二章 2-1

 2


 雪が会場に着いたときには既に行列ができていた。

 五人固まっては座れないのではないかと危惧したが、二階席をなんとか五つ確保することができた。通路を挟んで右側に譲と雪、壱矢、左側に月子、彩葉の順に座る。

 月子は萩女の友人から余ったチケットを貰ったと言っていたが、チケットが余るとは思えない盛況ぶりである。月子か彼女の友人が、気を遣ってくれたのかも知れない。

 譲が身を乗り出して言う。

「俺、部活のコンサート来るのは初めてなんだけどさ……こんなに混むもんなんだな」

 逆の端の彩葉も身を乗り出した。

「指定席じゃないから、並んじゃうんだよね。みんなで座れて良かったねえ」

 嬉しそうに言う彩葉に頷きながら、壱矢がパンフレットを開く。

「月ちゃんの友達って、誰?」

 パンフレットには演目だけでなく、校長や顧問、部長の挨拶、各パートのメンバー紹介などが掲載されている。パート毎に集合写真と名前が載っているページを覗き込み、月子が一人を指差す。

「チェロの子よ。えっと……ああ、この子」

 月子の指す先を見て、雪もパンフレットを開いて該当の生徒を捜す。その中で不思議な物を見つけ、雪は首をかしげた。

(……あれ?)

 フルートのパート写真の右上に別枠で映っている生徒がいる。それだけならば写真を撮った日に欠席だったのだろうと思うのだが、もう一人、トランペットのパート写真にも別枠の生徒がいた。二人が、同じ写真を使ったのではないかと思うほどそっくりなのだ。

 手違いで不要なパートにも欠席の写真を載せてしまったのだろうかと、雪は隣の譲をつついた。

「なあ、これさ……譲?」

 譲は雪に気付かぬ様子で、食い入るようにパンフレットを見つめている。その横顔は強張っていて、コンサートのパンフレットを読んでいる表情ではない。

「なんか気になることでも?」

 尋ねると、譲はようやく気付いたようだった。ぎこちない動作で雪を見て、小さくかぶりを振る。

「……なんでもない」

 なんでもなくなさそうだったが、それを言う前に開演前のブザーが鳴った。会場の照明が明度を落とし始め、それとともにざわめきも鎮まる。演奏中の注意を促すアナウンスが流れると、照明が完全に消えた。するすると緞帳が上がって拍手の中を指揮者―――オケ部の顧問が現れた。指揮台の横で一礼し、拍手の中台に上って指揮棒を構える。

 指揮棒が振り下ろされると同時に、舞台に並んだ生徒たちが聞き覚えのある旋律を奏で始めた。

 曲名が思い出せず、なんだっただろうかと考えながら耳を傾けることしばし、左隣から肩の上にこてんと頭が落ちて来た。何事かと雪は目を見開くが、寄りかかってきた壱矢はすやすやと静かな寝息を立てている。

「おい……」

 何度か肩を揺すってみても、首を逆側に倒しただけで起きないので、雪は仕方なく顔を正面に戻した。オープニングに相応しく派手な曲調なのだが、壱矢には子守歌に聞こえるらしい。

(部活で疲れてんのかね)

 壱矢越しに月子と彩葉へ視線を遣れば、二人は真剣な面持ちでステージを見ていた。萩女は上手いと壱矢が言っていたし、同じオケ部として見所があるのだろう。

 やがてオープニング曲が終わり、二曲目が始まる。今度は穏やかな曲調で、やはり聞いたことはあるのだが曲名は思い出せなかった。休憩時間にでもパンフレットを確認してみようと思う。

 右肩に軽く何かが当たったのでそちらを見ると、譲もこくりこくりと舟を漕いでいた。両脇で寝られて、雪は苦笑する。これが月子たちのコンサートでないことが幸いだ。

 二人につられるように眠気を感じ、欠伸を噛み殺していると、強く右の二の腕を掴まれて雪はびくりと身体を揺らした。

「……っ」

 辛うじて声を上げなかったのは、演奏中だという意識が働いたからだ。おかげでこちらに注意を払う者はいない。

 上腕を掴んでいる譲は、もう片方の手で口を押さえ、せわしない呼吸を繰り返していた。その様子が尋常ではないので、雪は彼を覗き込み、背中をさすってやりながら周囲には聞こえないように囁く。

「譲? どうした、具合悪い?」

 譲は口元を押さえたまま、殆ど震えるように小刻みに首を左右に振った。呼吸は落ち着いてきたようだが、薄暗い中で見てもわかるほど顔色が青ざめていて、到底平気そうには見えない。雪の腕を掴んでいる譲の手は、服越しでもわかるほど冷えていた。

「出るか? 外で休んだ方が……」

 譲は先ほどよりもしっかりと、やはりかぶりを振る。そして、掠れる声で呟いた。

「なんでもない……ごめん」

 雪の右の二の腕を掴んでいた手が、か細い声に引きずられるように放れていく。

 無理矢理引っ張って出るわけにもいかないので、雪はなるべく軽く聞こえるように言った。

「なんだよ、変な夢でも見たのか?」

「―――…」

 息を飲んで弾かれたように雪を見た譲が、玉藍を見える見えないの問答をしたときと同じ顔をしていて、雪は目を瞬く。

 譲は束の間雪を見つめ、迷うように唇を動かしたが、何も言わないまま目を伏せて顔を正面に戻した。唇を引き結んだ横顔は何を問うても答えてくれなそうで、雪も演奏の続くステージへ目を向ける。

(本当に夢見が悪くて睡眠不足なんだとしたら……やっぱり先月からずっと)

 居眠りをしたところおかしな夢を見て飛び起きた、というのが真相であるにしては、今の譲は随分と追い詰められているように感じられた。

 雪が譲から寝不足だというのを聞いたのは四月の末頃ことである。数日前、弓道場でも似たようなことを言っていた。それが彼自身が思っているよりも遙かに深刻で、体調にも影響が出始めているのだとしたら。

(確か、引っ越して来てからっつってたな……東京にいた頃はなかったってことか)

 雪は考えを巡らせる。そんなに長い間、悪夢を見続けているのなら、何か原因があるはずだ。

(……譲は素直に教えてくれそうにないしな)

 しばし考え、雪は声を出さずに玉藍を呼んだ。雪に仕えていると言い張る玉藍は、どんな状況でも雪が呼べば答えてくれる。コンサートホールの中、衆目のあるところなので、玉藍は姿を現さずに気配だけが雪の傍らに現れた。

『お呼びでしょうか、セツさま』

 己にしか聞こえない声に雪は小さく頷いた。やはり声は出さず、唇だけを僅かに動かして言葉を伝える。

「……一つ、頼まれてくれるか?」

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