二章 2-2
* * *
四人とはアーケード街の入り口で別れた。譲の自宅は南へ帰る彼らとは逆方向にある。壱矢と雪も、今日は月子と彩葉を送りがてら在来線で帰るということだった。
コンサートが終わり、人影もまばらになった帰り道を、一人でふらふらと歩く。五月も末だというのに、夜気が肌寒い。東京は五月末にもなれば殆ど夏だ。
酷い睡眠不足のせいか、頭の中がずっと霞がかったようになっている。頭痛も相変わらずだ。最近では時折目眩もするようになって、日常生活にまで支障を来し始めている。ここからなら自宅まで歩いて帰れる距離なのだが、それすらも億劫で地下鉄を使うことにする。
(……もうすぐ中間テストだってのに)
どうにかしなければとは思うが、具体的な方策が思いつかない。病院が嫌だと言っている場合ではないが、そもそも、どこの病院の何科へ行けばいいのかもわからない。この間は、親を安心させるために、夏風邪だと偽って内科へ行った。風邪の薬と睡眠薬を出されたが、当然と言うか案の定というか、症状は一向に改善しない。
それでも、早くなんとかしなければと、雪の驚いた顔を思い出して譲は落ち込みをぶり返した。
(うたた寝でも駄目なんて……)
コンサート中の居眠りにすら例の夢は追ってきた。油断していただけに酷く驚き、演奏中だというのに危うく悲鳴を上げるところだった。思わず縋ってしまった雪には悪いことをした。さぞや肝を潰したことだろう。
帰ったら眠ってみようかと考える。だが、どうせ眠れないか、よしんば眠れたとしてもきっとまた夢を見るに違いない。
考えを纏められないままぼんやりと歩いているうちに、地下鉄の出入り口が見えてきた。
階段を下りようとして、不意に視界が回った。咄嗟に腕を伸ばしても手すりは遠く、指が宙を掻く。
「あ……」
「危ない!」
まずい、と思った瞬間、譲は強い力に腕を掴まれて引っ張り上げられていた。驚きながらも足に力が入らず、譲はその場にへたり込んだ。助けてくれた人影は、譲を覗き込むようにして少女の声で言う。
「待ってて、今セツさまを呼んでくるわ」
「……え?」
なんのことだと問う前に少女は姿を消した。目眩のせいで動けず蹲っていると、やがて遠くからばたばたと慌ただしい足音が近付いてくる。強く目を閉じて片手で額を押さえつつ、早く立ち上がらなければならない、こうしているのを見られたくないと考えていると、足音は譲の傍らで止まった。
「譲!」
聞き覚えのある声に呼ばれて、やっとのことで顔を上げれば、いつもよりも暗くて狭い視界の中央に雪の心配顔があった。
「雪……?」
四人で帰ったはずでは、という意味をこめて呼べば、雪はほっと息をついて表情を緩めた。
「大丈夫か? 玉藍に、言われて……」
走って戻って来たせいだろう、息を弾ませている雪を譲は呆然と見上げる。上手く回らない頭でなんと言ったらいいか考えているうち、呼吸を整えた雪は譲の傍らに膝をついた。
「真っ青だぞ。貧血起こしたんじゃないか」
この視界の狭さと目眩は貧血のせいだったのかと、妙に納得して譲は膝の上に両腕をのせ、顔を埋めた。自覚が追いつくと、胃がむかついて、冷や汗のせいか変に寒い。背に添えられている雪の手がやけに温かく感じられた。
しばらく動かずにいると落ち着いたので、譲はそろそろと顔を上げた。気付いた雪が首をかしげる。
「もういいのか?」
「……悪い」
「いや、いいよ。俺より自分の体調気にしろよ」
「うん……」
地下鉄の駅へ向かう人々が、視線を向けながら傍を通り過ぎて行く。道端に座り込む迷惑な学生だとでも思われているかも知れない。
ずっとここに座っているわけにもいかない。譲はまたふらつかないよう注意しながら、重い腰を上げた。とりあえず目眩と吐き気は治まったので、この隙に家まで辿り着かねばならない。
「それじゃ」
「ああ」
頷きながらも、雪は一緒に階段を下りてくる。三人のところに戻らなくていいのだろうかと、譲は雪に尋ねる。
「……電車で帰るんじゃなかったのか?」
「うん? うん」
曖昧な返事をした雪は、定期を取り出して改札を通ろうとした譲を引き留めた。そのまま腕を掴んで券売機のところへ引っ張っていく。
「なんだよ。俺は切符要らねえっての」
「知ってるよ。
「何が?」
「譲の最寄り駅」
「そうだけど、それがどうしたよ」
「ついでだから家まで送る」
事も無げに言う雪の言葉を聞いて、譲は目を見開いた。気持ちはありがたいが、そこまでして貰うわけには行かないと慌てて手と首を振る。
「もう治った。一人で帰れる」
「また貧血起こしたら大変だろ。さっきは譲が地下鉄乗る前だったから来られたけど、電車の中とか町中で倒れたらどうすんだよ」
「それは……大丈夫だ」
「譲の大丈夫は信じないことにしてる」
「なん……」
「気にすんなよ、ついでなんだから」
雪は取り合わずに切符を買ってしまった。何のついでなのだと思ったが、これ以上言い合う気力がなかったので説得を諦め、譲は口を閉じて改札へ足を向けた。
気遣ってくれるのがありがたくも申し訳ない。そして、煩わせていることをわかっていながら、心を砕いてくれるのを嬉しいと思ってしまう自分が嫌になり、更にすまなく思う。
(迷惑かけてばっかりだ……)
落ち込みながら、でもそれを悟られてはいけないと思い、譲は顔を上げて歩く。無機質な蛍光灯に照らされた夜の地下鉄の駅が、妙に暗く感じた。
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