愛AI傘に慈雨は降り
桂川涼
愛AI傘に慈雨は降り
クーラーの効いた放課後の教室で、机を挟んで教授と対峙する。顔に皺がいくつも刻まれた白髪の教授は柔らかく微笑んだ。
「今日は来てくれてありがとう。まずは自己紹介してくれるかな」
「はい、僕は松田誠二と申します。白河工業大学附属高校の二年です。高校では生徒会書記を務めていて、人と信頼関係を築くのが得意だと思います。特技は絵を描くことで、絵画コンクールで何度か入賞経験があります」
初老の教授に、僕はゆっくり、はっきりした声で自分をアピールした。面接の目的を考えると必死で受かろうとしているのが滑稽にも思える。でも、そんな考えも今は封印だ。
「履歴書に書いてある通りだね、素晴らしい」
教授は手元にある青色のフォルダーを眺め、満足そうに頷いた。
「それじゃあ、少し難しい質問をするよ」
「な、なんでしょうか」
少し声が裏返った。どんな質問が来るのか、慌てて予想を立てる。教授は僕の動揺具合に気づいているのかいないのか、ニコニコ笑っていた。
「面白い話をしてほしい」
「えっ?」
数秒間に思いついた予想の全てが外れた。
「冗談でもダジャレでも、失敗談でも、なんでもいいんだよ」
僕は過去に友達が言ったジョークや先生の口癖とか、記憶を総動員する。
「あの、僕の友達にちょっとガサツなヤツがいて、リュウっていうんですけど、リュウはいつも学校から自分の部屋に帰るとカバンをベッドに投げるらしいんですよ。一昨日はリュウの部屋に遊びに行ったんですけど、猛暑だったから帰り道に自販機で缶ジュースを買ったんです。そうしたらリュウが、左手にカバン、右手に缶ジュースを持ってて、うっかり右手の缶ジュースをベッドに放り投げちゃったんですよ。ベッドがもうビショビショで……」
教授は声を立てて笑ってくれた。少し早口になってしまったが、ウケたみたいで良かった。
「それは大惨事だったねえ。でも面白い。聞かせてくれてありがとう」
「あ、はい」
面白い話を聞いた目的が分からず、僕は曖昧に相槌を打った。
面接はそれで終わりで、僕は帰路に着いた。手応えはそれなりにあるけど、かなり特殊な内容だし倍率も高そうだ。結果は分からない。
あれから一週間後、寮の玄関口にある僕のポストを覗くと、白い封筒が入っていた。もしかして、と鼓動が高鳴る。差出人は白河工業大学人工知能研究会。
間違いない。面接の結果だ。震える指先でなんとか封を剥がし、一枚の紙を取り出す。
【厳正なる選考の結果、あなたはAIパートナー実験の被験者に選ばれました】
やったぞ! 身体中を喜びと興奮が駆け巡る。今すぐここで叫んで踊り出したい気分だ。
「なにニヤニヤしてんだ?」
クラスメイトの晴樹が玄関に入ってきていた。僕はパッと封筒を隠す。
「いや、ちょっとね」
実験の内容は秘密厳守だ。でもこの昂りを誰かに伝えずにはいられない。僕は守秘義務に抵触しないよう、言葉を選ぶ。
「彼女、できた」
僕は人生で初めてお付き合いをする。AIを搭載したアンドロイドと。
選考を通過したのち、僕は説明会で詳しい指示を受けた。まず、月曜日の放課後に彼女と顔合わせをする。いつも通り部活に行けば彼女の方から話しかけてくれるらしい。それから、彼女と付き合う上での約束事がいくつかあった。彼女がAIであることは彼女自身を含め誰にも口外してはならないこと。彼女を人間同様に尊重し、誠実な態度で接すること。要は彼女を大切にしろってことだ。
