一章 1-2



     *     *     *



 放課後。

 友人は皆なんらかのクラブに所属していて、部活をしていない雪は大抵、下校は一人だ。

 残る理由もないので帰ろうと人気のない廊下を歩いていると、ふわりと眼前の空気が揺らいだ。それは一瞬で、収まった後には数歩先の床に三毛猫がちょこんと座っている。

玉藍ぎょくらん

 雪が呼ぶと、三毛猫―――玉藍は、雪の肩に飛び乗った。彼女の目的がなんとなく察せられて、雪はやれやれとぼやく代わりに、胸元に垂れてきた尻尾の先を軽く引っ張った。誰の耳があるとも知れないので、小声で囁く。

「来ちゃったのか」

 玉藍は尻尾を雪の手から引き抜いてぱたりと振った。

「だって、二年生の初日ですよ」

「過保護な親みたいなこと言うなよ。学年が変わっただけ。小学生でも始業式に出る保護者なんていないぞ」

 玉藍に、学校には来るなと言えば来なくなるだろう。彼女は雪の言いつけを最優先に守ろうとする。しかし、聞いてくれるとわかっているから尚更、雪は玉藍に対してあまり命令のようなことは言いたくない。実害がないからと己に言い訳をして、玉藍の好きにさせている。

「環境の変化を侮ってはいけません。体調を崩すきっかけになることもあるんですから」

「俺はそこまで繊細じゃないって」

 苦笑しながら言い、廊下の角を曲がってくる気配に雪は口を噤んだ。玉藍の姿は徒人ただびとの目には映らないし声も聞こえないので、話しているところを見られたら、独り言の多い不審人物に他ならない。声を出さずに会話することもできるのだが、雪はそれが苦手だ。考えていることと口に出していることの区別が付かなくなる。

 角から現れたのは転入生だった。彼は雪に気付いて驚いた顔になり、足を止めた。

「……鷹谷、だったよな」

 呼ばれては無視して行き過ぎるわけにも行かず、雪は立ち止まって首肯した。何か用かと尋ねる前に、転入生は雪の肩に目を止めて眉をひそめる。

「おまえの飼い猫か?」

 唐突に言われて雪はきょとんと譲を見た。

「飼い猫?」

「違うのか? だって、肩……」

 譲は言いさしてやめ、首を左右に振った。

「いや。なんでもない。俺の勘違いだ」

 雪の肩にいる猫ならば、玉藍に間違いないだろう。

(……玉藍のことが見えてる?)

 譲の双眸は雪ではなく玉藍を向いていて、勘違いも何もないのだが、返事を考えているうちに譲は別の話を切り出した。

「ちょっと、訊きたいことがあるんだけど」

「……何?」

 雪が問い返せば、譲は何度か躊躇うように唇を動かした。そして、思い切ったように言う。

「この間、会ったよな。市民図書館で」

 やはりそのことかと、雪は顔をしかめそうになるのを堪えた。上手く誤魔化す方法は思いつかず、仕方がないので白を切り通すことにする。

「……ええと、この間って?」

「十日くらい前、図書館の階の階段のところで。あの、幻覚……じゃなくて、ほら、無視しろって言っただろ」

「そうだっけ……佐瀬、の、勘違いじゃないか? じゃなきゃ、人違いとか」

 譲は不安げに瞳を揺らした。

「いや、でも……会ったと思うんだけど」

「んー……」

「……市民図書館には、行ったんだよな」

 確認するというよりは、どこか懇願する様子に見えたのが引っかかったが、雪は胸中で嘘はついていないと弁解しながら告げた。

「十日前なら、ずっと家にいたけど」

 譲の顔から表情が消えた。目を伏せて呟くように言う。

「そうか。変なこと訊いて悪かったな。忘れてくれ」

「あ……」

 雪が何かを返す前に、譲は踵を返して今し方来た方向へと戻って行った。廊下の真ん中に取り残された雪は、無言でそれを見送る。

(……間違えた)

 あの時のことを話すとなると、どうしても階段にいた浮遊霊のことに言及しなければならなくなる。普通の感覚ならば、ほぼ初対面の相手にそんな話をできるわけがない。佐瀬の様子からして、図書館でのことを切り出すのは一大決心だったに違いない。それでも確認しようと思ったのは、さっき教室で雪が気付いた顔をしてしまったからだろう。それなのに雪は、知らない振りをしてしまった。

 やがて、無言でいた玉藍が口を開いた。

「今の人、見えていますよ」

「うん?」

「わたしのこと。あの日、図書館でも。偶然か、気のせいかと思ったんですが……今も見えていたみたいですし、間違いないと思います」

「……本当に玉藍が見えてるんだとしたら、相当だな」

「相当ですよ。―――よかったんですか、あんな嘘ついて」

「十日前に外出してないのは本当。図書館に行ったのは九日前だ」

「そういうのを詭弁と言うのでは? あの人はちゃんと『十日くらい前』って言ってましたよ。十日前と断定せずに」

 わかっていてはぐらかしたことを玉藍に言われて、雪は小さくため息をついた。

「他になんて言えばいいんだよ。君が見たのは俗に言う幽霊の類で、害がある奴じゃないけど真面目に相手してると、つきまとわれることもあるから、ほどほどにしろって? 初対面の相手にそんなこと言われたら、まず正気を疑うだろ」

「同じものが見えていてもですか?」

 玉藍の言葉は雪の思いがけないものだった。雪が無言でいると、彼女は続ける。

「せめて、図書館で会ったことは、そのように伝えてもよかったのではないですか」

「それを認めたら、俺のあのときの発言を説明しなきゃならなくなるだろ」

 それが嫌なのだと言外に言えば、玉藍は少し強めに尻尾を揺らした。

「あの人は無防備に過ぎます。わたしたちには、闇夜の篝火のように見えます」

「詩人だな、玉藍」

「んもう、茶化さないでください。わたしは真面目に言っているんですよ。有象無象が寄ってくるんですからね、明かりを目指して」

 咎める口調の玉藍へ、雪は半ば諦めを込めて言う。

「世の中には、関わり合いにならないほうがいいこともあるんだ」

「……セツさまがいいなら、いいですけど」

 言葉とは裏腹に不満げな様子を隠さない玉藍の頭を軽く撫で、雪は昇降口へ足を向けた。

「帰ろう。今日は買い出しに行かないとな」

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