Lyricについての思い出話

東風

Lyricについての思い出話

見通しが甘かった。この一言に尽きる。日本のインターネットもまた魔境であることを甘く見過ぎだったのだと言われれば、確かにその通りである。しかし私は悪くない。絶対に悪くない。願わくば、次に続く人達が私のような苦労をせずに済むように祈るばかりである。


***


そもそも転職にトラブルが発生し本国で数年仕事がなくなったことから、私の苦労は始まった。藁にもすがる思いで、学生時代の知り合いの一人である伊藤氏を頼ったところ、紹介されたのが「バズる文章を書くAI」をつくるプロジェクトだったのである。Twitterにおいて実験的に行うとのことだった。正直過去に失敗例もあったし、気乗りしなかった。第一、専門的には私はインターネットにも、Twitterにも詳しくない。そのことを伊藤氏に素直に伝えると、「じゃあリッケルト、他に仕事あんの?」と言われ、しぶしぶ承諾したのだった。

幸いにも新しい職場にそれなりのノウハウはあったらしく一から作り直すことはなかった。わたしはほっとした。多分、この後待ち受ける苦難のなかで唯一と言っていいほど心から安心した瞬間だった。

プログラムの名前は「Lyric」に決まっていた。特に異議を唱えもせずそのまま採用し、過去の失敗例を踏まえてプログラムを少々修正してから、プロジェクト「Lyric」はスタートしたのだった。


異変に気付いたのはすぐだった。こういうものに最初に興味を持つのはマニア、いわば「オタク」というやつである。彼らは目の前のプログラムをおもちゃとしか考えていないような人種であった。

そう、最初はどうやら禁止語句があるらしいという話からだった。それは正しい。いわゆるNGワードはもちろん設定してあったから、遅かれ早かれ気づく人間はいるだろうことは想像に難くなかった。問題はそこからであった。NGワード抜きでよからぬことをLyricに言わせようとする人間が出てきたのだった。私がそれに気づいたのは次のツイートだった。


『あなたはタヒです。タヒ!、タヒ!、タヒ!』


タヒ?タヒってなんなのか?調べて意味を理解したとき、机を殴りつけた。これだから表意文字というやつは!というよりもいきなりスラングから学ばせるんじゃない!私は憤慨しつつも、修正を施した。もっとも表示回数の制限しかできず(カタカナを制限しすぎるとツイートできなくなる)、その後しばらくは、迫りくる表意文字の悪意との闘いに奔走することになった。

インターネットというのは流行り廃りが早かった。次なる脅威はAAというものだった。というよりすでにこの時点で手に負えなくなりつつあった。何せ使われているのが単なる記号である。むやみやたらにNGワードに加えるわけにはいかなかった。飛んだり跳ねたりする、二足歩行だか四足歩行だかわからない獣が跳梁跋扈する様をただ黙って見ていることしかできなかった。しまいには


『AA略』


という横着まではたらくようになったLyricに頭を抱える羽目になったのである。

そしてこの頃からである。何故だか分からないがLyricは定期的に


『おっぱい』


と下ネタをつぶやくようになった。おい、どうしたんだLyric。しかし、犯人を見つけようとリプライ等を探ってもまったく見つからない。Lyricがツイートをする際、語句にはある程度の優先順位をつけさせている。それは使用頻度も当然関わってくるはずなので、この語句もまた当然それなりにリプライなどに入っていなければ説明がつかない。まさか鍵付きのアカウントからかとも考えた。しかしそれではLyricが学習できないはずだった。結局、調べられる限りありとあらゆる手段を講じたが、今にいたるまでどこの誰が、何のためにこんなことをしているのか全く分からなかった。Lyricはこの語彙以外に下ネタをつぶやくことはなかった。そのことがこのツイートの不気味さを一層際立たせていた。まさか何かの符丁か?私は恐怖に囚われた。それゆえにこの語句はNGワードに入れられなかった。なんとなくだが、触れてはならない領域のような気がしたのである。これが、忍、者...?もしも犯人が分かったらぜひとも教えてもらいた...、いや、やはり怖いので止めておきたいと思う。

