二章 1-2
* * *
譲が登校してきたのは、四時間目が始まる直前だった。ほぼ同時に教師が来たので話す時間はなかったが、譲は教室の空気と、自らに向けられる視線の質がいつもと違うことに気付いているらしかった。
四時間目が終わり、昼休みになると同時に壱矢が身体ごと後ろの席を振り返った。
「出てきて大丈夫なの? 顔色悪いけど。風邪?」
いつもと変わらぬ調子で言われて譲は戸惑ったようだった。教科書をしまいながら曖昧に首肯する。
「まあ……そんなとこ。病院行って薬貰ってきたから大丈夫だ」
「ならいいけど。無理は駄目だよ、夏風邪は長引くんだから」
まるで母親のようなことを言う壱矢に苦笑しつつ、雪は口を挟む。
「出たよオカン」
「誰がお節介か」
「お節介だなんて言ってないだろ。なんて言うか、壱矢は心底お兄ちゃんだよな」
「そりゃおれは長男だけどね、せっちゃんとは二週間しか違わないでしょ。君は二週間に何を期待してるわけ?」
「なんだよ、二週間はでかいだろ。壱矢が三月で俺が四月に生まれてたら先輩と後輩だぞ」
「おれは十一月でせっちゃんは十二月生まれでしょ。―――ちなみに、譲は?」
「七月」
短く返った答えを聞いて、壱矢は雪へ譲を示す。
「ほら、いたじゃん。おれよりお兄ちゃん」
「ほんとだ、こんな身近に。お兄ちゃん、ジュース奢って」
「なんでだよ。やだよ」
雪の軽口に譲が顔を顰めたところで、壱矢がひらひらと片手を振った。
「それはおいといて。せっちゃんはお弁当だよね。譲、今日のお昼は?」
「俺も弁当だけど……なんだ?」
譲の質問を受け取らず、壱矢は頷く。
「じゃあ大丈夫だね。お昼行こ」
「……?」
譲はまったく腑に落ちていない表情で雪を見たが、雪とて壱矢が何を考えているのかわからないので、そんな顔をされても困る。首をかしげ返して、二人で壱矢の後に続いた。弁当を片手に教室を出て行く三人を―――譲を、多くの物問いたげな視線が追ってくる。
(クラスの連中に話しかける隙を与えないように……?)
壱矢がマイペースなのはいつものことだが、今日はいつになく強引な気がする。
途中で食堂の中にある購買に寄って壱矢の昼食を買い、壱矢が向かった先は弓道場だった。昼練をする部員もおらず、三人しかいない弓道場は静まり返っている。
中に入ったことは何度かあるが、食事をするのは初めての雪は、周囲を見回しながら壱矢に問うた。
「もうすぐ高校総体なのに、誰もいないんだな。いいのか? 勝手に入って、しかも物食べて」
「ここなら平気。そこ入った先からは飲食禁止だから行かないでね。―――朝はともかくお昼はそんなに時間ないから、中途半端な練習するなら、放課後集中して練習しなさいってのが先生の方針でさ」
言いながら適当に床に座り、壱矢は牛乳パックにストローを刺す。
「ここなら落ち着いて食べられるでしょ」
壱矢の言葉に含まれた意味を正確に読み取ったか、譲は雪と壱矢を探るように見た。
「なあ……俺、何かやったか?」
どう伝えたらいいのだろうと、雪は言葉を濁す。
「譲がってんじゃないよ。ちょっと、噂がさ」
「噂? 俺の?」
「譲が東京で起きたバス事故の被害者だって」
あまりに直截な物言いに雪は瞠目して壱矢を見た。それから、そっと譲の様子を伺う。壱矢は平然と焼きそばパンを囓り、対照的に譲は箸を手にしたまま動きを止めている。
下手にフォローするのも躊躇われて、黙って待っていると、凍り付いていた譲が唇を震わせた。
「なんで……今更」
否定ではなく、独白のような呟きに、口の中のものを飲み込んで壱矢が答える。
「噂の出所は萩女らしいけど、心当たりある?」
「ハギジョ?」
「白萩女学園。私立の女子校」
譲は自らの弁当に手を付けることなく考え込んでいたが、やがてぼそぼそと話し出した。
「……被害者の一人が少し前にこっちに転院して来た。前はどこに入院してたの知らないけど、ここが地元なんだって。女だから女子校に通っててもおかしくないな」
納得して雪は頷いた。
「ああ、やっぱり被害者ネットワークみたいなのがあるんだ」
「あるけど、俺はあんまり……かすり傷だったから」
「そっか。よかったな」
雪はあまり考えずに言ったのだが、譲は驚いた様子で僅かに瞠目した。しかし、すぐに目を伏せて呟く。
「……かった……のかな」
「え?」
「ん?」
譲の呟きは壱矢には届かなかったらしい。聞き返した雪に反応したらしい壱矢へ片手を振って譲に視線を戻す。目が合い、譲は一瞬怯んだようだった。その理由を雪が尋ねる前に、譲が口を開く。
「こっちでも、その……ニュースになったのか?」
焼きそばパンを食べ終えた壱矢が首をかしげる。
「全国ニュースになったなら流れただろうね。覚えてないけど」
「東京の話だし、乗客に身内とか知り合いとかがいなきゃ、すぐ忘れるだろ。良くも悪くも」
言ってしまってから、譲が深刻な表情で俯いているのに気付き、雪は続けた。
「だから、いろいろ訊かれるかも知れないけどあんま気にすんな。気が済むか飽きるかしたら収まるさ」
「……ああ」
浮かない顔で頷く譲の顔色がますます悪くなっているような気がして、雪は彼の顔を覗き込んだ。
「譲、本当に大丈夫か? 帰って寝た方がいいんじゃないのか」
「大丈夫。どうせ眠れないし」
