一章 1-3
* * *
とぼとぼと校門を目指して歩きながら、譲は何度目かのため息を吐き出した。
(……言わなきゃよかった)
今考えれば、自分は冷静でなかったのだと思う。幻かも知れないと思った相手が転入先のクラスにいて、目が合ったときに相手も気付いたような顔をしたから、話せるかも知れないと思ってしまった。
やはり幻覚だったのだ。譲が雪だと思った少年も、あの手足も、三毛猫も。一人で白昼夢のようなものを見ていた。たまたま幻が雪に似ていただけだ。似たような三毛猫が雪の肩にいたが、同じ幻覚が何度も現れるのは珍しいことではない。
(絶対変に思われた。初日から何やってんだ俺)
初対面の相手にする話ではなかった。転入生は頭がおかしい、気味が悪いことを口走ると言いふらされたらと考え、譲はますます落ち込んだ。ここでも居場所を失うのだろうかと肩を落としながら歩いていると、視界の端で何かが動き、譲は顔を上げた。
校門の脇に黒い
(……気持ち悪い)
靄に近付くにつれて抵抗感が増し、やはり引き返そうか迷っていると、靄が唐突に消えた。文字通りの雲散霧消に何が起きたのだろうと目を瞬いている間に、見覚えのある人影が校門を入ってくる。
眼鏡をかけた男子生徒は、白の胴衣に黒い袴を身につけていた。譲に気付いて軽く首をかしげる。
「あれ、佐瀬くんだ。今帰り?」
呼ばれて、譲は彼がクラスメイトなのだと気付いた。だが、名前が思い出せない。ホームルーム後は好奇心旺盛な数人に囲まれていたため、彼ら以外とは話ができなかった。
「……ええと、確か前の席の……」
言葉を濁す譲に、彼は気を悪くしたふうでなく笑んで言う。
「神倉壱矢。よろしく」
名乗ってくれたので安堵しながら、譲は頷いた。
「よろしく。―――その格好、部活?」
問えば、袴姿の壱矢は両手に提げたコンビニの袋を少しだけ上げて見せた。中身はペットボトルのお茶やジュース、菓子類らしい。
「そう。じゃんけんに負けてパシり中」
「なるほど。剣道……いや、弓道か」
言い直すと、壱矢は嬉しそうに首肯した。
「当たり」
「いつもその格好で練習してんの? 大変そうだな」
「いや、いつもはジャージだよ。今は新入部員獲得に向けて特別。入学式が終わったところを待ち構えて勧誘するんだって。結構人気あるんだよね、弓道衣。もう、入部の動機なんてなんでもいいからさ」
入部届を出させてしまえばこっちのものだと、壱矢は悪びれもせずに笑う。
「佐瀬くん、部活する? 暇なら今から見学に来ない?」
誘われたのが意外で、譲は目を瞬いた。どうせこの後は家に帰るだけだし、見学してみようと頷く。
「部活のことはまだ決めてないけど……行ってもいいか?」
「大歓迎」
壱矢はビニール袋をがさがさ言わせながら両手を広げた。
「うちの弓道部って女子が多くてさ、おれたち肩身が狭いんだよ。二、三年合わせて男子は六人だけ。女子はその四倍」
「随分差があるんだな」
「うん。だから、なんとしても新入部員を引っ張り込まないとね。三年生が引退したら男子二人になっちゃうから。―――よし。気が変わらないうちに早く行こう」
歩き出す壱矢に並び、譲は片手を出した。
「一つ持つよ」
「え? ああ、じゃあ……、悪いけどお願い」
言いながら壱矢が差し出した袋は、もう片方よりも明らかに軽そうに見えた。しかし、それを言っても押し問答になりそうな気がして、譲は素直に受け取った。
「佐瀬くんってさ」
「呼び捨てでいいよ」
『くん』をつけて呼ばれるのがくすぐったくて口を挟めば、壱矢は小さく首をかしげた。
「そう? なら、俺のことも壱矢でいいよ。―――譲はさ」
「……う、うん」
一足飛びに名前を呼ばれ、戸惑いながらもまあいいかと譲は頷いた。壱矢はのんびりと続ける。
「せっちゃんと知り合いなの?」
「せっちゃん?」
耳慣れない呼び名に眉を顰めれば、壱矢が説明してくれる。
「鷹谷雪。俺の隣の席の。譲からは右斜め前だね。今日、二人ともびっくりしたような顔してたから、知ってるのかなと思って」
二人とも、ということは壱矢にも雪が驚いているように見えたらしい。しかし、先ほど雪は譲と遭遇したことを否定していた。思い出して気持ちが沈み、譲は首を左右に振る。雪に似た幻を見た、それだけだ。
「……いや、人違いだ。鷹谷じゃなかった」
「似てる人を知ってるんだ?」
「うん、まあ……うん」
幻は知っている内に入るのだろうかと思いつつ、譲は曖昧に頷いた。壱矢は気にしたふうもなく言う。
「世の中には三人は似た人がいるって言うよね。会ってみたいかも―――あ、こっち。弓道場は体育館の裏なんだ」
言うだけ言って、壱矢はすたすたと歩いて行く。
(……マイペースなんだな。うん)
胸中で結論づけ、譲は壱矢に歩調を合わせた。歩きながら、落ち込んでいた気分が軽くなっていることに気付き、己の単純さに苦笑する。雪とのやりとりは、忘れてしまうことにした。
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