B.

 潤平は憤然ふんぜんと自分の城に帰った。むかつく。こういうときは、思いきり頭を振れる音楽、ヘッドバンギングできる曲にノってしまってスッキリするのが一番だ。――という訳でえらび出したのはヴェイダー、ポーランドのデス・メタルだ。アルバムは折角なので『ライヴ・イン・ジャパン』。この時の公演には、当然ながら潤平は行っていない。しかし、「ヴェイダー」コールに始まり、ヴォーカリストであるピーターの「コンニチハ! ゲンキィ?」という問いかけを聞くと、はや潤平は胸が熱くなるのだ。物故ぶっこしたドックのドラム・プレイが素晴らしい。ブラストビートに耳を傾けていると、我知らず潤平はた眠気を覚えるのであった――。

 そも、潤平が明峰学園に進学したのは、「多感で将来性ある十代始めの時間は、受験勉強などという弊害へいがいばかり多いものに浪費させず、子どもの好きなように有効活用させようではないか」との父親大輔の発議によるもので、お蔭で潤平は小学四年生から進学塾に通うようになった。明峰学園をえらんだのは千鶴子で、「ご近所だし、下は中学から上は大学までそろっている」からとの理由であった。実際の明峰学園高等部の学生は、上の大学には医学部へ進学する者を覗いては、ほとんどの卒業生は他大学へ進んでしまうのであったが……。

 ともあれ潤平は明峰学園中等部を受験し、合格して入学した。潤平は個性の強い方だったが、いざ入ってみると潤平などに負けず劣らずのユニークな生徒ばかりであった。そこで三年間存分ぞんぶんに羽を伸ばして時間を過ごしたのだが、高等部に進学する頃にはもはやうつ病の気が散見されていた。潤平がロック音楽のフリークと化したのも丁度この頃のことである。

 潤平はそういう自分の性行せいこうを、しかしながら、余り表沙汰おもてざたにはしなかった。潤平はごくデリケートな性質であったし、どんなレッテルであっても、貼られることはご免こうむったのである。

 だが、間違いは高等部一年の秋に訪れた――。潤平はその頃放送委員をしていた。主な担当事項としては、体育祭や文化祭などの行事への参加や、より日常的なものとしては昼休みと下校時刻の放送担当などがあった。すきはそこに生じたのだ。潤平は昼休みの放送に、好きなヘヴィ・メタルもののディスクを持っていってしまったのだ。そして、それをめざとく見つけたのが、誰あろう宮下若菜そのひとであった。若菜とは、高等部一年で同級だったのだ。潤平は宮下若菜という女生徒に関しては、口うるさく活発かっぱつな女、という程度しか心に残っておらず、一体に印象は薄かった。そして、宮下若菜にとっての自分もそうだろう、いや、そうであって欲しい、との願いを抱いていた。だが、実際は違った。

 ある時潤平とふたりで昼休みの放送を担当する機会があり、その時若菜は、放送室の卓上におかれたメイデンの『第七の予言』とマスターマインドの『インソムニア』アルバムをみて、

「ああっ!」と嬉しげな歓声を上げたものだ。「笠原くん、マニアでしょ!」

「ち、違うよ」潤平は赧然たんぜんとして否定した。「ちょっと……好き、ってだけだってば」

 が、若菜は、

「本気で否定するとこが怪しぃ」

と尚もこだわって、潤平が〝フィア・オブ・ザ・ダーク〟を掛けたのを機に、

「笠原クンはメタルヘッド」

 なる素敵なキャッチコピーを盈満えいまんさせてしまったのだった。潤平はこれで大分傷ついた。それに追い打ちを掛けたのが、教員たちの間にも潤平の癖が広まり、なかには潤平をつらまえて揶揄やゆする者も出てきたことだった。

 潤平の眉目びもくは完全に損なわれ、かくして学校から足を遠ざけることとなっていったのだった……。

 ――いやなことを思い出してしまった。

 アルバムは、既に本篇を終り、アンコール公演に入っていた。ブラック・サバスによる〝ブラック・サバス〟、スレイヤーによる〝レイン・イン・ブラッド〟の二曲のカヴァーに加え、オリジナルの〝ダーク・エイジ〟が済むとアルバムも終りだ。