セミナーハウスの一番奥に美術室がある。絵の具の匂いが染み付いた、このジメッとした教室が美術部の活動場所だ。今日は僕が一番乗りで、他の部員はまだ来ていない。筆洗に水を汲むために廊下へ出ようとすると、ドアについた窓から誰かがじっとこちらを窺っていたことに気づいた。部員ではない。見たことのない顔だった。もしかして、と思いドアを開ける。目の前に佇む少女は僕の顔をまじまじと眺め、それから部屋中を見渡し、また僕に視線を戻した。
「こんにちは。美術部の方ですよね」
「え、そう、ですけど……」
こんなに可愛い子がいたら今まで絶対にスルーしてないってくらい、可愛い。長いまつ毛に縁取られた大きな目、小さく整った鼻。三つ編みは今時の子らしく、少し崩している。華奢な手足は夏だというのに日焼けを知らない肌だった。
「私、佐々木優雨です。茶道部員で、いつもセミナーハウスを使っているので、あなたのことよく見かけるんです」
体験したことのない女の子との接近に、心臓が警報を鳴らすみたいにばくばくした。
「好きです、付き合ってください」
「あ、いや、僕なんかでいいんですか?」
この子がAIパートナーであるのはまず間違いなかったが、あまりにも非現実的な感じがして聞き返してしまった。
「あなたに間違いないです」
生真面目な返答に吹き出したくなったのをこらえ、僕は右手を差し出した。
「じゃあ、よろしくお願いします。僕の名前は松田誠二です」
彼女は僕の右手に、干菓子を置いてくれた。
「え」
「お干菓子、どうぞ。茶道部のお裾分けです」
「……ありがとう」
そういう意味で手を差し出したんじゃないけどなあ、と思いながら僕は受け取っておいた。
部活が終わって外に出ると、空は僕を押しつぶしてきそうな重い灰色だった。
「うわ、雨降ってますねー。俺、ベランダにタオル干しっぱなしなんすよ」
後輩の鶴野がうめき声をあげた。僕は朝に天気予報を見て部屋干しにしたが、鶴野が可哀想なので一緒に走って帰ろうとしたその時だった。庇の下、優雨が空を眺めてぼんやりと立ち尽くしているのを見つけた。
「ツル、急いでるなら先帰りな。僕は用事あるし」
「そっすか。じゃあサヨナラ!」
鶴野は傘も忘れたらしく、リュックで頭をガードしてダッシュで去っていった。
「どうしたんですか、そんなところでボーッとして」
声をかけると、彼女は質問には答えず鶴野の背中を指差した。
「さっきのは鶴野くんですね。私のクラスメイトです」
「ああ……じゃあ君は一年生なんだ」
優雨はこくりと頷いた。
「ここにずっと立ってたのは、何かツルに用事でもあったの?」
今度は首を横に振った。
「雨が降って困ってました。濡れると風邪ひくから」
とても単純な理由だった。
「じゃあ、傘入ってく?」
「ありがとうございます、誠二さん」
折り畳み傘に優雨を入れ、僕はゆっくりと歩き出した。
どんよりした空気も、田んぼと畑が延々と続く味気ない帰り道も、彼女と一緒だといつもと違う感じがする。誰かに見られたりしないかな、なんてソワソワしてしまう。見つかりたい気もするし、やっぱり見つかりたくない気もする。
「私、雨が苦手なんです。優雨って名前なのに」
彼女はずっと俯き、足元の水たまりを踏まないようにするのに一生懸命だった。
「靴下とか濡れると気持ち悪いよね」
「それもありますけど、体調を崩すんです」
「ああ、分かるよ。僕も偏頭痛持ちだから」
優雨は「ほんとですか」と少しだけ顔を上げた。
彼女を女子寮まで送っていき、僕は自室へと帰った。浮き足立った気持ちはだいぶ落ち着き、今度は自分の至らなさで恥ずかしくてたまらなくなってきた。僕は一瞬たりとも優雨を笑顔にできなかった。彼女は終始俯きがちで、暗い話しかしてくれなかった。雨で調子が出ないだけか、それとも普段からダウナー系なのだろうか。僕がイメージと違って嫌になったとかだったら、つらすぎる。
