B.
潤平は
そも、潤平が明峰学園に進学したのは、「多感で将来性ある十代始めの時間は、受験勉強などという
ともあれ潤平は明峰学園中等部を受験し、合格して入学した。潤平は個性の強い方だったが、いざ入ってみると潤平などに負けず劣らずのユニークな生徒ばかりであった。そこで
潤平はそういう自分の
だが、間違いは高等部一年の秋に訪れた――。潤平はその頃放送委員をしていた。主な担当事項としては、体育祭や文化祭などの行事への参加や、より日常的なものとしては昼休みと下校時刻の放送担当などがあった。
ある時潤平とふたりで昼休みの放送を担当する機会があり、その時若菜は、放送室の卓上におかれたメイデンの『第七の予言』とマスターマインドの『インソムニア』アルバムをみて、
「ああっ!」と嬉しげな歓声を上げたものだ。「笠原くん、マニアでしょ!」
「ち、違うよ」潤平は
が、若菜は、
「本気で否定するとこが怪しぃ」
と尚も
「笠原クンはメタルヘッド」
なる素敵なキャッチコピーを
潤平の
――
アルバムは、既に本篇を終り、アンコール公演に入っていた。ブラック・サバスによる〝ブラック・サバス〟、スレイヤーによる〝レイン・イン・ブラッド〟の二曲のカヴァーに加え、オリジナルの〝ダーク・エイジ〟が済むとアルバムも終りだ。
潤平は立ち上がり、ディスクを入れ替えた。今度はジューダス・プリーストによる『ステンド・クラス』だ。このアルバムの一曲目、〝エキサイター〟はお気に入りだ。
そのアルバムを聴きながら潤平はごろりとベッドに
――潤平はしばらく寝転がっていたが、
チェックすると、新着は四通。
「来月、ビルボードライヴ東京で、ジョン・ガードナーの来日公演があって、たまたまチケットが三枚取れたんだけど、一緒にどうかな? ――で、女の人ひとりを同伴すれば、チケットが半額になる、っていうんだけど……」
とのことであった。
公彦叔父さんには、いま〝彼女〟はいないらしい。潤平にもいない。ただの友だちでさえいないというのに、いて
――まあ一先ずそれは措くとして、いくらか
「お返しには何もいらないんだけど、若しよかったら――、というのは時間と体力とやる気があるなら、ということだが――、ちょっとぼくの家に来て、手伝ってもらいたいことがあるんだ」
詳しく読むと、鉄道模型についてのことだった。それなら問題はない。前にもやったことがある。つまり、公彦叔父さんがマンションに持っているレイアウト(鉄道模型の趣味世界では、ジオラマのことをこう呼んでいる)の拡張をしたいのだが、畳一畳ほどの板を二枚ほど設置する、それを助けて欲しい、ということだった。
――お安いご用だ。
だけど、お安くないご用がある。女の子の件だ。
潤平はジョン・ガードナーについてウェブで調べた。八年ほど前にプログレ・バンドのクレオパトラでデビューし、自身は五年前にソロ・デビュー。これまでに三枚のソロ・アルバムを出している。潤平は名前だけ知っていたが、まだアルバムを聴いたことはない。従ってCDも持っていない。
――どうするかな。ハード・ロックじゃないし……。
だけど、守備範囲はできるだけ
うう、とストレッチをして何気なしに窓外に眼をやると、既に外は明るくなっていた。時計は午前六時過ぎである。
――朝食は午前七時だよ。
若菜の言葉が耳に
しかし今朝の潤平は、曲がりなりにも〝普通の生活〟を、
部屋を一歩出ると、階下から音と匂いがただよってきた。
そして、一階のダイニング・キッチンに着くと、そこには、ああそうか、あのキッチンが家族三人のためにはどうも広すぎると思ったのは、こういうことだったか、と納得できる光景があった。
「ほら、和彦くん、卵が固くなる」
「千尋さん、トースト焦がさないで」
「幸穂ちゃん、もう
千鶴子は陣頭指揮を執って朝食の支度をする研修生に
「あら」と云うた。「お前、潤平…。何よ、びっくりさせないでよ。珍しいわね、あんたがこんなに早いなんて」
「
「――メニュー? ええっと、スクワットとフロント・ランジ、それが十回三セット…」
「ちゃうちゃう」潤平は鍋のほうを指差した。「朝食の献立」
「ああ」千鶴子は
「わかった、わかった」
その背を、小さな手がポンと叩いた。
「お早う、笠原クン」
振り向くと、誰あろう宮下若菜であった。
「――ああ」
潤平はもぐもぐと口の中で
「
「……」
続いてレーズンロールを取った。