 潤平は立ち上がり、ディスクを入れ替えた。今度はジューダス・プリーストによる『ステンド・クラス』だ。このアルバムの一曲目、〝エキサイター〟はお気に入りだ。し、七〇年代ロックで〝ノリノリになれるCD-Rを一枚つくりなさい〟という課題が出されたら、潤平は迷わずこれと、ブラックモアズ・レインボウの〝ア・ライト・イン・ザ・ブラック〟、それにディープ・パープル〝ハイウェイ・スター〟、あとフランク・ザッパの〝アイム・ソー・キュート〟を入れるだろう。

 そのアルバムを聴きながら潤平はごろりとベッドに仰臥ぎょうがしたが、眠気はどうやら醒めた按配あんばい、ぼうっとしてジューダス・プリーストのメロディに身を任せていた。

 ――潤平はしばらく寝転がっていたが、やがて起き直ってPCに向かった。型落かたおちのD81をスリープから解除すると、ディスプレイがヴィヴィッドによみがえった。潤平はメーラを立ち上げた。

 チェックすると、新着は四通。いずれも昨日の夕刻から今朝未明にかけて届いたものだ。みると、三通はスパムだった(潤平にはほとんど友人と呼べるものはいない)。残りの一通は、唯一〝血が通って人間味のある〟相手からのものだった――即ち公彦きみひこ叔父おじさんからだ。父方の叔父である公彦さんは、述べた通りプログレッシヴ・ロックの熱心なファンで、これまでも何度かライヴに誘ってくれたことがあったが、潤平が胸をときめかせてメールを開封すると、その期待を裏切らぬ内容のものだった。本文はと云えば、


「来月、ビルボードライヴ東京で、ジョン・ガードナーの来日公演があって、たまたまチケットが三枚取れたんだけど、一緒にどうかな? ――で、女の人ひとりを同伴すれば、チケットが半額になる、っていうんだけど……」


 とのことであった。

 公彦叔父さんには、いま〝彼女〟はいないらしい。潤平にもいない。ただの友だちでさえいないというのに、いてたまるものか。

 ――まあ一先ずそれは措くとして、いくらか條件じょうけんづきなようだ。


「お返しには何もいらないんだけど、若しよかったら――、というのは時間と体力とやる気があるなら、ということだが――、ちょっとぼくの家に来て、手伝ってもらいたいことがあるんだ」


 詳しく読むと、鉄道模型についてのことだった。それなら問題はない。前にもやったことがある。つまり、公彦叔父さんがマンションに持っているレイアウト(鉄道模型の趣味世界では、ジオラマのことをこう呼んでいる)の拡張をしたいのだが、畳一畳ほどの板を二枚ほど設置する、それを助けて欲しい、ということだった。

 ――お安いご用だ。

 だけど、お安くないご用がある。女の子の件だ。

 潤平はジョン・ガードナーについてウェブで調べた。八年ほど前にプログレ・バンドのクレオパトラでデビューし、自身は五年前にソロ・デビュー。これまでに三枚のソロ・アルバムを出している。潤平は名前だけ知っていたが、まだアルバムを聴いたことはない。従ってCDも持っていない。

 ――どうするかな。ハード・ロックじゃないし……。

 だけど、守備範囲はできるだけひろげておいた方がよかろう。それに、何と云ってで行けるのだ。

 うう、とストレッチをして何気なしに窓外に眼をやると、既に外は明るくなっていた。時計は午前六時過ぎである。

 ――朝食は午前七時だよ。

 若菜の言葉が耳によみがえる。潤平は平生、朝食を自分の家族や研修生たちと一緒にとることは、まず、ない。それはひとえに生活サイクルの違いによる。潤平の〝生活〟は、朝は午前二時過ぎに起き、明け方まで起きて過ごし、た寝て午前十時過ぎに起き出し、朝食とも昼食ともつかぬものをとった後で昼寝をし、夕食をとり、午後八時か九時に休む――、というもので、全く秩序だっていなかった。身体にもいい筈はないが、潤平は母親の叱呵しっかなどどこ吹く風、フクロウ生活を送っていたのだ。

 しかし今朝の潤平は、曲がりなりにも〝普通の生活〟を、仮令たとい〝お試しコース〟程度にではあっても、やってみることにした。

 部屋を一歩出ると、階下から音と匂いがただよってきた。えず階段を下りて一階に向かう。スタジオは、と眼をやると、煌々こうこうと灯りが点って、まだ朝早いのにもうトレーニング…、もとへ、〝ワークアウト〟に精を出す者の姿があった。みな黙然もくねんと取り組んでいるさまに、潤平は肝をひしぐ。

 そして、一階のダイニング・キッチンに着くと、そこには、ああそうか、あのキッチンが家族三人のためにはどうも広すぎると思ったのは、こういうことだったか、と納得できる光景があった。

「ほら、和彦くん、卵が固くなる」

「千尋さん、トースト焦がさないで」

「幸穂ちゃん、もう珈琲コーヒーいいわよ」

 千鶴子は陣頭指揮を執って朝食の支度をする研修生にげきを飛ばしている。潤平がずと近寄ると、千鶴子は始めうるさそうに一瞥いちべつをくれたが、やがてそれが他ならぬ自分の息子だとわかると、見直して、

「あら」と云うた。「お前、潤平…。何よ、びっくりさせないでよ。珍しいわね、あんたがこんなに早いなんて」

たまには早起きしようと思ってさ」潤平は云うた。「――今朝のメニュー、なに?」

「――メニュー? ええっと、スクワットとフロント・ランジ、それが十回三セット…」

「ちゃうちゃう」潤平は鍋のほうを指差した。「朝食の献立」

「ああ」千鶴子はものでも落ちたように、「――ええっとね、パンは食パン……っていうけど、パンはみんな食べるものなんだから、どれもまあ食パンみたいなものよね、ってまあいっけど、あとバターロールにレーズンロール、それと卵はもちろんスクランブル、それにミルクと珈琲紅茶、サラダ・リーフにクリーム・スープ、デザートには杏仁豆腐あんにんどうふ……」

「わかった、わかった」

 朗詠ろうえいする千鶴子を潤平は手で制した。そして、周りをみて、プレートを次から次にとる研修生たちにならって自分も一枚プレートを手にした。

 その背を、小さな手がポンと叩いた。

「お早う、笠原クン」

 振り向くと、誰あろう宮下若菜であった。

「――ああ」

 潤平はもぐもぐと口の中で返辞へんじすると、食パンを取ろうとした。

昨夜ゆうべはどうもありがと、笠原クン」

「……」

 続いてレーズンロールを取った。

「無視しないでよ、もう、水くさいなア」

「――別に無視なんかしてないよ。返辞してるじゃん」

「聞こえないもの」

「じゃあ、それで満足すりゃいいじゃねえか」

「あれっ」若菜は前に回り込んできた。「――ひょっとして、あんた、まだ何か怒ってんの?」

 ずばりといわれると、痛い。

っといてよ」

「クラいなあ、だからダメなんだよ」

「だからっておいてくれ、って言ってるだろ」

「それじゃあ彼女も友だちもできないぞ」

 赫然かくぜんとなって、

「うるっさいなあ」

 ――と、そこへ千鶴子が来て、

「こらあ、そこ、うるさいぞ」

「うるさいのはこの女だよ」

「違うよ、せっかくあたしが指摘してやってるのにィ」

 若菜は口を尖らせる。千鶴子は、

「あら」と意外そうに云うた。「潤平、お前が友だちをつくるなんて何年ぶりかしら。いいことじゃないの。――宮下さんも……」

「違う。そんなんじゃないったら」

 潤平は不服顔ふふくがおをしたが、若菜は、

「ほうら、お母さまのいう通りじゃないの」

 というので、潤平は更に気むずかしい顔をした。

「こいつは、高校ン時、ちょっと一緒だっただけなんだよ」

 潤平は弁解がましく母親に云うた。千鶴子は、

「あら、そうなの。孰方どちらにしても仲好なかよしでよかったこと」

 と満更でもなさそうだ。

 潤平があきらめて長大息ちょうたいそくし、席に着くと、若菜は隣の椅子を引いた。潤平は無視して食べ始めた。が、その横顔をまじまじと若菜はみつめる。そして、低声で、

「あたし、ホントはとっても悪いと思ってんだ」と云うた。「あの時、ひょっとして傷つけちゃったか、と思ってさ……」

「――――わかってんのかよ」

 若菜は卵をつつきながら小さく点頭てんとうした。

「ハード・ロックのマニアだ、ってことでしょ?」

 返辞へんじの代わりに咳一咳がいいちがいする。若菜は小さく息をつき、

「あたしも悪気はなかったのよ」

「悪気なんてあってたまるもんか」

 潤平の言葉に、微かに破顔はがんして下膊かはくにそっと触れた――悪い感触ではなかった。

「ゴメンね。本当に悪かったと思って……」

 若菜をちらりとみた潤平は、呼気こきと一緒に、

「いいよ、もう、気にしてないから」

 と云うた。若菜は微笑んだ。片靨かたえくぼができる。

 案外、かわいい顔だちをしていることに潤平は気づいた。

 ――だが、ちょっと待てよ、という気もする。

「トレーニング、やらない?」

「やらない」

「楽しいよォ」

「運動はキライなんだ」

「あのさあ」

「うん?」

「――あの時、一体何がいやだったの?」

「――あの時って?」

 若菜は低声で、

「ガッコを止めたとき」

「ああ」潤平は卵を呑み込んだ。「――あれね、色つけされるのがたまらなくてさ……」

「色つけ?」

「そ。何つうか、特定の方向に、色分いろわけされるのがこらえきれなくて」

「ああ、そうだったんだ」若菜はキレイなほほえみをみせた。「もう、やらないから。約束するよ」

「――ああ」

 潤平は眼を伏せた。――次に眼を上げると、宮下若菜の姿はもう消えていた。

 その朝潤平は、クリーム・スープとレーズンロールをお代りし、珈琲も三杯飲んだ。漸っと満足したところへやって来たのは大輔だった。

「やあ、潤平」

「うん」潤平は何となくくさくて口の中で返辞へんじした。「なあに?」

「――いや、お前にもやる気が出て来たのかな、と思ってさ」

「やる気?」

「そうだ。ぼくらと一緒に、〝ワークアウト〟したければ、遠慮えんりょなくいいなさい」

 潤平は眼を白黒しろくろさせてレーズンロールの端を飲み下した。

「そ、そんなんじゃないったらぁ」

「……そうなのか?」

 大輔があまり残念そうに・悲しそうに云うので、潤平はかえって父親が気の毒になった。

「…――うん」

「まあ、いいさ」大輔は潤平の肩をポンと叩いた。「えず、お前が朝に起き出してきた、と。それだけでも充分じゃないか」

 潤平は自室に戻ると、早速レコードをだした。ミシガン州デトロイト出身のバンド――、MC5とイギー・ポップ・アンド・ザ・ストゥージズだ。前者は69年にリリースされたデビュー盤(ライヴ盤)の『キック・アウト・ザ・ジャムズ』、後者は70年発表のセカンド・アルバム『ファン・ハウス』だ。潤平はMC5でザ・ヴェンチャーズのようにモズライトのギターをらすフレッド・ソニック・スミスのファンだった。このデビュー・ライヴ盤では、後年ブルー・オイスター・カルトがライヴでカヴァーした、「マザーファッカー!」のシャウトで始まるタイトル曲が好きだった。ザ・ストゥージズもまた、ジャズ風の場面の多いバンドだが、『ファン・ハウス』での聴き所はイギーの毒気どっきはらんだヴォーカル・スタイルだろう。これらとサンフランシスコのブルー・チア―は現代のメタル周辺では所謂いわゆる〝ストーナー・ロック〟への影響大、とされるが、潤平のディスコグラフィには、むろんカイアスだのスリープだのダウンだの人間椅子にんげんだのメルヴィンズだのカテドラルだのモンスター・マグネットだのといった、このテのバンドも多数収蔵されている。

 少しリラックスしてぼうっと音楽にれているうち、何かやらねばならぬことがあるのに心づいた。

 そうだ、公彦叔父さんに聯絡れんらくしなければならないのだ。

 叔父さんにメールで返信しようか、とも考えたが、時計をみてもう午前八時三〇分をまわっていることを確認し、電話をかけようと決めた。公彦叔父さんはフリーランスのライターと翻訳業を営んでいる。忙しいのは平常なら平日の午前十時前から深更しんこう一時までだよ、と冗談交じりに語っていたのを思い出す。もう起きているはずだ。

 潤平はスマートフォン(これは親に持たされていた)をだすと、アドレス帳で叔父さんの番号を呼び出し、呼び出しボタンを押した。

 三、四回のコールで叔父さんそのひとが出た。

「もしもし」

「ああ、ぼくですけど。お誘いありがとうございました。それで――」

「うん。どうした?」

「ぜひ行ってみたいんですけど……」

諒解りょうかいだ」

「――その、女の子をひとり、って云っていましたけど。生憎あいにく……」

「ああ」合点がてんした声色こわいろだ。「相手がみつからない?」

「まあ、そんなところです」

 叔父さんは大きな声で笑った。

「その点に関しては、心配はらないんじゃないかな」

「――どうしてです?」

「まあ、いいから、兄さんか千鶴子さんを出してくれないかな。こういう話だから、義姉ねえさんの方が適当かも知れないが」

「?」

 潤平は疑問符ぎもんふそのものをうかべた表情で部屋を出た。〝スタジオ〟はすぐそこだ。二階に降りると、スタジオでは午前の〝ワークアウト〟が進行中だった。孰方どちらか中にいる筈だ。

 脇にあるドアを開けると、バーベルを架台かだいに戻す音、気合いを入れる声、トレーニング・マシンのプーリーにチェーンがすれる音、どしんとウェイトを床に落とすときの音、それに混じって、「さああと一と息」とか「がんばれ」と激励げきれいしている誰かの声――、それらの音声が濃厚な汗の匂いのする空気のなかで飛び交っていた。

 大輔はすぐ見つかった。インクライン・ベンチの脇に立って、ベンチ・プレスをしている研修生の面倒をみている。潤平が傍によると、

「ああ、潤平、どうした?」とすぐ反応した。「お前がこんなところに来るなんて珍しいな。――これ、やりたくなったのか? それならお前の恰好かっこうはちょっとマズいな。すくなくともジャージとTシャツは着てこないと……」

 潤平はかぶりを振った。

「そうじゃないんだよ」とスマートフォンを突き出し、「公彦叔父さん。出て」

 が、大輔が手を伸ばすと、

「あ、それよりお母さんの方がいいかも、って言ってた。どこ?」

「母さんならキッチンだ」

「ああ、そうなんだ。わかった。ありがと」

 潤平はそのまま回れ右して、引き返そうとした。

 大輔はやや残念そうに、

「何だ、身体を動かしに来たんじゃないのか」

「うん。ちょっと、電話に出て欲しかっただけなんだよ」

「やる気になったらいつでも来なさい。待ってるから」

「そうだねえ」考え込む振りをして、「BGMがあればね。メタリカかステイタス・クォーか……、アクリモニーでもいいや」

 そう言いおくと、潤平は父親を置き去りにしてスタジオを後にした。まったく、どいつもこいつも、自分をつかまえれば判で押したように〝ワークアウト〟への誘いしか口にしない。自分をいったい何だと思ってるんだ? 潤平は心裡しんりぶつぶつぼやきながら一階に降りた。たしかに、キッチンには千鶴子の姿があった。他の二、三の研修生たちと一緒になって洗い物をしている。

「なによ、潤平?」千鶴子は息子の顔を瞥見べっけんすると云うた。「もうおなか減ったの? お昼はまだまだ後だよ」

 潤平はかすかにふくづらをした。だが、普段が普段だから、という気持ちがあるので、ここはこらえた。

「ちがう、そんなんじゃなくてさ。いま公彦叔父さんと電話がつながってるんだけどね」

 潤平がそういうと、っと合点がてんして出てくれた。

「はい。……うん、うん、ああそう、――うんうん、――ううん(潤平を一瞥いちべつして)、あははは、そりゃいないわ、そうね、笑うトコじゃないわね、でもホントにいないから……、ええ、いてたまるもんですか……、ううん、そうだねえ(考え込む声で)、そりゃちょっと検討してみますけど……、はいはい」