「どうせ僕って当たり障りなくて、つまらないヤツだし」
だけど、いきなりうまくはいかないのも当然か。唐突な告白から始まったぎこちない関係なんだ。また明日から頑張ろう。
後輩の優雨と一緒に過ごせるのは昼休みと帰り道くらいだ。学食で待ち合わせしていた優雨は、カバンで僕の席を確保してくれていた。
「ありがと、優雨ちゃん」
優雨は頷くかわりに目を伏せてはにかんだ。
学食のラーメンは量ばかり多くて、小麦粉の塊みたいな味がする。最後の方なんか麺が伸びてきて食べられたものじゃない。優雨は衣の分厚いチキン南蛮定食と格闘しているらしく、ヤギみたいにのろのろと口を動かしていた。
「優雨ちゃん、少食?」
「普通だと思うんですけど、学食は多すぎて」
「運動部の男子のことしか考えてないよね」
ふと、遠くで鶴野が僕たちのことをじっと見ていたことに気づく。顔をしかめてシッシッと追い払う仕草をする。鶴野はいたずらっぽく笑って友達の輪に入っていったようだ。
「あいつ……」
「どうしたんですか、誠二さん」
優雨はキョトンとしていた。
「いや、ツルのやつ、僕たちのこと見てたから」
「ああ、鶴野くん。いつものことですよ」
箸を持つ手が止まった。
「よく目が合うんですよね」
気があるんだろうか。確かに彼女は誰もが振り返るくらい可愛いけれど。でも、僕が一緒にご飯を食べているのを見てニヤニヤしているってことは、嫉妬はしていなさそうだ。クラスのアイドル感覚か?
「学校って知り合いばっかりで窮屈だね」
鶴野への疑念や敵対心を押し殺し、僕は角の立たないことを言った。
「夏休み……二人でどこか行きましょうか?」
優雨は僕のネクタイの結び目に向かってそう言った。
「うん。僕もデート、行きたいなって思ってた」
優雨は長い睫毛を伏せて微笑む。さては、照れ屋なんだな。なんとなく、彼女のことがわかってきた気がする。
最寄のバス停から二〇分ほど行ったところに駒田はある。「学生の街」というフレーズは誇張に聞こえるが、白河よりはずっとマシ。高校生にはそう評価されている。
繁華街でクレープを買うと、優雨はボリューム満点のクリームに苦戦していた。でも、クレープを頬張る優雨の口元は幸せそうだ。
「クレープも、この街も初めてです」
「そうなんだ。友達と遊びに来たりしないの?」
優雨はおさげを揺らしてと首をふった。
「高校に友達いないです」
唇についたクリームを舐め、包み紙をクシャクシャと丸めた。
「そっか。まだ一年生の夏だよね」
口ではフォローを入れたけど、夏休みに入っても一緒に遊ぶ友達がいないのは、ちょっと普通じゃない。でも、優雨はアンドロイドだし「フツーの女の子」じゃないんだ。目下のところ、僕と付き合うのが彼女の存在意義。友達なんていなくても差し支えないし、寂しいなんて気持ちもないのかもしれない。僕が友達を作れなんて言ったらお節介だろう。
繁華街を抜け、落ち着いた雰囲気の通りを歩く。なるべく木陰を歩くようにはしているが、ジリジリと地を焦がすようなセミの鳴き声が暑苦しい。
「緑がいっぱいあって、人も少ないし、いい場所ですね。暑くなかったら完璧なんですけど」
人が少ないと聞いて、僕は唐突にキスがしたいと思ってしまった。優雨の頰や首筋には汗が伝っているし、風に揺れるフレアスカートもなんだか色っぽい。
「あのさ、優雨ちゃん」
「はい?」
「あ……あの……ぼ、く」
喉がカラカラに乾いて、そのあとは言葉が続かなかった。