「無視しないでよ、もう、水くさいなア」
「――別に無視なんかしてないよ。返辞してるじゃん」
「聞こえないもの」
「じゃあ、それで満足すりゃいいじゃねえか」
「あれっ」若菜は前に回り込んできた。「――ひょっとして、あんた、まだ何か怒ってんの?」
ずばりといわれると、痛い。
「
「クラいなあ、だからダメなんだよ」
「だから
「それじゃあ彼女も友だちもできないぞ」
「うるっさいなあ」
――と、そこへ千鶴子が来て、
「こらあ、そこ、うるさいぞ」
「うるさいのはこの女だよ」
「違うよ、せっかくあたしが指摘してやってるのにィ」
若菜は口を尖らせる。千鶴子は、
「あら」と意外そうに云うた。「潤平、お前が友だちをつくるなんて何年ぶりかしら。いいことじゃないの。――宮下さんも……」
「違う。そんなんじゃないったら」
潤平は
「ほうら、お母さまのいう通りじゃないの」
というので、潤平は更に気むずかしい顔をした。
「こいつは、高校ン時、ちょっと一緒だっただけなんだよ」
潤平は弁解がましく母親に云うた。千鶴子は、
「あら、そうなの。
と満更でもなさそうだ。
潤平が
「あたし、ホントはとっても悪いと思ってんだ」と云うた。「あの時、ひょっとして傷つけちゃったか、と思ってさ……」
「――――わかってんのかよ」
若菜は卵をつつきながら小さく
「ハード・ロックのマニアだ、ってことでしょ?」
「あたしも悪気はなかったのよ」
「悪気なんてあって
潤平の言葉に、微かに
「ゴメンね。本当に悪かったと思って……」
若菜をちらりとみた潤平は、
「いいよ、もう、気にしてないから」
と云うた。若菜は微笑んだ。
案外、かわいい顔だちをしていることに潤平は気づいた。
――だが、ちょっと待てよ、という気もする。
「トレーニング、やらない?」
「やらない」
「楽しいよォ」
「運動はキライなんだ」
「あのさあ」
「うん?」
「――あの時、一体何が
「――あの時って?」
若菜は低声で、
「ガッコを止めたとき」
「ああ」潤平は卵を呑み込んだ。「――あれね、色つけされるのが
「色つけ?」
「そ。何つうか、特定の方向に、
「ああ、そうだったんだ」若菜はキレイなほほえみをみせた。「もう、やらないから。約束するよ」
「――ああ」
潤平は眼を伏せた。――次に眼を上げると、宮下若菜の姿はもう消えていた。
その朝潤平は、クリーム・スープとレーズンロールをお代りし、珈琲も三杯飲んだ。漸っと満足したところへやって来たのは大輔だった。
「やあ、潤平」
「うん」潤平は何となく
「――いや、お前にもやる気が出て来たのかな、と思ってさ」
「やる気?」
「そうだ。ぼくらと一緒に、〝ワークアウト〟したければ、
潤平は眼を
「そ、そんなんじゃないったらぁ」
「……そうなのか?」
大輔があまり残念そうに・悲しそうに云うので、潤平は
「…――うん」
「まあ、いいさ」大輔は潤平の肩をポンと叩いた。「
潤平は自室に戻ると、早速レコードをだした。ミシガン州デトロイト出身のバンド――、MC5とイギー・ポップ・アンド・ザ・ストゥージズだ。前者は69年にリリースされたデビュー盤(ライヴ盤)の『キック・アウト・ザ・ジャムズ』、後者は70年発表のセカンド・アルバム『ファン・ハウス』だ。潤平はMC5でザ・ヴェンチャーズのようにモズライトのギターを
少しリラックスしてぼうっと音楽に
そうだ、公彦叔父さんに
叔父さんにメールで返信しようか、とも考えたが、時計をみてもう午前八時三〇分をまわっていることを確認し、電話をかけようと決めた。公彦叔父さんはフリーランスのライターと翻訳業を営んでいる。忙しいのは平常なら平日の午前十時前から
潤平はスマートフォン(これは親に持たされていた)をだすと、アドレス帳で叔父さんの番号を呼び出し、呼び出し
三、四回のコールで叔父さんそのひとが出た。
「もしもし」
「ああ、ぼくですけど。お誘いありがとうございました。それで――」
「うん。どうした?」
「ぜひ行ってみたいんですけど……」
「
「――その、女の子をひとり、って云っていましたけど。
「ああ」
「まあ、そんなところです」
叔父さんは大きな声で笑った。
「その点に関しては、心配は
「――どうしてです?」
「まあ、いいから、兄さんか千鶴子さんを出してくれないかな。こういう話だから、
「?」
潤平は
脇にあるドアを開けると、バーベルを