 そそくさと電話を切る。スマートフォンを潤平に返すと千鶴子は、一ついきいて、

「むつかしいわねぇ」と言った。額に右の人差し指を当てて、更に深刻そうな声色で、「まったく、むつかしいったらありゃしないねえ」

 潤平はややれったくなって、

「何がさ?」と問うた。「一体何の話だか、ぼくにはてんでみえないんスけどねえ……」

「あら」千鶴子はいま気づいたかのように息子の顔をまじまじと見遣り、「何のことだかご承知ない」

 潤平は真顔で、

「はい。知らない。――存じません」

「そうスか」

 千鶴子はすッと一と息吸い込むと、きびすを返して歩き出した。潤平もいきおい、つられてその後を追従ついしょうした。母親はキッチンを出ると、暗い階段に足をかけた。

「何だよ、母さん」と潤平は背中に呼び掛けた。「一体何が何だか、サッパリ話がみえないんだけど……」

「スタジオに行きゃわかることよ」

「スタジオにィ?」

「そ。あんたのお父さんと話す必要があるわ」

「また、そんなこと云って……」

 何しろ、父親は今さっき見捨てたところなのだ。だが、潤平が止める前に、千鶴子はさっさとスタジオの戸を押してしまった。潤平は汗臭い熱気のこもる室内に這入はいるのを躊躇ちゅうちょして、外に留まっていた――、すると千鶴子はつかつかと大輔に歩み寄り、潤平の方を指差して身振みぶ手振てぶりも交え、何やら鳩首協議きゅうしゅきょうぎの様子である。大輔はまだインクライン・ベンチに付き添っていたが、千鶴子の話勢わせいに押されたのか、次第にスタジオの中央へ引っ張られるように動き、今や大型のトレーニング・マシンについているラット・プル・ダウンのバーに触って立っているが、顔は完全に考える表情になっている。と思うと、千鶴子はうんうん、と話がついた印に大きくうなずき、早足に歩き出して、スタジオの外に出てきた。そして潤平をつかまえると、

「お前、宮下さんはいやかい?」

 と問うた。

「えええっ!?」と当然ながら潤平は大きな声を上げてしまった。「宮下……サン?」

「そうだよ」千鶴子は深々と点頭てんとうした。「もっとも、向こうがお前をいやだと云うかも知れないけどね。その辺は訊かなきゃわかんないけど、お前、その何とかいうひとのコンサートに、宮下さんを連れて行きなさい」

 潤平は千鶴子の眼をっとみながら黙っていた。今にも、母親が、「ジョーダンよ、ジョーダン。全部冗談だから」と言ってくれるような気がしたのだ。だが、そんなことはなかった。

「――ンまあ、是非に、というなら、いいけどさ……」

「お前、あの子と高校で一緒だったらしいじゃないの。いいんじゃないの?」

「――う、うん。まあ」

「何か不都合ふつごうでもあるの?」

「い、いや、別に……」

「ならいいじゃない。決まり、決まった、と」

 千鶴子は小躍こおどりして、上階に行ってしまった。潤平は手の中のスマートフォンをうっそりと見下ろした。きっともう公彦叔父さんにもそういうことで話がついているのだろうな、と思って自分の部屋に戻り、潤平はターンテーブルにレコードを載せた。スタジオ・ミュージシャンの集合体バンド・トリリオンが一九八〇年にリリースした美麗びれいなジャケットのセカンド・アルバム『クリアー・アプローチ』だ。いつも心の乱れた時に聴くのだが、いちばん落ち着くのはやはりアルバムのラストを飾る〝ウィッシング・アイ・ニュー・イット・オール〟だ。けれども残念至極なことに、今朝はアルバムB面まで聴くことが能わず、A面三曲目〝アイ・ノウ・ザ・フィーリング〟でスタイラスを上げることになった。