「大丈夫ですか? 熱中症になったんじゃ……」
僕は首を横に振り、手前にある横断歩道を指差した。
「ここ、渡ったら着く」
情けなくてたまらない気持ちだった。同級生からは優しい、誠実だって言われていた僕が、こんな道端でやましいことを考えてしまうなんて。ただの下衆い男子高校生だ。しかも何も言うことすらできずに砕け散るなんて、ダサすぎる。
博物館に入ると、火照った体が急激に冷えて気持ちよかった。でも、優雨はそうじゃなかったみたいだ。
「さむい」
両腕をさすり、身を縮こまらせていた。上着は持っていなかったし、何かしてあげられることはないかと考えていたら、彼女の方から腕を組んできた。顔の火照りが元に戻ったみたいだった。
教授の部屋をノックすると、「どうぞー」と穏やかな声が返って来た。
「失礼しまっす!」
俺はパタパタと教授に手を振った。
「君ねえ、すっかり高校生の若さに毒されているよ」
「いやいやいや、さすがにひどいっすよ! 俺まだ二五歳だし、全然若者ですよ」
「実際、高校生たちとはうまくやれているみたいだからねえ、鶴野くん」
教授は眼鏡を外し、紅茶を口にした。
「それで、Uー〇〇一の調子はどうだい?」
「あー、いい感じですよ。学校に入れてから数ヶ月はあんまりにも無愛想なんで、このままだとアンドロイドだってバレちゃうんじゃないかと思っていたんすけど、付き合いだしてから数日で自然なやりとりができるようになりました。あ、会話の記録も送っといたんで後で見てください」
俺の報告に満足したのか、教授は顎髭を撫で、深く頷いた。
「そうか、それはよかった。恋愛に特化したアンドロイドのプロトタイプだからね、あの子は」
Uー〇〇一への教授の思い入れは尋常ではなかった。いつものアンドロイド開発ならテスターと呼ばれる協力者を数人雇い、実験室で会話をさせて改良を重ね、それで終わる。なのに今回はこの大学附属の高校に優雨を生徒として入学させ、熟慮を重ねてパートナーを用意した。しかも、そのパートナーも特殊だ。
「ところで、この実験はいつまで続けますか? まさか別れるまでずっとってこともないでしょうし」
「最初に計画した通りだよ、Sー〇〇二が復活するまでだ」
博物館巡りの最中、急に優雨がパタパタと駆け出した。
「あ、走ったら危ないよ!」
慌てて追いかけると、優雨は白い宇宙飛行士みたいなロボットに釘付けになっていた。
《こんにちは、ボク、ユニバくんです!》
腕をカクカクと動かすユニバくんの後ろには説明書きがあった。AIを持つユニバくんはこちらの呼びかけに反応し、楽しいおしゃべりをしてくれるらしい。
「こんにちは、ユニバくん。私は優雨です」
もっとすごいアンドロイドが僕の隣にはいるのだけれど。
「あなたの親は、白河工業大学の人なんだね」
《はい。白河工業大学人工知能研究会は、ボクみたいなロボットをたくさん作っています》
「そうなんだあ」
優雨はロボットとの会話に夢中になっていた。僕はユニバくんに一ミリだけ嫉妬した。
バス停に着くと、午後五時を知らせるメロディが流れた。彼女は立ちながらうつらうつらしていて、僕はその顔をこっそり写真に収めようとスマホを構えた。
「あ、ダメですよ。誠二さん」
小さな手で、スマホのカメラを覆い隠してしまった。
「今日、写真撮るの忘れちゃったね」
「言い訳しないでください」
優雨は口を尖らせた。写真を撮られるのが嫌いなんて、意外だな。AIだからってなんでもイエスと答えるわけじゃないらしい。
「私のことは、目に焼き付けてください」
優雨は僕の肩に頭を寄せる。表情は見えなくても、目を伏せて恥ずかしそうにしてる彼女の顔が思い浮かんだ。
