二章 1-1
二章
1
「鷹谷くん、神倉くん!」
美術室から教室へ戻る途中、廊下で呼び止められた雪と壱矢は同時に足を止めて振り返った。
後ろからクラスメイトの女子生徒が数人、小走りに近付いてくる。同じクラスとはいえ彼女たちとは殆ど話した覚えがなく、雪は首をかしげながら応じる。
「何?」
追いついてきた女子生徒たちはやや躊躇う様子を見せ、その中の一人が思い切った様子で口を開く。
「ねえ、佐瀬くんがバス事故の被害者だってほんと?」
『は?』
声が重なり、二人は顔を見合わせた。壱矢は寝耳に水だという表情をしており、自分も同じような顔になっているのだろうと思いつつ、雪は問い返す。
「バス事故って?」
雪の言葉を聞いた少女たちは、視線を交わすとあからさまに残念そうな顔をした。
「あたしたちも詳しくは知らないの。ただ、そういう噂があって……鷹谷くんと神倉くん、佐瀬くんと仲いいでしょ? 何か知ってるかなって思って」
雪が思わず壱矢を見ると、彼は無言で首を左右に振った。どんな噂か尋ねると、彼女たちは口々に言う。
「だから、佐瀬くんがバス事故に遭ったけど、助かったって」
「でも、酷い怪我したんだって」
「二月頃、東京でバス事故があったんだって。死んだ人もいて、全国ニュースにもなったらしいよ」
壱矢は重ねて問う。
「誰から聞いたの?」
質問の内容が意外だったのか、女子生徒たちは顔を見交わした。
「あたしたちの中で言い出したのはマユじゃない」
「わたしは二組の子から聞いた」
「二組って、ミサちゃん?」
「うん。でも、ミサちゃんが誰から聞いたかは知らない」
「何それ、いい加減」
「仕方ないでしょ、そのときはそんなの気にしなかったんだから」
この様子では発信源を絞るのは難しそうだ。雪は首を左右に振った。
「……そういう話は聞いたことない」
「そっか、知らないならいいんだ。ごめんね、変なこと訊いて」
一方的に言い、彼女たちは廊下を戻って行った。その後ろ姿が遠くなってから、壱矢が首をかしげてみせる。
「……どう思う?」
「どうって……噂だろ、譲本人から聞いたわけじゃなし」
全国ニュースになったなら事故のことを知っている人間がいてもおかしくないが、負傷者の名前は流さないだろう。たとえ本当のことでも、譲がわざわざ自分は事故の被害者なのだと吹聴するとは雪には思えない。
「なんで今なんだろうね。譲が転校してきて、もうすぐ二箇月なのに」
「だよな。四月に噂されるならまだしも」
現在は五月の下旬だ。そろそろ衣替えかという時期で、譲が転入生だという意識も薄くなっている。
壱矢は美術の教科書を丸めて自分の肩を軽く叩いた。
「新事実か何かが出て、関連ニュースがどっかでやってたのかもね」
「でも、やっぱりそこで生存者の名前は出さないだろ。被害者なのにさ」
「それもそっか。じゃあなんでだろう」
「さあ……藤野か日村なら詳しく知ってるかな」
「それはあるかも。女子ネットワーク」
「訊いてみるか」
教室の中には月子と彩葉の姿は見えない。まだ戻っていないのだろうかと廊下を見回すと、二人分の美術の教科書を手に月子が歩いて来るのが見えた。雪と壱矢の姿に気付いたらしく、声をかける前に月子が駆け寄って来る。
「丁度良かったわ。はい、はい」
月子から差し出されたチケットを思わず受け取り、雪は目を瞬いた。横長のチケットには大きく、「第三十七回定期演奏会」と印刷されている。
壱矢が月子に尋ねた。
「今年は早いんだね。去年のコンサートは六月末じゃなかった? 三〇〇円だっけ」
「よく見なさいよ。うちのじゃないわ、萩女の。もらい物だからお金は要らない。これ、佐瀬にも渡して」
「わかった。でも、萩女って、なんでまた」
萩女とは、白萩女学園のことである。お嬢さまが通う学校として有名な私立女子校だ。
「去年のクリコン……クリスマスコンサートね、うちと萩女と桜山高校が合同で演奏したの。その時仲良くなった萩女の子がくれたのよ。余ったからって十枚くらい。暇なら一緒に行かない? 五人で。考えといて」
言うだけ言い、去って行こうとする月子を、雪は慌てて呼び止めた。
「ちょっと待って」
月子は足を止めて雪と壱矢に向き直る。
「何?」
「日村は?」
「片付けの当番だから、まだ美術室。彩葉に用?」
月子が持っているもう一冊の教科書は彩葉のものらしい。雪はかぶりを振りながら言う。
「いや、藤野にも訊きたいことがあるんだ」
「改まって、珍しいわね」
首をかしげる月子にさきほど聞いた譲の噂の話をすると、彼女ははいともあっさりと頷いた。そして、顔を顰める。
「もうそんな広まってるの。嫌ね」
壱矢が重ねて尋ねた。
「月ちゃん、知ってるの? はーちゃんも?」
「彩葉も知ってるわ、一緒に聞いたもの。詳しくは知らないけど、噂の出所は萩女よ」
再び萩女の名が出て、何故そんなところから出てくるのかと雪は眉を顰めた。
「なんでまた萩女から」
「萩女にもバス事故の被害者がいるんだって。二年生らしいわ」
月子は興味なさげな口調で言うが、これには雪も驚き、瞠目する。
「……萩女に? しかも、同い年?」
「その子も転校生なの?」
「ううん、東京に行ったとき、たまたま事故に遭ったんですって。その子は未だに意識が戻ってなくて……少し前に、東京の病院からこっちの大学病院に移って来たんだって。それが萩女で広がって、うちの学校にも飛び火したんでしょ」
「でも、同じ事故の被害者とはいえ、譲が東京から引っ越して来てることまで知ってるか?」
「だから、詳しくは知らないってば。わたしだって又聞きの又聞きくらいなのよ」
「藤野は誰から聞いたんだよ」
「わたし? さっきも言った、萩女の友達から」
彼女は美術の教科書の角を顎に当てて考えるような素振りを見せる。
「でも、確かに妙ね。被害者の会みたいなのがあるのかもしれないけど……そこから漏れたのかしら?」
「被害者が言いふらすとは思えないけど」
「じゃあ第三者」
「第三者ってったって」
「あ、待って、あたしたち、次の時間は生物室で実験なの。その話はまた後でね」
時計を見て雪を遮り、月子は慌てた様子で教室へ走り込んだ。そのままの勢いで二人分の別の教科書を片手に飛び出していく。そして間もなく三時間目の開始を告げるチャイムが鳴った。雪たちは教室で物理の授業だ。
教室の扉を潜りつつ、雪は呟く。
「……なんか嫌だな。本人のいないとこで」
「おれたちは本人に訊けばいいじゃない」
最早確定事項のことのように言う壱矢を、雪は振り返る。
「訊くのか?」
「訊かないの? この様子だと、どうせすぐに譲の耳にも入るよ」
「それは、まあ……」
これだけ広がってしまえば、譲が聞くのを阻止する手立てはないだろう。
本人がいればこうも大っぴらに無責任な噂はされないと雪は思うのだが、間の悪いことに、本日遅れて登校してくるという譲はまだ姿を見せない。
壱矢の言うとおり本人に訊くが一番いいのだろうが、他人が気軽に触れていいことなのか雪にはわからない。なんの気負いもなく正面から尋ねてしまえるのであろう壱矢を少々羨ましく思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます