崩国丸
信貴姫が寝ている間二月が過ぎた。
すでに師走だが、肌寒さは全く感じない。
相模の温暖な気候故などでは決してなく、肌が無ければ肌寒さなど感じないという理屈だった。
天守に至るまでの間、信貴姫の迅雷甲冑が白日にさらされる。
軟質ヒヒイロカネを編んだ
何が七生報国だと、信貴姫は内心毒づく。
野蛮な武者どもが謀略と裏切りを繰り替えす、救いようのない国だ。
内密の用。稲田は置き、幻庵と信貴姫のみが行く。
天守のとある一室、伊勢左京大夫氏国はそこにいた。
若い、獅子のような目つきの男だ。従者も付けずに胡坐をかいている。
「待ちわびたぞ叔母上。と、松永の姫君か」
「わたくしは松永信貴だ。お前が伊勢左京か」
氏国は組んでいた腕をほどき、気安げに座れと手を動かす。
「如何にも。こうして言葉を交わせて嬉しいぞ、信貴よ。叔母上の怪しげな実験は半信半疑だったからな。ふはは」
豪快に笑う若き鎌倉公方には、覇気が漲っていた。
信貴姫は、一度たりとも相手から目を背けず、茣蓙を動かして座った。天井や床下に何が潜んでいるとも知れない。
「左京よ、お信貴には肝心なことは何も話しておらん。将軍に三管六頭全ての暗殺など、誰に聞かれても不都合な大奸計じゃ」
「左様、左様。叔母上の言う通り]
鷹揚に頷く氏国は、この計画に何の畏れも抱いていないようだった。
「よもや虚言ではないだろうな。鎌倉の世でも無し、将軍暗殺など成功した例などないぞ」
「お信貴よ、弱気になっておるのか?」
幻庵が小馬鹿にしたように笑う。信貴は表情を変えることなどできないが、静かに返す。
「よもや。わたくしの目的は細川右京に地獄を味あわせ殺すこと。そして奴に松永誅滅を命じたと思しき御所様――すなわち足利将軍にも死を持って償わせる。ただそれだけだ」
「残念ながらな信貴よ、それでは足りんのだ」
左京は相も変わらず砕けた態度。
「将軍はとある目的をもって松永の城を焼いたのだ。その目的とは、お前を迅雷甲冑の生き素材として使うこと。異能を持つお前の肉体を素材に使えば、迅雷甲冑は神にも届く異能を持つ」
「……続けろ」
「生き素材はこの葦原洲を支配する三管七頭全員に将軍手ずから賜れた。鎌倉公方たるこの俺が戴いたのが、お前の頭蓋に脊髄、そしてその中身だ」
「……異なことを言う。『戴いた』? 『戴いた』だと? わたくしの肉体の一片でもお前のものになった事実など無いぞ。ああ、困ったな、お前を殺したくなってきた、七頭の伊勢氏国」
伊勢氏に甲冑として蘇生され、復讐の機会を与えられようともそれはそれ。復讐の対象であれば殺す。
目覚めた部屋の槍は、未だこの手の中にある。甲冑姿に幻庵の付き添いまであれば、槍を持っていようと城内の誰も信貴姫の身分など疑わなかった。
「それは悪かった。配慮が足りなかったな。この通りだ」
氏国は三つ指を付いて床に這った。一介の武将の娘に、天下に轟く鎌倉公方が膝を付いた。
一瞬でも気圧された信貴姫の負けだ。この場は矛を収めることにした。
「良いだろう。三管六頭、そして将軍の殺害確かに引き受けた。奴らが奪ったものは全てわたくしだ。はなはだしい侮辱の代償は全員死を持って償わせてやる」
「その意気や良しだ。だがやはり足りん。まずお前には身体が足りん。その不完全な甲冑では足利や細川には張り合えんだろう。そして修練も足りん。女の手習いで武者首は刈れんぞ」
先の稲田との手合わせで、そこは重々承知していた。
「三管六頭より身体を取り戻せば、儂が再度組み込んでやろう。安心せよ、お前をその『報国丸』に入れて蘇らせたのはこの儂じゃ」
幻庵が顎をなぜて言った。
「この鎧の名は『報国丸』というのか」
『七生報国』の刻まれた甲冑。天下に遍く有名なあの英雄を想起させる。
「よもやこれは……」
「左様、南朝の大英雄、楠木正成が迅雷甲冑『報国丸』。写しではない、本物の、今となっては再現不可能な業物じゃ。国を崩すには相応の得物が必要じゃろうて」