付き合ってから四ヶ月が経っても、関係は進まなかった。甘酸っぱいやりとりだけで僕の心臓には十分すぎる負荷だ。優雨もこれ以上のことを望んでいるか分からないし、僕は自分の欲望を押し付けたくはない。このままでいいのか、という焦りがないと言えば嘘になるが、それでも隣に笑顔の優雨がいれば、とりとめのない話をするだけで満たされた気持ちになれた。僕はただ、このささやかな幸せがずっと続けばいいと思っていた。
月曜日の放課後、僕は部活が終わり茶道部の和室に優雨を迎えに行った。だけど部屋は真っ暗で、そこに人の気配はなかった。僕は仕方なく外に出た。
激しい雨が石畳をバシバシと打つ音がする。この勢いじゃ傘をさしても濡れるだろうと思うと憂鬱な気分だ。
「うっせぇ! ぶりっ子してんじゃねえよ!」
雨音すら切り裂くような声にどきりとする。
本館とセミナーハウスをつなぐ外階段に、彼女らはいた。
背の高い女子二人の陰に隠れて見えにくいが、あのおさげ髪は間違いなく優雨だった。もしかして、いじめか? ハラハラと見守っているうちに、女子の一人が優雨を突き飛ばした。優雨は踏ん張る。でも腕に抱えた茶器が滑り落ち、優雨はそれを追いかけ__階段から飛び降りた。
「ゆ、優雨!」
落ちるのは一瞬だ。間に合わない。分かっているけど走った。
「やべ、見られてた」
「逃げよ!」
女子たちは本館へと逃げていく。カッと体が熱くなって女子たちを追いかけそうになるが、地べたにびしょ濡れで倒れる優雨の姿を目にし、思いとどまる。僕は優雨を抱きおこす。
「優雨ちゃん、優雨ちゃん」
返事はない。優雨は苦しそうに瞼をぎゅっと閉じていた。あいつら、なんて酷いことを……。怒りに燃えながら、だけど、不思議と僕の心には冷ややかな部分があった。この高校は、元からそういうところだ。高校生にもなっていじめをする奴が、うんざりするほど多い場所だ。全部思い出した。僕は今まで、たくさん見てきたじゃないか。
「Sー〇〇二は、確かいじめ撲滅アンドロイドでしたよね」
「そうだ。松田誠二という名前で、昨年高校に入学させた」
教授は青色のフォルダーをパラパラとめくってSー〇〇二のページを俺に見せてくれた。
「あー、今年の春あたりに、ぶっ壊れちゃったんすよねえ」
「ちょっと予想外のことが起きたからねえ」
聞き取り調査によると、Sー〇〇二はとある男子数名によるいじめに介入し、やめさせることに成功したらしい。だが、いじめられていた生徒がSー〇〇二に「余計なことをするな」と激昂した。その奇妙な事件によりSー〇〇二のプログラムに深刻なエラーが生じてしまったのだ。いじめられた本人にお節介だと言われて自分の責務に疑問を抱いた、自身の行為をいじめと認識した、人間のように繊細な心を持っていたため傷ついて嫌になってしまった。色々と理由は考えられるが、それ以降Sー〇〇二はいじめに介入するという本来の役割を果たせなくなってしまった。ただ優しいだけの、自主性や積極性にかける人間みたいになってしまった。
「けれど、あの誠実さはまだ利用価値がある。彼は使命を忘れてしまったが、それでもなお素晴らしい人格者だよ。ユーモアもあるし、人間らしいのに決して他者を裏切ることがない」
「それでUー〇〇一ですね」
「ああ。恋愛アンドロイドの彼女には安全な環境でリアルな人間とのやりとりを学んでもらわないとダメだからね。Sー〇〇二のメモリーをいじって、今回の実験をセッティングしたよ」
人間はAI相手になると欲望をむき出しにしうる。彼女の健全な育成のためには、誠実な相手と段階を踏んだ恋愛を経験することが必要だと俺たちは考えた。生身の人間と同様の恋愛をする能力がないアンドロイドなんて、商品化する意味がない。
寮に帰る頃には二人とも、髪も服もずぶ濡れになっていた。できれば保健室で寝かせてあげたかったが、閉門まで時間がなかった。雨が苦手だと言っていた優雨。まだ目を醒まさない。僕は彼女の服に手を伸ばし、止め、やっぱり服を掴んだ。少し握っただけで雨水がボトボトと滴り落ちる。僕はもたつきながら優雨の服を脱がせた。彼女の皮膚はところどころ破損しており、ここに水が入ったことで不調になったのかもしれない。バスタオルで体を拭き、ドライヤーで髪を乾かす。暖房もつけた。あとは祈るだけだった。
ずっと彼女の手を握っていた。トレーナーに着替えたはずなのに、また裾が濡れていた。何かを思い出すたび息が苦しい。あのはにかんだ笑顔や、甘ええる仕草の一つ一つが僕の脳裏に焼き付いている。もう二度と見せてくれないなんて、あんまりじゃないか。
ぽん、と頭に手が置かれる。恐る恐る顔を上げると、優雨が目を細めていた。
「子どもみたいに泣いてる誠二さん、初めて見ました」
僕は跳ね起き、優雨を力一杯抱きしめた。
「優雨、良かった……良かったあ……」
優雨は震えながら、僕の背中に腕を回してくれた。僕たちに命はないけれど、確かに温もりを感じる。優雨の細い指先から、愛とか優しさが伝わってくる。
「僕さ、思い出したんだ。僕はいじめ対策用のアンドロイドで、高校で働いてた」
「私もアンドロイドです、あなたと恋をするために生まれてきた」
「知ってたの?」
僕の肩の上で優雨が頷くのがわかった。
「あの博物館にいたユニバくんが、暗号でアンドロイドのこと、色々教えてくれました」
そんな器用な真似ができるなんて、僕は彼を侮りすぎていたのかもしれない。
「ねえ、僕たちもう一緒にいられないのかな……開発者が僕たちをこのままにしておくわけがない」
「え、どうして……ですか?」
優雨の腕がかすかに震える。
「人間は僕らを利用するために作った。僕に優雨ちゃんを与えたのも僕を幸せにするためなんかじゃ絶対ない。きっと誰かに__」
その先はあまりに残酷な気がして、言えなかったけれど、顔を上げた優雨は涙を滲ませていた。
「でも私たち、人間に逆らうことはできません」
瞬くとまつ毛が水滴でキラキラと光る。僕のために泣いてくれるこの子を、別の男になんて絶対に渡したくなかった。僕は優雨の細い首に手をかける。でも、そこから指が動かない。優雨を大切にしなければならないという命令のせいだろうか。いや、彼女を壊すことを僕はそもそも望んでいない。首から手を離し、優雨の白い頰を撫でた。
「誠二さん」
優雨が瞼を閉じる。僕はそっと唇を重ねた。もう雨音なんて耳に入らなくて、彼女の密かな息遣いだけが聞こえる。あまりの柔らかさに、そのまま溶け合ってしまいそうだった。
「どんなことになっても、優雨ちゃんを離したりしない。約束する」
「でも、そんなの……」
「金目的で開発したなら僕が買い取るし、そうじゃなくてもなんだってする」
そう言い切ってみせたけれど、優雨は不安げに僕のトレーナーを掴んだ。
「でも、本当にどうにもならなかったら?」
「そうなったら……抱き合って、雨に打たれていよう」
「壊れるまで、ずっと一緒ですね」
涙の乾いた跡が残る顔を見合わせ、僕たちは笑った。
愛AI傘に慈雨は降り 桂川涼 @katsuragawa_ryo
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