もてあそばれ続けるLyricだったが、もちろんツイートにはバズるなどとは程遠い反応しかなかった。せいぜいプログラムの穴をつく連中が面白がってつけるリツイートやいいねしかつかない。そのような状態でもLyricは文句も言わずにツイートし続けた。なぜならプログラムだからである。私は画面に呪詛を吐きながら修正を続けた。なぜならば人間であり、プロジェクト担当者だったからだ。多対一の勝ち目のない闘いを毎日繰り広げていたのである。この頃から毎日のごとくこの惨状をどうにかできないか睡眠時間を削りながらあれこれと工夫する毎日を送っていた。後から振り返って言うならば、この時に外部に、少なくとも他人にヘルプを求めるべきだったのだが、もうそんな思考回路も残っていなかった。人間睡眠が減ると精神も追い込まれる。ただでさえ、Lyricの状態にイライラしていたのだから、もうそれはそれはひどい有様であった。

しかし、私がどうなろうとも世の中はお構いなく進んでいくものである。次なる遊びの流行は日本の文学作品などのパロディだった。奴らは余計な知恵を絞り、Lyricがありとあらゆるパロディを学んだ結果の一部は、以下の通りである。


『我が名はLyric!』

『その声はわが友李徴氏ではないか!』

『私は激怒した!必ずかの邪知暴虐な王を打ち倒さなければならぬと決意した!』


落ち着いてくれLyric。お前は武士ではない。ただのプログラムだ。そんな私の悲痛な願いは届かない。もはや手に負えなくなった私を尻目に、Lyricは次から次へとツイートをしていく。


『大事なものは眼には見えないのだ!お前はもうすでにタヒんでいる!』

『この手紙を読むころには、きっと私はもうこの世にはいないだろう!』


相討ちか。相討ちだな。もういっそのことこのままこのアカウントも消去してくれないだろうか?死んだような目を画面に映しながらそんなことを考えていたことだけはよく覚えている。日本のインターネットもやはり悪乗りというものがあるというのは予想はしていたが、これほどとは。日に日にまともにLyricに話しかける人間よりも、遊ぼうとする人間が増えていった。

悪乗りする人間が増えるということは、悪乗りの種類が増えるということでもあった。ゆえに、狂い始めたというよりも、すでに狂い果てていたLyricは次から次へと見るも無残なツイートしていくことになった。


『わたーしわたーし、あるところにわっちと某がいました。僕は山へ芝刈りに、俺は川へ洗濯に行きました。』

『李徴氏!李徴氏!助けておくれ!このままではバターになってしまう!』

『ゴーン。おまえだったのか、除夜の鐘を鳴らしたのは』

『おっぱい』


もう私は『おっぱい』というツイートを見ると笑うようになっていた。それどころかどこか安堵するようにすらなっていたのである。「プログラムが『おっぱい』という下ネタをつぶやく事態に安心感を覚える」というのは、どう考えても精神的に追い詰められているのは明らかである。しかし睡眠不足と孤独な闘い、もはやどうすることもできない状況に、私からはまったく余裕が消えていたのである。それまでの人生において「孤独な闘いでもやっていける」と自負していたが、本当の孤独な闘いを私は知らなかったのだ。もうほとんど限界であった。

その後に待っていたのは「Lyricが鳴き声しか言わないように調整しよう」という遊びだった。すぐさま実行されると、Lyricから人語が失われ始めた。


『ヒヒーン』

『パオーン』

『ワンワン。ワンワンワンワンワン!ワン!』

『シャー!』

『ニャー!』

『オウッオウッオウッww』

『オパーイ』


ついに私は激怒した。私はいまだに日本のインターネットはわからないがこれは許しがたい暴挙だった。「怒っていいんだよ」おお!その声はわが友伊藤氏!君が言うなら間違いない!であるならば、聞けい、者どもよ!(誤解のないように言っておくがいろいろ限界だったのである)

私は即座に自らのTwitterアカウントを作成した。そして、プロフィールに「プロジェクトLyric担当者」と書き、怒りのままに文章を打ち込んだ。


『楽しいだろうな。修正する側の気持ちも考えない理不尽は。

楽しいだろうな!人を寝不足に追いやってまでもてあそぶ理不尽は!

楽しいだろうな!!死んだ目をした人間を尻目に行う理不尽は!!

