第16話 巽の言葉
未成年である巽を連れ出すためには、保護者の同意が必要であったが、唯一の保護者である
校長の
二人は決して悪い人間ではない。むしろ、いい人間であるからこそ、巽のことを第一に考えての判断だった。
それでも根気よく事情を説明し、久道と永崎が同伴するという条件のもとで巽を直人の事務所まで連れ出すことができた。また巽が取り乱してはいけないので、行定は巽の目に触れないように別室で待機している。
「それでは、巽くんのお母さん——
直人は、メガネをクイとあげて、顔は巽に向けたまま久道と永崎に告げる。その言葉を永崎が筆談で巽に伝えた。ゆっくり時間をかけてそれを読んだ巽は、一度小さくうなずいた。
「巽くん。君のお母さんの魔法は、レベル5の魔法です。効力としては、『他者の思考を無制限に感知することができる』というものですが、僕が手続きをするとその効力が弱まってしまいます。その点を了承した上で、手続きに入らせてもらいたいんだけど、大丈夫かな?」
事前に久道と永崎には了解を得ていた事項を巽にも確認する。直人が手続きをすることによるデメリットを永崎を通じて伝えると、巽は再度小さくうなずいた。
「ありがとう。校長先生や永崎先生から聞いているかもしれないけれど、この手続きをすると、君は人の考えていることが分かるようになります。まずは、それにびっくりしないでほしいです。それから聞こえるようになるのは、その人が口にした思考。つまり、話している内容だけが感知できるようになります。君の耳は聞こえないままだけど、人の話していることは分かるようになります。音楽を聴いたりは、おそらくできません。……そこは我慢できるかな?」
またしても永崎を通じて巽に伝えてもらう。巽は少しの間考えるそぶりを見せたが、最後は力強くうなずいた。
実際に魔法の効力は弱まるのか。弱まるとして、その弱まり方はどういうものなのか。という懸念は、あらかじめメルが解消していた。
メル
メルは嘘を吐かない。
巽の意思を確認すると、直人はメルに合図を送る。
メルは親指を立ててうなずき、何もない空間から万年筆を取り出した。メルから万年筆を受け取った直人は、手際よく書類に文字を刻むと、印を押した。
最後に巽に自署してもらって、それを
未成年である巽の場合、本人の自署に加えて、保護者の署名も必要となる。そのため、出来上がった書類を春華が別室に待機している行定の元まで運んだ。
しばらくすると、春華は書類を持って戻って来た。そこにはしっかり、行定の署名がされている。猫の身体ではあるが、筆をとることはできたらしい。
「それでは、準備ができました。これから、このメルが魔法庁へ行って、データを書き換えて来ます。すぐに終わるので、一瞬だけ待っていてください」
メルは直人の言葉に合わせて親指を立てると、煙のように消えた。そして、すぐに元の位置に現れる。油断していると、メルが消えたことに気がつかないほど一瞬の出来事だ。
「はい! 終わったヨ!! じゃあ、最後。ナオ、よろしくネ」
それを聴いて直人は巽の頭に手をかざした。しばらくそうしてから、かざした手を巽の頭の上に優しく乗せる。そして、「はい。これでおしまいです」と言って指を一度パチリと鳴らした。
永崎は『何か変わったことはある?』と筆談で巽に尋ねた。巽はゆっくりと首を振る。それを久道と永崎は怪訝な顔で見ていた。
二人の雰囲気を察して、直人は言葉をかける。
「おそらく、まだ使い方が分からないのでしょう。メル。頼んでいいか?」
「いいヨ。それじゃあ、ちょっと失礼するヨ」
そう言ってメルは巽の背中に回った。それ以降、メルは何も言葉を発さずに、ただ巽の背中に手を当てている。しばらくの間そうしてから「はい、巽。どうだい?」と投げかけた。
巽は、ビクッと身体を震わせ、あたりをキョロキョロと見回す。
「まだ、慣れないから、誰が喋っているか分からないんだろう? 大丈夫すぐに慣れるヨ」
