないって。―――それで、もう一つ頼みがあるんだけど」

「なんなりと」

「今夜一晩、譲に付いててくれないか?」

 雑談の延長に聞こえるように言ったつもりだったが、玉藍からは返事がなく、反駁が来る前に雪は玉藍を説得する文句をいくつか思い浮かべた。できれば一週間くらい譲に張り付いていて欲しいと思うのだが、玉藍の気性からしてそれはさすがに無理だろう。

 呼吸を三つ数えた頃に、幾分低い声で玉藍が口を開く。

「わたしが最も優先すべきことは、セツさまの御身をお守りすることと心得ております」

「一晩くらい俺一人でも平気だよ」

「ですが」

「譲がうなされるようなら守ってやって欲しい。貧血起こすほど参ってるんだ、一日だけでも眠れれば違うだろうから。玉藍になら簡単だろう?」

 玉藍の尻尾がぱたぱたと譲の胸元を叩く。尻尾を小刻みに動かすのは玉藍が考えを巡らせるときの癖だ。

「……譲の身辺調査と言うことですね。承知いたしました。朝までには戻ります」

 一晩譲に付くというのを言い換えただけだろうが、玉藍が納得するならそれでいいと雪は笑いながら頷いた。

「悪いな。頼むよ」

「勿体ないお言葉です。セツさまは、ただご下命くださればよいのです」

「うん。でも、ありがとう」

 仕えて貰う気も使っている気もないと言いながら、結局玉藍を頼ってしまう。甘えていると言ってもいいかもしれない。玉藍は雪の願いならば大抵聞いてくれるので、自制しなければと思う。

(せめて、一晩くらい放っといても大丈夫だって思われるくらいにならないとな)

 玉藍は自分を信用していないのではなく、心配してくれているだけだ。自分は無力な子供だが、子供なりに頑張ろうと雪は星の少ない空を見上げた。

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