読永らねる百合短編集

読永らねる

泳ぎやすい姿で

「あはははは、上等な浮き輪あるくせにカナヅチなの?」

「本当はシリコンでも詰まってるんじゃないの?」

 水泳の授業の後、俺、水瀬いおりはクラスの女子たちに囲まれていた。

『いじめられている』そう思ったことはない。言葉にするのなら『妬まれている』だ。

 俺は知っている。自分の胸も、身体つきも、男子たちにとって魅力的であることを。

 俺は知っている。父譲りのこの顔立ちが、彼女たちを嫉妬させていることを。

 別に望んで手に入れたものじゃない、だから負い目なんて一つも感じないし、彼女らの言葉は痛くも痒くもない。

 むしろ羨ましかった。小さなその胸が、貧相な体つきが。くれてやるよこんな身体、だからくれよ、俺の欲しいものをくれ。

「……ま、コイツらも『無い』んだけどさ」

 自分で独りごちて吹き出しそうになる。にやけてしまった口角が戻らない。

「聞こえねぇよブス!」

 一番近くに立って罵倒してくる女を見る。なんだっけ? あぁ、そうそう、確かクラスのなんとかって男の彼女だ。どっちも名前は覚えてないけど。

「隣の席だからって色目使ってんじゃねぇよブサイク!」

 合点がいった。そういうことね。どうやらこのお嬢様は、俺が自分の彼氏に色目を向けたと勘違いして怒り、自分と違って肉付きのいい俺の身体に嫉妬しているのだ。

 わざとブルブルと頭を振り、水滴を飛ばす。取り巻きの女たちが一歩引いたところでずいっと足を踏み出し、名前も知らない女に囁く。

「君の彼氏ってさぁ、ブサイク好きなの? 俺みたいな? あとさ、悪いけど天然モノなんだ、確かめてくれる?」

 グイッと女の手を引き寄せ、自分の胸に強引に当てる。細くて華奢な指が水着越しにずぶずぶ沈む。

「な?」そう言って笑うと、貧乳ちゃんは顔を真っ赤にして手を振り払った。おいおい、傷つくなぁ。せっかくサービスしてあげたのに。

 肩を震わせ、ワナワナと怒る彼女を無視し、わざと目の前で着替えてやる。もちろん着替え用の大きいタオルで隠したりしない。

 頭をワシワシと拭きながら、取り巻きちゃんたちを見渡す。

 真っ赤になって視線をそらすやつ。眉をしかめ、ドン引きしているやつ。怖いものを見るように震えるやつ。そして……


 手早く着替えを済まし、貧乳ちゃんの横をすり抜け、一人の女の子の前に立つ。

「ねぇ、君ずっと俺のこと見てたよね?」

 わざとワントーン下げた声で囁く、女の子はビクリとするが、固まっている。蛇に睨まれたカエルってこんな感じかな? 少なくとも俺が蛇なのは合ってる。

 視線を下げてしまった女の子の顎に手を当て、強引に目を合わせる。その瞳に浮かぶのは恐怖じゃ無い、俺にはわかる。

「ちょ、何して」

 取り巻きの一人が肩を掴み、強引に介入しようとする。悪いけど君に用はないんだ。顔も好みじゃないんでね。

「ごめん、邪魔」

 冷たい声で言い放つと、取り巻きちゃんはひゅっと細く喉を鳴らし、後ずさる。慌てて他の取り巻きちゃんたちがその背中をさすったりしている。忙しいなぁ。

「でさ! 続きなんだけど、なんで見てたの?」

 視線をその子に戻し、再び目を合わせる。テンションの切り替わりに軽く驚いた様子だったが、その喉がゴクリとなるのを聞いた。

 目を合わせている時間が伸びるにつれ、少しずつ女の子の目が色付く。別に本当に色が変わるわけではない、物の例えだ。

 さらに顔を近づけ、鼻が触れそうなくらいの距離になる。お互いの吐息すら感じられる距離だ。

 その子の口が薄く開かれる、それは期待の現れだろうか? では、何に対する期待だ?

 淡い色の唇に人差し指を当て、パッと距離を離す。あっ、とその子の口から声が漏れた。はは、やっぱり期待してたんだ、やらし。

「だめだめ、ちゃんと口にできる素直な子が好きなんだ。あ、口にするってそういう意味じゃないよ?」

「え……あ、その……私……」

 何かを求めるようにその子の右手がわずかに動くが、戸惑い、またきゅっと握られる。一歩踏み出す勇気はなさそうだ。まぁ、周りの目もあるしね。

「じゃ、ライン教えてあげるよ、いつでも声をかけてね」

 そう言い残し、更衣室から出ようとした瞬間だった。入り口の前に立っていた一人の女子が、俺の前に立ち塞がる。

「あのさ、出たいんだけど」

 顔は悪くない、むしろ好みだ。硬く結ばれた口、気の強そうな眉、きっちり切り揃えられた黒髪と、主張しすぎず謙虚すぎない身体。真っ直ぐ伸びた背筋……あれ? さっきの子よりも好みだ。というかストライク。