メルは手を上げながら巽に語りかける。それを見て、話者がメルであると判断したのか、巽はメルに向かってブンブンと首を縦に振った。
「その様子だと、ちゃんと聞こえているみたいだネ。あ〜、聞こえてる訳ではないか。ボクの声がどんな音色かは分からないだろう?」
巽は再度、首を縦に振る。イエスという意味らしい。意思疎通ができていることに久道と永崎は驚いていた。
「よかったです。これで巽くんは人の話していることが理解できるんですね」
一部始終を見守って、春華は感嘆の声をあげた。
「もしかしたら動物が話してることまで理解できるかもネ。ただ、これでおしまいじゃないヨ」
「えっ!? どういうことですか?」
代表するように春華が尋ねたが、その場の全員が抱いた疑問だった。その疑問には答えずにメルは巽に尋ねる。
「巽。話すことはできるかい?」
メルの質問に巽は首を横に振った。
「やっぱりネ。音が聞こえてるわけじゃないからカナ? 発話はできないみたいだネ」
「それがどうしたんだ? それは、ある程度想定内だろ?」
「そうだネ。でももし、発話に近いことができるようになるとしたら、どうする?」
メルの言葉に直人は目を見開いた。
「そんなこと、できるのか?」
「できるヨ」
「本当ですか!? もしできるのなら、ぜひお願いします!!」
あっさり答えるメルに、誰よりも食いついたのは永崎だった。
「ちょっと落ち着いてヨ。それじゃあ、春華。まずは、行定をここに連れて来てくれるかい?」
「えっ!? ユッキーさんを……ですか? ですが、巽くんが……」
「大丈夫だヨ。ひとまずは、姿が見えないように目隠しを作ろう。それで、行定から巽に語りかけてもらうんだ」
「わ、分かりました」
春華は不安を抱えたままメルの言葉に従って、行定を呼びに行く。その間に直人は目隠しとなる
「連れて来ました」
衝立の向こうから春華が声をかける。
「ありがとう。それじゃ、行定。衝立の横から手だけ出して、ここにいる巽に声をかけてやってくれないかい?」
「巽……。巽や……」
メルに言われて、行定はおそるおそる衝立から手だけを覗かせて、声を出す。それを聴いた巽は、あたりをキョロキョロと見回し始めた。声の主を探している。
やがて、衝立の向こうに小さな丸い手を見つけ出す。発狂はしない。それだけでは、衝立の向こうにいるのが猫だとは分からなかったようだ。
「行定。もっと具体的に、キミと巽しか知らないようなことを話しておくれヨ」
「はい。承知しました。巽。覚えているかい? わしの故郷に行ったときのことを。お前の母さんが死んでしまって、しばらく経った日のことだよ。夜、二人で綺麗な星空を見ながら、そこにお前のお父さんとお母さんがいると教えてやったね」
行定の言葉に反応して、巽の身体がピクリと動く。なおも行定は語り続けた。
「あのとき、わしはお前を一生かけて守ると誓った。それなのに、目の前から消えてしまって……。さぞかし寂しい思いをさせてしまっただろうと思う」
巽の身体は小刻みに震えていた。頬を一筋の涙が伝う。巽は声をあげずに泣いていた。
「もう、離れはせんぞ。見慣れない姿になってしまって、きっと驚くと思う。だから、今はまだ姿を現わすことができないが、ずっと側におるぞ」
「それくらいで大丈夫カナ。行定。キミの魔法を使ってごらんヨ。メアリーベルから買ったやつだヨ」
「魔法……ですかな? ですが、どのように使えばよいか……」
「簡単だヨ。巽の声を聞きたい。考えを知りたい。と切に願うんだ。それだけで十分だヨ」
メルに言われた行定は、黙って意識を集中させる。その間、誰も言葉を発する者はない。しばらくの沈黙の後、全員の耳に行定の声が響いた。
「おじいちゃん……。会いたいよ」
それは、巽の言葉だった。
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