二章 2-4
* * *
母に促されて早々に自分の部屋へ戻り、自分以外の気配を感じて譲は周囲を見回した。すぐにベッドの枕元にちょこんと座っている三毛猫を見つける。
「玉藍……か?」
扉を閉めて問えば、三毛猫は肯定するようにぱたりと尻尾を揺らした。譲は歩み寄りながら重ねて尋ねる。
「なんでここに? 雪は?」
「セツさまに言われたのよ。今夜一晩、あなたを守れって」
「守、る……」
耳慣れない言葉を口に出せば、ますます馴染みの薄いものに思えた。戸惑う譲に構わず、玉藍は前足で急かすように前足でたしたしと枕を叩く。
「そんなわけだから、さっさと寝なさい。わたしの名と誇りにかけて、今夜は絶対に眠りを邪魔させないわ」
譲を見上げて玉藍は言い切った。
「大袈裟だな」
「あなたがどう思おうが構わない。わたしは命じられたことを果たすまで」
玉藍はどこまでも真剣で、胸に浮かんだ感情を掴み倦ねた譲はそっと三毛猫に手を伸ばした。勝手に触れて怒られたのを思い出し、尋ねる。
「……触ってもいいか?」
返事の代わりに玉藍は譲の膝にのってきた。黙っていれば綺麗な三毛猫なのにと、譲は玉藍を撫でる。手触りも伝わってくる体温も、記憶にある猫のそれと同じで、譲は昔飼っていた黒猫を思い出した。
譲の生まれる前から飼われていた猫は、数年前に寿命で死んでしまった。今でこそ懐かしく思い出せるが、死んだ直後は悲しくて寂しくてどうにかなってしまいそうだった。彼女は幼い譲の遊び相手であり、唯一の理解者でもあった。
玉藍の背を撫でながら、譲は何気なく訊いてみた。
「玉藍は猫又なんだっけ」
「そうよ」
「尻尾が分かれてないな」
「そう見せてるの。分かれてる尻尾が見たい?」
言いながら玉藍は持ち上げた尻尾を揺らした。いつの間にか尻尾の先が二本に分かれている。物珍しくて譲が尻尾を掴むと、玉藍は迷惑そうにそれを取り上げた。
「ちょっと。くすぐったいわね」
言いながら揺らす頃には一本の状態に戻っている。人間の姿になれるのだから、尻尾を普通の猫のように見せかけるなど造作もないことなのだろう。不思議な存在だと改めて思う。怪談や昔話の中だけの存在だと思っていたものが、実在しているとは思わなかった。
三毛猫を見下ろし、譲はかねてより疑問だったことを尋ねる。
「なあ……、玉藍は雪のなんなんだ?」
「
「し……」
玉藍の声には
「セツさまはお優しいから、そういうふうには扱わないけれど。わたしは、セツさまに要らないって言われるか、この命が尽きるまであのかたに仕えると決めたの」
「……なんで?」
「セツさまに命を救われたから」
今度こそ譲は言葉を失った。無言でいる譲をどう思ったか、玉藍は補足のように続ける。
「たとえ悪さをしなくても、異質な存在だというだけで消したがる人間は多いのよ。―――今から十四、五年前かしら。そういう、心ない術者に追われて死にかけていたところを、セツさまが助けてくださったの。セツさまは、お小さかったから覚えていらっしゃらないようだけど」
「それで、雪に仕えてる?」
問うた譲を、玉藍は、人間だったら眉を顰めているのだろうなという顔で見た。
「人間には、恩を返そうという発想はないの?」
「それは……」
譲の言葉を遮るように扉が叩かれた。部屋の外から母親の声が聞こえる。
「譲? まだ起きてるの?」
ほぼ同時に扉が開かれ、玉藍を隠す暇もなく譲は無意味に手を上げ下げした。
「何か、話し声が聞こえたけど……」
「ちょ、ちょっと電話。もう終わった」
完全な言い訳だったが、母親は心配そうに頷いた。去り際に言う。
「夜更かししないで早く寝なさいね。本調子じゃないんだから、無理は禁物よ」
「うん、おやすみ」
扉が閉まる。玉藍は膝の上にのったままで、確実に母の視界に入っていただろうが、母は見知らぬ三毛猫に気付いた様子もなく行ってしまった。本当に見える者と見えない者がいるのだなと、譲は今更ながら実感する。そして、また聞き咎められないよう声を潜めた。
「母さんには見えないのか」
「あなたはセツさまの話を聞いていなかったの? わたしたちみたいな存在は、強い
呆れたように言い、玉藍は譲の膝から下りた。再び前脚でたしたしと枕を叩く。
「話は終わりよ、さっさと寝なさい。セツさまのご厚意を無駄にするつもり?」
そうしたいのは山々だがと、譲はかぶりを振った。
「……眠れないんだ」
「横になって目を閉じていればそのうち寝付くわよ。さあ寝なさい」
「だから、寝たくても眠れないんだってば」