眠らないのではなく眠れないのかと、雪は眉を顰めた。
「そういや、前にも寝不足みたいなこと言ってたな。……まさか、あれからずっと?」
だとしたら一箇月以上続いているのではないかと問えば、譲は慌てたように首と手を振る。
「いや……言い方が悪かったな、ちょっと寝付きが悪いだけだ」
「それにしたって……」
「どうしたんだよ、雪まで壱矢みたいなこと言って」
この話を続けたくないらしく、譲がやや強引に雪を遮る。聞き捨てならないとばかりに壱矢が身を乗り出した。
「ちょっと。譲それどういう意味?」
「どうもこうも、そのまんまの意味だ」
半ば呆れた口調で言う譲に、壱矢は眼鏡を押し上げて笑みを向けた。
「この中では譲が一番のお兄ちゃんなのにねえ。おれ一番上だからさ、お兄ちゃんかお姉ちゃんが欲しかったんだよね」
「俺の目を見て言うな」
「そうだお兄ちゃん、これ。月ちゃんから預かったんだ」
「さらっと呼ぶな」
譲の抗議を無視して、壱矢はブレザーのポケットから萩女のコンサートチケットを取り出した。差し出された譲は受け取り、目を瞬く。
「定期演奏会?」
「萩女のオケ部のコンサート。チケット余ったやつ友達に貰ったんだって。五人で行かないかって、月ちゃんが」
「へえ……」
珍しそうにチケットを裏返しながら見て、譲は印刷されている文面を読み上げる。
「五月三十日、土曜日。会場十七時半、開演十八時。……どこだこの東京なんとかホールってのは」
どう説明すればいいだろうと、雪は眉を寄せた。
「あそこ……あれ、市民図書館の近く。前は県民会館って呼ばれてた」
「ああ、
「そうそう」
「結構でかいとこでやるんだな」
譲に同意するように壱矢が頷く。
「このあたりの高校のオケ部とか吹奏楽部とかは、大体あそこでコンサートするみたいだよ。萩女は結構上手いって評判」
不思議そうな顔をした譲が口を開く前に、壱矢は補足する。
「上の妹が中学で吹奏楽やってんだ」
「なるほど。ちなみに楽器は?」
「ユーフォニウム」
「ユーフォ……?」
「ユーフォニウム。なんか、チューバを小さくした感じの。おれも妹が始めるまで知らなかった。―――せっかくだから行ってみようかな。土曜だから部活早く終わるし。二人は?」
譲は軽く首をかたむける。
「俺も特に予定ないけど、クラシックコンサートって必ず寝ちまうんだよな」
おや、と雪は目を瞬いた。
「譲、クラシックのコンサート行ったことあるんだ? セレブー」
「セレブー」
二人の軽口に譲は顔を顰める。
「なんでだよ。そんな珍しい話じゃないだろ」
「おれ行ったことないよ。多分せっちゃんも」
「うん。ない」
雪が頷くと、譲は顔を顰めたまま卵焼きを食べた。まあまあ、と雪は片手を振る。
「眠いくらいで丁度いいんじゃねえの? 睡眠不足を解消しろよ」
「……コンサートで寝ろって言われたのは初めてだな」
飲み終わった牛乳パックを潰しつつ、壱矢が言う。
「コンサートは寝るよね。去年も、うちのオケ部のコンサートで、おれとせっちゃん寝ちゃったし。そんときは月ちゃんに散々恨み言を言われたなあ。はーちゃんは、眠っちゃうくらい演奏が心地良かったってことだよって言ってくれたんだけど」
「日村は前向きだな」
「はーちゃんのいいとこだよね。そんじゃ、三人行くって月ちゃんに言っとくね」
「おう……ん?」
「うん?」
頷きかけて、雪は譲と視線を交わした。壱矢はにこにこと譲の弁当を指差す。
「ほらほら、食べないと昼休み終わっちゃうよ」
脈絡なく壱矢に指摘され、譲はぱちくりと目を瞬いた。そして、手元の弁当箱に視線を落として曖昧に頷く。
「ああ……うん」
上手く丸め込まれたような気がしないでもないが、このまま喋っていると本当に予鈴が鳴りかねないので、雪も自分の昼食を片付けにかかった。お茶のペットボトルに手を伸ばしてふと、壱矢とのやり取りを思い出して譲に問う。
「譲、お見舞い行ったか?」
一瞬通じなかったようで譲は
「行った。親と一緒にだけど」
「そっか」
ならば壱矢の話していた、お見舞いに行った先で譲と萩女の生徒が鉢合わせという可能性はある。
「それがどうかしたか?」
「いや、話が戻るんだけど。譲のことがどっから萩女の生徒に漏れたのかなって。お見舞いに行ったときに萩女の誰かに会ったのかと思った」
雪の説明で譲は納得したようだったが、複雑そうな顔をする。
「相手の親以外には会わなかったけど……俺のことを誰が知ってるかは俺も知らないからな。俺を知ってる誰かに見られたのかも知れないし、話を聞かれてたかも知れない」
「その可能性もあるか」
パンを食べ終わって手持ち無沙汰そうな壱矢が言う。
「譲、噂の
しばし考え、譲はかぶりを振った。
「出所がわかってもどうしようもないからな。みんなが飽きるのを待つさ」
呟くような言葉には諦めのような響きが感じられて、雪は譲の様子を窺う。
「あんま思い詰めんなよ?」
譲は驚いたような顔になって雪を見ていたが、やがて無理矢理のように小さく笑った。
「大丈夫だよ」
まったく大丈夫そうには見えなかったが、それ以上言及することはできずに、雪は無言で空の弁当箱を包み直した。
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