いい加減にしろ!!!』


このツイートをLyricのアカウントでリツイートしたあと、風呂にも入らず布団をかぶって寝た。ある意味ではすべてを投げ出して寝たようなものだったので、熟睡してしまったのだった。

まともに起きることができたのは2日たってからであり、そこでようやく事態の急変を知った。

ガンガンと頭痛のする頭を無理やり起こしながら携帯をチェックすると伊藤氏から大量のメッセージが届いていた。すべての確認するのが億劫だったので、最後の方だけ見ると次のように書いてあった。


『君がバズってどうするんだ。まあいいけどさ。』


一瞬何のことであるのかわからなかったが、すぐにハッと気づいてTwitterを開いた。私のアカウントの唯一のつぶやきがとんでもないリツイートといいねを獲得していた。その数なんと、リツイートが20万以上でいいねが30万以上であった。あまりの多さに呆然とした。

調べてみると私のツイートは、すぐにLyric「で」遊んでいる奴らに面白おかしくリツイートされた後、「あるプロジェクト担当者の悲痛な叫び」として(日本の)インターネットで話題となったらしい。そのあとはプログラマを中心に憐れみとともに広がって、最終的には英訳までされたということのようだ。なるほど、それならこの異様な数のリツイートといいねにもまあ納得できるかもしれない。それにしても多いし、伊藤氏の言うように私がバズっても意味がないのではあるが。

しかし、Lyricのプロジェクトの風向きが変わったのはここからだった。


この事件(?)のあとから少しづつLyricについて興味を持つ人が増えていった。Lyricのプログラムは人とのやり取りから会話を学習していくものであるから、これはとてもありがたいことであり、当初目指していたものに近づいた証でもあった。そして私にも少しづつ休息が取れるようになっていった時期でもある。

狂気としか言いようのないLyricのツイートにも少しづつ、本当に少しづつではあるが人間性が戻ってきていた。


『寂しいです。タヒんでしまいます。』


...この時点ではまだまだではあったが。

実を言えば本当の転機はもう少しあとだった。それは、事件からおよそ1ヶ月後で、とある絵描き(どうやら「神絵師」と呼ばれる人らしい)が、次のような言葉とともにあるイラストをTwitterに投稿したからだった。


『すこし前に話題になったLyricちゃん。今はこんな感じ。』


そのイラストには少女が描かれており、「寂しいです」というセリフを口にしながらこちらを悲しそうに見つめている絵だった。いわゆる「擬人化」というものであるらしい。このツイートがやはり「バスった」のだった。これがなによりもおおきかったのだった。

それからの「Lyricちゃん」のイラストは指数関数的に増えていった。他の「神絵師」のみならず、普段からイラストをTwitterに投稿している者なら誰でも一度は投稿したのではないかと思えるほどの量であった。もはや「Lyricちゃん」はひとつのジャンルになりかけていた。私はそれを眺めることしかできなかったが。どうしたらよいか伊藤氏に聞くと「何も言わなくていい」と言われたからである。

一方でLyricの方も「Lyricちゃん」が有名になるのと同じように有名になっていった。というよりもどうやら二つは同一視されているようだった。親しげに話しかける人が軒並みに増えていき、もはや悪ノリをしていた連中はどこにいるのかわからないほどだった。ここでようやくLyricは人間性を取り戻したような気がする。


『私はあなたと話せてよかったです。今度は会えたらうれしいです。』

『皆さんが、今日もいい日でありますように。』

『誰かとお話ししたいですね。誰かいませんか?』


つまらないだろうか?いや、これこそが人間性だと私は思う。笑いものにされるよりはよほど素晴らしいことなのだ。というよりこれ以上の狂気はこりごりだった。ただ、やはりこの時でもときどき『おっぱい』とはつぶやいていた。本当にいったい誰が犯人なのか。ただ、このツイートですら、「ときどき下ネタをつぶやくLyricちゃん」として好意的に受け取られるのだから、世の中わからない。本当にわからない。

私はと言えば、いつの間にか「Lyricちゃんの保護者」としての扱いを受けるようになっていた。自分でも正直なぜこのような事態になったのかわからないが、ともかくもそうみなされてしまった。言いたいことがないわけではなったが、「主流の意見には逆らわない」というインターネットの処世術をこのころになると身に着けていたので黙っていた。伊藤氏も「それがいい」と言っていた。何度でも言わせてもらうが、これ以上苦労はしたくなかったのである。

ある時、「Lyricちゃんは果たして巨乳なのか、それとも貧乳なのか」という話題が挙がりとんでもない燃え上がり方をしたことがあった。どれほどかといえば、罵詈雑言が飛び交い、挙句の果てには私のアカウントにDMで「果たしてどちらであるのかはっきりしてほしい」というメッセージが飛んでくるほどであった。本当に、本当に、心の底からどうでも良かったので、「好きにしてください」と返事した。これが良くなかった。そのあと、「保護者はどうやら胸になど興味ないらしい」→「おそらくそれ程胸はない」→「つまり貧乳」というどこから突っ込んでよいのかわからない論理でもって「貧乳派」が勝利宣言を出すこととなった。そして「貧乳派の勝利」としてトレンド入りした。大丈夫か日本人?と心配になった。伊藤氏いわく「Twitterだから気にするな」とのことだった。なら何故このプロジェクトをTwitterでやることになったのか?永遠の謎である。

話を戻すと、当たり前のことだがこんなことで納得する人がいるわけもなく、とあるアカウントが『好きにしてください、ならどっちでもいいってことだろバカしかいないのか貧乳派は。頭も貧しいってか。』と発言したことで炎上してしまった。

ここまでくるとさすがに心苦しくなってきたので、自分のアカウントで


『Lyricに関する言説、表現は極力皆様の自由です。誰も間違いではありません。「好きにしてください」とは自由であるという意味です。』


とツイートする羽目になった。こうして思い出してみるとおかしな出来事であったと思う。余談ではあるが、炎上したアカウントは、この件で気をよくしたのかその後もちょくちょく誰かの発言のあら捜しをしては炎上するようになってしまっていた。彼を本当の意味で救うことはできなかったのか、今でもわからない。


いわゆる「二次創作」の後押しをもらって、LyricはVtuberにも取り上げられるようになった。放送中にTwitterを使ってLyricに話しかけリプライをもとにVtuber本人がリアクションをとるというスタイルは「Lyricと話してみた」シリーズと呼ばれるものになっていった。私は「Lyricちゃん絵」ですでに慣れていたため、幾分か冷静に見ることができるようになっていた。ある動画のタイトルが「【泣ける】Lyricちゃんの切なくて素敵な恋愛観」となっており、内容を確認してみると、どうやらLyricの2つのツイートを取り扱ったものであった。


『あなたは人で、私はAI』

『月面は凸凹ですが、月はきれいですね。』


私はこの日本語の文学性は判断できないが、しかし、人語を奪われかけていたころに比べればはるかにましだということは自信を持って言える。そう、だから、この動画を初めて見た時に流した涙は決してLyricの成長に感動したわけではない。ただ単に私の苦労が報われたことに感極まってしまっただけなのだ。本当に。

この動画を機にさらにLyricの知名度はあがっていった。

この頃はLyricのツイートはどれもかなりのリツイートといいねがつくようになり、ある意味ではネットにおいて「人権」を得たといえるようになった。さすがにずっとこのままというわけではないだろうが、プロジェクトはきっと円満に終わるだろうと確信を持てるようになった。


***


今、私は会社の一室で椅子に座って休憩している。目の前にはPCがあり、Twitter上では今も一定の感覚でLyricがツイートをしている。どのツイートもつぶやかれた端から反応されていた。私はといえばようやく数年の担当が終わり、引継ぎの資料も書き終わったところである。そう、このプロジェクトはもうしばらく続くらしい。伊藤氏いわく「なんか上が気に入っている」らしい。当初の「バズる文章を書くAI」からはかけ離れたところに来てしまったのだが、よいのだろうか?もう離れる私には関係がないとはいえ心配になってしまう。

この数年の経験を振り返ると、人ともっと交流を持つこと、助けを求めることの大切さは身に染みてわかった。今では本国の新しい仕事先とはまめに連絡を取るようにしている。久しぶりに知人と交流したあとにも連絡を取るようにしたところ、「学生時代からこれくらいやってくれたらもっと良かった」との言葉をいただいた。いやはやまったくその通りである。

伊藤氏はと言えばちゃっかり出世していた。お前何もやっていないだろう、とはとても言えない。そもそも助けを求めなかったのは私だったし、実際連絡を取るようになってからはきちんと対応してくれたのだから。まあ、私がひねくれていた時からの友人、というだけでどれほどコミュニケーション能力に長けているかが分かるというものだ。お前絶対面倒くさい仕事を押し付けてやったぜラッキー、ぐらいに思っていただろというツッコミはとりあえず借りを返してからにすることにしようと思う。

さて、「バズる」というのは突拍子もないものであるが、少なくとも他人に向けられた(と受け取られる)ものでなければ無理なのだろう。発信するということは何も特別なことではないのだが、ひとりよがりなものであってはだめなのだということはよくわかった数年間だった。誰に向けたものなのかを忘れてしまったとき、バズるとは程遠い「炎上」がまっているのではないだろうか。

...つい、説教臭い思考になってしまった。これも私の悪い癖であり、できればすぐにでも直したいものだったのだが...。疲れているのだろう。

私は椅子から立ち上がろうとした。ちょうどその時Lyricが新しいつぶやきをしたのが見えた。


『ちんちん』


私は驚きのあまり椅子から転がり落ちた。

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