「夢を見て起きるなら、わたしが」
「最初はそうだった。でも……今は、殆ど眠れない。眠れたとしても、すぐ目が覚める」
眠気を覚えて布団に入る。しかし、横になった途端に目が冴えてしまう。眠るのを恐ろしいと思うことと無関係ではないと思うが、譲にはどうすることもできない。
玉藍は不思議そうに小首をかしげた。
「一体、どんな夢を見るわけ?」
「別に……、待て、なんで俺が夢のせいで眠れないって知ってるんだ?」
「セツさまに伺ったのよ。あなた、セツさまに、夢見が悪くて寝不足だって言ったでしょう」
「……言った」
かなり前だが心当たりがあるので、譲は頷いた。そのときは、こうまで深刻になるとは思わず冗談半分だったが、雪はそれをずっと気に留めておいてくれたらしい。
「それで、どんな夢なの」
「……大丈夫だ。見鬼とは関係ないと思う」
答え倦ねて、わざと的外れなことを返せば、案の定、玉藍は訝るように譲を見る。
「見鬼の話なんか今はしてないわ。わたしはどんな夢を見るのかと訊いたのよ」
譲が言葉を探して無言でいると、玉藍は不意に話を変えた。
「セツさまの嘘には怒ったくせに、自分の嘘は許すのね」
思いがけないことを言われて譲は目を瞬く。
「俺は、嘘なんか」
「大丈夫じゃないのに大丈夫って言うのは嘘じゃないのかしら」
「……大丈夫だと思うからそう言うんだ」
「やせ我慢も大概にしないと死ぬわよ」
玉藍は雪がいないと容赦がなくなるようで、辛辣な言葉で次々と譲の逃げ道を塞ぐ。
「さっきの様子だと、親御さんにも話していないみたいね。そうやって一人で抱え続けて、何か解決すると思って? 辛いなら辛いって言えばいいじゃない。助けを求めるのは悪いことではないわよ」
「これは俺の問題だ。他人を煩わせるようなことじゃない」
低く返した譲を、玉藍は鼻で笑う。
「意外と独善的なのね。それとも誰も信用していないだけかしら」
「そんなこと……」
「自分が話したくないだけなのに、迷惑をかけたくないとか煩わせたくないとか、さも気を遣っているように見せかけるのはやめるのね。セツさまはずっと前からあなたを心配しているわ。煩わせたくないというのなら、もう手遅れよ」
「……俺、は」
「せめて家族にくらい打ち明けたらどうなの? 嵐じゃないんだから、丸くなっていても通り過ぎてくれないわよ」
「……寝る」
会話を一方的に打ち切り、譲は明かりを消して布団に潜り込んだ。枕元にいる玉藍の気配を努めて意識の外に追い遣り、どうせ眠れないだろうと思いつつも、強く目を閉じる。
(話せるわけ、ないだろ……)
昔から、両親は譲のせいで他人に頭を下げ続けてきた。譲は、己の目にだけしか映らない異形に怯え、現実と混同して周囲を困惑させることもしばしばあった。恐慌に陥り暴れたことは一度や二度ではないし、親が学校に呼び出された回数は数え切れない。それでも二人が譲を責めたことは一度もなく、むしろ自分たちの至らなさを嘆いているようだった。
両親に非は何一つない。自分には過ぎた人たちだと譲は思う。だからこそ、これ以上心労を増やすようなことはしたくない。なのに、自分の身体は言うことを聞いてくれない。
雪と壱矢が心配してくれているのは承知している。だが、気付かぬふりをした。不調の原因を尋ねられることを恐れ、露見したときの彼らの反応を恐れた。まだ付き合いは短いが、二人とも掌を返すような人間ではないということはわかっている。それでも、もしかしたらという恐怖にも似た不安は消えない。
雪を信用していないわけではない。譲と見るものを共有してくれて、譲の目にも頭にも異常はないと言ってくれた相手だ。譲はどこもおかしくない、ちょっと感度のいい目を持っているだけだと言われたとき、不覚にも泣きそうになってしまったことは記憶に新しい。そんな言葉をくれた人は、これまで誰もいなかった。
けれど、だからこそ、愛想を尽かされたら、離れて行かれたらと思うと、
あの事故で、自分は生き残って良かったのだろうかと、何度も考える。夜毎夢で繰り返される光景は、罰なのではないかとすら思う。忘れることはおろか、記憶を薄れさせることも許してはくれないのだ。
(やっぱり……俺のせい……)
自分の見ている他人には見えない「何か」が、自分だけの幻覚なのではなく、周囲にも影響を及ぼす存在だったのだとしたら、自分があのバスに乗らなければ事故は起きなかったのではないかと、譲は思うのだ。
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