 ゆったりとした動作で入り口を指差すが、その子は退いてくれない。侍みたいだな、丸腰だけど、侍ちゃんって呼ぼう。

 侍ちゃんは俺の目を真っ直ぐ射抜いたまま、その真一文字の口を開いた。

「謝りなさい」

 彼女の口から飛び出たのはそんな言葉だった。

 予想外というか、面食らってしまった。同い年の女の子に少しでもビビらされたのは初めてだ。何故かまた口角が上がる。それを隠すように手で口元を覆いながら答える。

「いやいやいや、君は知らないかもだけどさ、俺さっきまでいじめられてたんだよ? そこに立ってる……え〜ナントカちゃんからさ。ひどいんだよ? 浮き輪だのシリコンだの言われてさぁ」

 体を動かさず、クリっと首だけ動かし、侍ちゃんが貧乳ちゃんを見る。フクロウを思い出した。

「それが本当なら良くないわ、薄井さん」

 貧乳ちゃん、薄井って名前なのか。名前まで薄いとか……ずるい、ふふ。

 笑いを噛み殺している俺に、嫌々ながら貧乳ちゃんが謝る。声ちっさ! さっきまでの声はどこから出してたんだ。

「あなたもよ水瀬さん! 怖がらせたりして!」

 なるほど『怖がらせる』ね、そう見えたのね。ゆっくり振り返ると、さっきの女の子の前で膝を折り、恭しく畏って見せる。

「ごめんね、許してくれるかい?」

 女の子は、とんでもないとでも言いたげに手をブンブンと振ると、ガクガクと頷く。

 改めて侍ちゃんに向き直る。

「ほら、彼女も許してくれているみたいだしさ?」

 そう言いながら横切ろうとすると、すれ違いざまに襟首を掴まれ、グイッと顔を寄せられる。面食らっている俺に、侍ちゃんは耳打ちをした。

「口説くならあんな小物じゃなくて私にしなさい」

 ゾクゾクゾクっと背中に電流が走った。後頭部のさらに後ろの方が甘く痺れる。コイツ、嘘だろ?

 逃げるように更衣室を出る。扉が閉まる直前侍ちゃんと目があった。ちろっと悪戯っぽく出された舌、その赤さを頼りに、その夜初めて一人耽った。


「私泳げない人嫌いなの」

 更衣室の一件の後、俺はありとあらゆる手を使って侍ちゃんを口説いた。ちなみに名前は藤巻たつきというらしい。本当に侍みたいで少し驚いた。

 そして、口説いた俺にたつきちゃんが突きつけた一言がそれだった。いや、恋愛に泳ぐもクソもないだろう? 常識やら趣味の次元ではない。世の中の大半のカップルは泳げなくたってうまくいく。

 それに、そんなことがどこまでも些細なことになる問題が俺にはある。いずれ話さなきゃいけないと思うと気が重いが、彼女は受け入れてくれるだろうか?

 けれど、惚れた相手に妥協はしない。自慢じゃないが、落とせなかった女の子はいない。難易度が高い相手なのは理解しているが、諦めるには惜しい。

 その日から休日を利用して必死に練習した。練習して練習して練習して練習した。

 ――そして、その努力が実ることはなかった。


 俺は泳げないまま学校を卒業し、自身の問題の解決のため県外へと引っ越した。連絡先は交換しなかった。

 未練がないかといえば嘘になる。けれど、かと言ってどうしようもない問題だ。彼女がどうしてそんな条件を突きつけたのかはわからない。けれど、かといって無視するのはポリシーに反する。


 さらに二年後、俺はまた地元へ戻ってきた。住み慣れた町のはずなのに何故かドキドキする。街並みはそれほど変わっていなかった。変わったのは俺の方だ。街は俺を受け入れてくれるだろうか? あの子は、俺を受け入れてくれるだろうか?


 教室の入口の前、ドア一枚隔てた場所に立つ。クラス名簿に藤巻たつきの名前を見つけた時は、さすがに神様ってやつを信じかけた。

『薄くなった』胸に手を当て、軽く咳払いをする。あ、あー、と声を出し、声を軽く確かめる。自分では分からないが、低めに話せば『それっぽく』なるだろう。

 入っていいぞー、という先生の声を合図に教室に踏み込む。教卓の前に立つと、一斉に視線が集まるのを感じた。

「えっ、イケメンじゃない?」「なんだ男かよ」「やば、当たりじゃん」「ちょ、アンタ彼氏いるでしょ」

 ザワザワとする教室の中、一人の女の子と目が合う。その子はちろっと舌を出した。あの時と同じ赤だ。

 手早く挨拶を済まし、指定された席へ歩く。わざと遠回りをしてさっきの女の子の隣を通る。

「泳げるようになった?」

「あぁ、浮き輪は邪魔だったみたい」

「あはっ、じゃあ……どうする?」

 春先の爽やかな風が教室を吹き抜けた。ざわついた教室が一瞬静かになる。視線を感じる。みんなの視線が俺とその子だけに注がれている。ここで言ったら……気持ちいいだろうな。

「なぁ、俺さ、君にめちゃくちゃ惚れてるんだ、溺れてるってやつ。だからさ、付き合ってよ」

 くすくすと女の子が笑い、黒い髪がさらさらと揺れる。

「泳げるようになったんじゃなかったの?」

「君には敵わないさ」

 差し出した右手を女の子が掴んだ。ドプンッとそのまま水中へ引き込まれるような錯覚。

「ったく、しょうがないなぁ」

 屈託なく笑うその笑顔に、俺は心地よく溺れていった。

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