楠木正成――その名はあまりに有名な。
六波羅探題を滅ぼし、かの足利尊氏と渡り合った伝説的英雄。剣術流派、楠公流の開祖としても知られる。
「国を崩すと言ったな幻庵。ではこの背の文字は相応しくない」
信貴姫は、背に力と意思を込めた。見る見るうちに人造筋肉と連動して文字が変わっていく。
その背に、実に二百年ぶりに刻まれた新たな文字は『七生崩国』
「『崩国丸』――これがこの甲冑の新しい名だ。何が葦原洲だ。何が武家の棟梁だ。わたくしが全て全て殺し尽くしてくれる」
幻庵叔母と信貴姫の去った間。伊勢左京は軽く手を叩いた。
背後の隠し扉が回転し、一人の忍びが闇の中から姿を現す。
「小太郎、どう見る」
獅子の様な左京とは対照的な、細面の美男だった。
その面貌に反し、肉体は実に鍛え抜かれている。
「まず素人。稲田六兵衛とやらの方がまだ見込みがあります。信じ難い程のすくたれ者ですが、剣では拙者をも上回る」
「素人か」
「しかし、上杉が越後より襲来する春までまだ幾ばくかの間がございます。全てはあの者の執念次第でございましょう。恵まれた武装、絶対の執念……一念を遂げるに必要なのはそれのみでございます」
ふむ、と左京は顎をなぜる。そこは碁の相手をするうちに叔母よりうつった彼の癖だった。
「ときに小太郎よ。俺は京の御所様より異な事を問われたのだ」
「異な事とは?」
「『お前にとっての救いとは何か?』俺はまず一念を遂げることと答えた。国を預かる者の中には安寧などと抜かす輩もいるが、俺の考えは違う。あの川を如何に治むるか。あの場所に城を建てたい。あの国が欲しい。あの大名を排除したい。実に一つずつ、一念を遂げていくことこそが俺の救いだ」
「……読めましたぞ。それでは一生御屋形様が救われることなどございますまい」
「畢竟それよ。人の一生は永遠の苦難との戦いだ。赤松の言うところの『どろろーさ』という奴だな」
赤松弾正。数度顔を合わせたことはある。彼――否、彼女は南蛮渡来の宗教を信じる切支丹だった。
「ここ二百年、繰り返される戦は幕府の内乱ばかり。旧来の権力を打倒し、この相模を京に成り代わる天下平定の象徴と為す。我が大望の先駆けとしての将軍暗殺だ」
「――差し出がましいようですが、足利将軍および伊勢が仇敵上杉殺害のみならまだしも、その他八名の暗殺はいささか過ぎる策謀ではございませんか?」
小太郎の諫言。忍びなれども、幼馴染でもある彼は、氏国の政に口を挟む間柄だ。
「松永信貴は全て殺すまで止まらん。仇全てを殺し、少なくとも己の肉片を取り戻さねばあの娘は救われんよ。ならば俺はそれに乗っかるまでの事。道理だろうが。それに、俺にとってのついでで殺される幕臣どもは愉快でもある。ふはは!」
「御屋形様にとってはついででも、信貴にとっては必滅の怨敵ですか。あの娘に肩入れしてなさるので?」
「肩入れではない。正当な取引をしているだけだ。俺が鎌倉公方で、奴がたかだか小大名の娘だろうが関係は無い。取引に誠意は常に必要だ。関東には堺にも勝る良港となるべき地がいくつもある。ゆくゆくは東の果ての大陸に版図を広げつつある南蛮と貿易を行い、開拓事業にも一枚噛ませてもらおうか」
「先の長い話ですな」
「俺がやらずとも伊勢の子孫が成し遂げる。武家の長に生まれるとは、領地と家臣の他に莫大な野心までも受け継ぐということなのだ」
「ご慧眼恐れ入ります。我ら風魔忍軍は殿の命に尽くすのみにございますれば」
「無論心得ておる。俺がお前に下す命は大本唯一つ。『俺の為に死ね』だ」
「御意」
風魔小太郎はその整った面立ちに見合わぬ、裂けたような笑みを浮かべ、隠し扉の闇に消えていった。
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