 というのも、ドアにノックの音がしたからだ。

「だれ?」

 潤平が問うと、千鶴子の声で、

「あたしだよ。這入はいっていいかい?」

 と訊いて来るので、潤平はうっかり、

「ああいいよ」

 といきじりに返辞へんじしてしまった。

 ところが、いざドアが開いて戸口に現われた姿をみて潤平はびっくり。宮下若菜だったのだ。

「うわっ」

 とってみせる潤平に対し、若菜は、

「二度めのお早うだね、笠原くん」

 と澄ましたものである。

「き、きみね」潤平は半ばまごつきながらも返答のことばを探した。「い、いまの、たしか犯罪的行為だったはずだよっ」

「ごめんごめん」若菜はどこ吹く風で、「お母さんから聞いたよ、はなし」

「――うん。…んで?」

「あら、あたしに一緒に行ってほしくないの?」

 潤平は下を向いて考えるふりをした。

「行ってほしくないなら、行かないよ。だれか他に、適任てきにんのひとがいるだろうし」

 若菜の皮肉ひにく混じりの言葉を聞いて、潤平は、

「ぼくはいやじゃないけど…」

「いやじゃないけど、なに?」

「――そのう、公彦叔父さんに迷惑になると困るし……」

「どうして?」

「――そのう、叔父さんに迷惑になると困るから」

 繰り返すと、若菜は腰に手を当て、

「ほおう」と云った。「つまり、こういうワケか。宮下若菜ははすだから、同行するのに適役てきやくではない、と」

「いや…」潤平は口ごもる。「そういう…ワケでもないけどサ」

「じゃ、どういうワケよ?」

 若菜はくどかった。潤平は降参こうさんした。

「わかった、わかった。好きなとこに付いて来てちょうだい。好きにして」

 と諸手もろげたが、若菜は、

「ちょっと待ってよ。あたしがいちゃ、ご迷惑になるんじゃなかったの?」

 潤平は少しいらいらして、

「いいんだよ。もう…。そろそろ一人にしてよ」

「そういうワケにはいかないよ。ご迷惑になっちゃマズいからこそ、いってるワケでしょ」

 潤平は渋面じゅうめんをつくって、

「きみねえ」と到頭とうとう言った。「酒、んでない?」

「へ? お酒? あたしは未成年だから、もちろんお酒なんか呑むわけないでしょ」

「そう。それならいいんだけど」

「どこにいつ集合なのよ?」

「……そういう詳しいはなしは、まだ決まってない。ライヴ自体は十日くらい後だけど」

「そう。じゃあ笠原くん、詳細が決まったら知らせてね」

「――わかった」

「あたしが同行するので、構わないわよね?」

「――構わないよ」

「構いません、でしょ」

「――…かまいません」

 若菜は姿勢を変えて、

「よろしい」と言うた。「お邪魔じゃましたわね。失敬しっけい

 潤平はその背中に向かって、

「ちょっと」

 と呼び止めた。

「なによ?」

「――ちょっ、母さんは、何て?」

 若菜は少し笑ってみせた。

「お母さん? ああ、〝潤平があなたに、ぜひ一緒にライヴ・コンサートに行ってもらいたいみたいなんだけどねえ、どうかしら〟…、と、こう仰有おっしゃってたわよ」

 若菜のまたした千鶴子の物まねに、潤平はくずおれそうになる思いだった。

「また母さん、あんなこと……」

 若菜はその潤平の背中をばしばし叩いた。

「まあまあ、気にしなさんな、きみ。いつかはきっと照る日もある、って」

 そう云い残すと、若菜は茫然ぼうぜんとしている潤平を尻目しりめけて悠々ゆうゆうと歩み去った。

 潤平は孤影悄然こえいしょうぜん、ドアの前にくしていたが、やがて力なく自室じしつ這入はいった。

 ベッドの上に倒れ込み、思いきり「んああーッ!!」とでも叫べたらよかったのだが……、潤平は生憎あいにくそんなことをするほどのとんがった気性きしょうもかぶいた心意気こころいきも持ち合わせていない。できるのはHMかハード・ロックのレコードを聴くだけ。