大輔はすぐ見つかった。インクライン・ベンチの脇に立って、ベンチ・プレスをしている研修生の面倒をみている。潤平が傍によると、
「ああ、潤平、どうした?」とすぐ反応した。「お前がこんなところに来るなんて珍しいな。――これ、やりたくなったのか? それならお前の
潤平はかぶりを振った。
「そうじゃないんだよ」とスマートフォンを突き出し、「公彦叔父さん。出て」
が、大輔が手を伸ばすと、
「あ、それよりお母さんの方がいいかも、って言ってた。どこ?」
「母さんならキッチンだ」
「ああ、そうなんだ。わかった。ありがと」
潤平はその
大輔はやや残念そうに、
「何だ、身体を動かしに来たんじゃないのか」
「うん。ちょっと、電話に出て欲しかっただけなんだよ」
「やる気になったらいつでも来なさい。待ってるから」
「そうだねえ」考え込む振りをして、「BGMがあればね。メタリカかステイタス・クォーか……、アクリモニーでもいいや」
そう言いおくと、潤平は父親を置き去りにしてスタジオを後にした。まったく、どいつもこいつも、自分をつかまえれば判で押したように〝ワークアウト〟への誘いしか口にしない。自分をいったい何だと思ってるんだ? 潤平は
「なによ、潤平?」千鶴子は息子の顔を
潤平は
「ちがう、そんなんじゃなくてさ。いま公彦叔父さんと電話が
潤平がそういうと、
「はい。……うん、うん、ああそう、――うんうん、――ううん(潤平を
そそくさと電話を切る。スマートフォンを潤平に返すと千鶴子は、一つ
「むつかしいわねぇ」と言った。額に右の人差し指を当てて、更に深刻そうな声色で、「まったく、むつかしいったらありゃしないねえ」
潤平はやや
「何がさ?」と問うた。「一体何の話だか、ぼくにはてんでみえないんスけどねえ……」
「あら」千鶴子はいま気づいたかのように息子の顔をまじまじと見遣り、「何のことだかご承知ない」
潤平は真顔で、
「はい。知らない。――存じません」
「そうスか」
千鶴子はすッと一と息吸い込むと、
「何だよ、母さん」と潤平は背中に呼び掛けた。「一体何が何だか、サッパリ話がみえないんだけど……」
「スタジオに行きゃわかることよ」
「スタジオにィ?」
「そ。あんたのお父さんと話す必要があるわ」
「また、そんなこと云って……」
何しろ、父親は今さっき見捨てたところなのだ。だが、潤平が止める前に、千鶴子はさっさとスタジオの戸を押してしまった。潤平は汗臭い熱気の
「お前、宮下さんは
と問うた。
「えええっ!?」と当然ながら潤平は大きな声を上げてしまった。「宮下……サン?」
「そうだよ」千鶴子は深々と
潤平は千鶴子の眼を
「――ンまあ、是非に、というなら、いいけどさ……」
「お前、あの子と高校で一緒だったらしいじゃないの。いいんじゃないの?」
「――う、うん。まあ」
「何か
「い、いや、別に……」
「ならいいじゃない。決まり、決まった、と」
千鶴子は
というのも、ドアにノックの音がしたからだ。
「だれ?」
潤平が問うと、千鶴子の声で、
「あたしだよ。
と訊いて来るので、潤平はうっかり、
「ああいいよ」
と
ところが、いざドアが開いて戸口に現われた姿をみて潤平はびっくり。宮下若菜だったのだ。
「うわっ」
と
「二度めのお早うだね、笠原くん」
と澄ましたものである。
「き、きみね」潤平は半ばまごつきながらも返答の
「ごめんごめん」若菜はどこ吹く風で、「お母さんから聞いたよ、はなし」
「――うん。…んで?」
「あら、あたしに一緒に行ってほしくないの?」
潤平は下を向いて考えるふりをした。
「行ってほしくないなら、行かないよ。だれか他に、
若菜の
「ぼくは
「いやじゃないけど、なに?」
「――そのう、公彦叔父さんに迷惑になると困るし……」
「どうして?」
「――そのう、叔父さんに迷惑になると困るから」
繰り返すと、若菜は腰に手を当て、
「ほおう」と云った。「つまり、こういうワケか。宮下若菜は
「いや…」潤平は口ごもる。「そういう…ワケでもないけどサ」
「じゃ、どういうワケよ?」
若菜はくどかった。潤平は
「わかった、わかった。好きなとこに付いて来てちょうだい。好きにして」
と
「ちょっと待ってよ。あたしがいちゃ、ご迷惑になるんじゃなかったの?」
潤平は少しいらいらして、
「いいんだよ。もう…。そろそろ一人にしてよ」
「そういうワケにはいかないよ。ご迷惑になっちゃマズいからこそ、いってるワケでしょ」
潤平は
「きみねえ」と
「へ? お酒? あたしは未成年だから、もちろんお酒なんか呑むわけないでしょ」
「そう。それならいいんだけど」
「どこにいつ集合なのよ?」
「……そういう詳しいはなしは、まだ決まってない。ライヴ自体は十日くらい後だけど」
「そう。じゃあ笠原くん、詳細が決まったら知らせてね」
「――わかった」
「あたしが同行するので、構わないわよね?」
「――構わないよ」
「構いません、でしょ」
「――…かまいません」
若菜は姿勢を変えて、
「よろしい」と言うた。「お
潤平はその背中に向かって、
「ちょっと」
と呼び止めた。
「なによ?」
「――ちょっ、母さんは、何て?」
若菜は少し笑ってみせた。
「お母さん? ああ、〝潤平があなたに、ぜひ一緒にライヴ・コンサートに行ってもらいたいみたいなんだけどねえ、どうかしら〟…、と、こう
若菜のまた
「また母さん、あんなこと……」
若菜はその潤平の背中をばしばし叩いた。
「まあまあ、気にしなさんな、きみ。いつかはきっと照る日もある、って」
そう云い残すと、若菜は
潤平は
ベッドの上に倒れ込み、思いきり「んああーッ!!」とでも叫べたらよかったのだが……、潤平は
――おおっと、その前に公彦叔父さんに電話しないと…。
潤平は
「ああそう、よかったよかった」
電話口でも、叔父さんがほっとして嬉しそうにしている姿が眼に
「――んまあ、よかったと云えばよかったけど……」
「ん? 何かあるの?」
「――いえいえ、
「そうか。……ライヴは三日だ。会場は話したけどビルボードライヴ。だから、当日は六本木駅で待ち合わせしようじゃないか。で、済まないが、その前に手伝いに来てほしいんだけど」
「ああわかりました」潤平は
「明日ね」叔父さんは
「そうですね、ぼくはヒマですから、ご都合のよい時間で」
「じゃあ―――、午後三時でどうかな?」
「
眠かったが、その晩まで潤平は昼寝せずに過ごし、夕食もきちんと大輔たちと共にとった。
「珍しいじゃないか」
と大輔も千鶴子も眼を丸くしている。高校中退以来、潤平の生活サイクルはずっと昼夜逆転したままだったので、
翌朝も潤平は朝六時過ぎに起き出した。朝食はほかの研修生たちと一緒にとったが、今朝は時間を少しずらしたので、宮下若菜とは顔を合わせなかった。
潤平は午前中を、ハード・ロック雑誌に投稿する原稿を書いて過ごし、
公彦叔父さんは
駅に着くと、叔父さんはにこにこして待っていた。眼鏡の奥の眼が
「どうも…」
「いや、こちらこそ、
マンションへの道すがら、ぼちぼち話を交わす。
「学校、止めちゃって、その後どうしてんの?」
「――いやあ、ずっとウチにいますよ」
「体調はどうなの?」
「まあまあ、今は医者にもかかってないです」
「そうか。毎日つまらんだろう」
「いいえ。やることはありますから」
「なに?」
「――もの書いたりしてます」
「ほう。偉いな。じゃあ、どこかの賞に応募したりとか?」
「いいえ、文学的なものじゃありませんから」
「何を書いてるんだね?」
「音楽評論です。――ぼく、オンガクヒョーロンカになりたいんで……」
「ふうん」叔父さんは鼻を鳴らした。「しかしね……、まあいいか」
「父さんは、高卒資格をとれ、ってうるさいんですけど」
「そりゃあ、そうだ。音楽評論家だって、きちんと大学で何か一つ
「え? そんなもんなんですか?」
潤平の
「そりゃあ、そうさ。そんなことも知らずによくやっていられるね?」
潤平は
「ぼくの周りにも、ロックじゃないが音楽評論をしてる知り合いはいるが、みな大卒だよ。専攻は芸術学や文学が多いが……」
その日、二人は畳一畳ほどのパネルを室内に設置する作業を行った。角が触れたりするたびに、潤平はレイアウトを壊してしまうのではないか、とひやひやしたが、叔父さんは、
「なあに、レイアウトというのはね、完成がないものなんだ。こう、形を変え、姿を変え、
とおおらかに笑うだけだった。そして、作業が済むと、
「さあ、今日の工賃だ」
と云って一万円札を出してくれた。それから、潤平に向かって、
「まず、生活のリズムをつくりなさい。昼夜が逆転したままじゃ、どこの高校にも入れないぞ」
それでふたりは別れた。
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