 ――おおっと、その前に公彦叔父さんに電話しないと…。

 潤平はあわててスマートフォンを手にとった。

「ああそう、よかったよかった」

 電話口でも、叔父さんがほっとして嬉しそうにしている姿が眼にうかぶようだった。

「――んまあ、よかったと云えばよかったけど……」

「ん? 何かあるの?」

「――いえいえ、ひとごとです」

「そうか。……ライヴは三日だ。会場は話したけどビルボードライヴ。だから、当日は六本木駅で待ち合わせしようじゃないか。で、済まないが、その前に手伝いに来てほしいんだけど」

「ああわかりました」潤平は即答そくとうした。「明日――、で宜しいのでしたら、お伺いします」

「明日ね」叔父さんは鸚鵡おうむ返しに云う。「何時に来る?」

「そうですね、ぼくはヒマですから、ご都合のよい時間で」

「じゃあ―――、午後三時でどうかな?」

うかがいます」

 眠かったが、その晩まで潤平は昼寝せずに過ごし、夕食もきちんと大輔たちと共にとった。

「珍しいじゃないか」

 と大輔も千鶴子も眼を丸くしている。高校中退以来、潤平の生活サイクルはずっと昼夜逆転したままだったので、もっともな話だ。

 翌朝も潤平は朝六時過ぎに起き出した。朝食はほかの研修生たちと一緒にとったが、今朝は時間を少しずらしたので、宮下若菜とは顔を合わせなかった。

 潤平は午前中を、ハード・ロック雑誌に投稿する原稿を書いて過ごし、昼餐ちゅうさんの席で両親に、午後は外出する旨を告げた。叔父さんの名前を出すとふたりとも即座に承諾しょうだくした。

 公彦叔父さんは二子玉川ふたこたまがわに住んでいる。潤平は滅多めったに外出しないので、電車の乗り換えにはうとい。スマートフォンのアプリが頼りだ。電車に揺られながら、こういう時こそウォークマンがほしいんだよな、と思う。今年の誕生日プレゼントかクリスマスにねだってみよう。

 駅に着くと、叔父さんはにこにこして待っていた。眼鏡の奥の眼が柔和にゅうわそうだ。

「どうも…」

「いや、こちらこそ、野暮用やぼようで呼び出しちゃって」

 マンションへの道すがら、ぼちぼち話を交わす。

「学校、止めちゃって、その後どうしてんの?」

「――いやあ、ずっとウチにいますよ」

「体調はどうなの?」

「まあまあ、今は医者にもかかってないです」

「そうか。毎日つまらんだろう」

「いいえ。やることはありますから」

「なに?」

「――もの書いたりしてます」

「ほう。偉いな。じゃあ、どこかの賞に応募したりとか?」

「いいえ、文学的なものじゃありませんから」

「何を書いてるんだね?」

「音楽評論です。――ぼく、オンガクヒョーロンカになりたいんで……」

「ふうん」叔父さんは鼻を鳴らした。「しかしね……、まあいいか」

「父さんは、高卒資格をとれ、ってうるさいんですけど」

「そりゃあ、そうだ。音楽評論家だって、きちんと大学で何か一つおさめて、その上でそこにいるワケだからさ」

「え? そんなもんなんですか?」

 潤平の不敵ふてきな自信はふいにらぐ。

「そりゃあ、そうさ。そんなことも知らずによくやっていられるね?」

 潤平はあかくなった。叔父さんは、

「ぼくの周りにも、ロックじゃないが音楽評論をしてる知り合いはいるが、みな大卒だよ。専攻は芸術学や文学が多いが……」

 その日、二人は畳一畳ほどのパネルを室内に設置する作業を行った。角が触れたりするたびに、潤平はレイアウトを壊してしまうのではないか、とひやひやしたが、叔父さんは、

「なあに、レイアウトというのはね、完成がないものなんだ。こう、形を変え、姿を変え、天変地異てんぺんちいにも負けず、そうやってずっと続いていくものなのさ」

 とおおらかに笑うだけだった。そして、作業が済むと、

「さあ、今日の工賃だ」

と云って一万円札を出してくれた。それから、潤平に向かって、

「まず、生活のリズムをつくりなさい。昼夜が逆転したままじゃ、どこの高校にも入れないぞ」

 それでふたりは別れた。


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