第7話 旅の始まり

 トントンという、何か切っているような音で目が覚めた。大好きで安心する音だ。宗介にとって、料理の音は信介の音だ。両親が、朝何か作っていたことなんて一度もない。この音は、大叔父の家に泊まったときにだけ聞ける特別なものなのだ。目を開ける。部屋はもう明るい。鳥の声も聞こえた。なんて爽快な朝なのだろうか。

 しかし、目に映った部屋は見慣れた大叔父の家のものではなかった。見知らぬ風景に硬直する。

 急いで身を起こして辺りを見回せば、木の家具に囲まれた、温かく可愛らしい家だとわかった。昨日、リリィの家のある"異世界"にやってきたことを思い出す。

 この家は信介の家ではなく、あの千年生きているというおじいさんの家だ。

 乱暴に布団を捲ったために、隣で寝ていたリリィが目を覚ます。少し身じろぎをして、ゆっくりとその瞼を開けた。


「おはよお、そーすけ」

「おはようリリィ」


 間延びした挨拶をし、もぞもぞとまだ眠そうにしながらもリリィは起き上がった。ベッドから降りて、梯子の方に近づいていく。


「おお、起きたかい。おはよう。もうご飯はできるからね」


 リリィが上から下の部屋を覗き込むように身を乗り出せば、下からおじいさんの声がかかった。嬉しそうな声を上げて、リリィは梯子を降りていく。宗介の家にいたとき同様、遠慮なんてカケラも見せない少女に呆れていると、宗介にも声がかかった。

 泊めてくれたおじいさんを待たせるわけにもいかない。返事をしてすぐに梯子を降りた。

 宗介が降りると、おじいさんは昨晩と同じように穏やかに笑って朝食の準備をしていた。彼の側には、待ち遠しそうにリリィが木のお椀を持って立っている。

 とりあえず机に出してあったお椀を持って、宗介もおじいさんに近づいてみる。そんな宗介に、彼はやはりにっこりと笑って宗介の持ったお椀にスープをついてくれた。ほかほかのスープは少し薄めのシチューのようだった。にんじんやじゃがいもなど、具がたくさんで美味しそうだ。

 三人でテーブルに着く。おじいさんが手を組み、祈るようなポーズをしたので、宗介とリリィは見様見真似で同じようにした。目を開けてから彼は晴れやかに笑う。

「さあ、食べようか」


 食事はやはり質素なものだった。硬めのパンと、ミルク。温かいミルクは、砂糖が入っているのか少し甘い。スープも具は野菜のみだった。

 しかし味はいい。リリィはパンを一口食べたとたん目を輝かせたし、宗介も驚いた。あっという間に平らげてしまった。

 朝の穏やかな日差しが窓から差し込み、ご飯を食べてお腹がいっぱいになってのんびりした空気が流れた。一瞬宗介は、なぜここにきたのかを忘れそうになったくらいだ。

 ミルクの器をテーブルに置きながらおじいさんが話し出し、ようやく目的を思い出す。

「これからどこに向かうかはわかっているのかい」

 ぱっと弾かれたように背筋を正して座る。そうだ、どこに向かえばいいかなど考えてもなかった。リリィはどうだろうかと思いチラリと見れば、やはり特に考えてなさそうだ。

「これからどこに行くんだ?」

 とりあえず尋ねる。

 そうすれば彼女は、当然とも言うように答えた。

「あのね、遠くだよ。海のところ」

 しかしやはり要領は得ない。どうしたものかと思い悩めば、おじいさんが口を開く。

「海か。それなら東に向かうのがいいね。少し行けば大きな市場もあるし」

 おじいさんの方を見れば、彼は真剣な顔をしていた。

「すぐつく?」

 リリィのこの質問には少し考えてから答える。

「……二つ町を越えなくてはならないね。君たちの足なら、日が沈む前に一つめの町に着くだろう。三日、かかるね」

「みっか……」

 思った以上に時間がかかる。いや、「旅」なのだから仕方ないのだろうか。それよりも、おじいさんは君たちの"足"、と言わなかっただろうか。まさかとは思うが、三日間歩いて移動するのか。

 信じたくないが、おじいさんのこの暮らしぶり。自動車や電車なんかはなさそうだ。というか、この家には電気が来ていない。そういえば昨夜おじいさんはランプを掲げていた。

 考えただけで、もうすでに疲れたが仕方がない。リリィについて行かなくては、宗介は元の世界にすら帰れない。リリィを家に帰してから、自分も家に帰る。面倒だが、これが最短ルートだ。

 ふふふと、温和な笑顔でおじいさんが語りかける。

「そんなに険しい道ではないよ。道もきちんとしているから迷うこともないだろう」

 あまり信じられなかったが、今はこの言葉に縋るしかなかった。


 ご飯を食べてしばらくして、二人はおじいさんの家を発つことになった。

 おじいさんは、家の前の道まで出て見送ってくれた上に、いくらかのお金と食べ物包んだものを持たせてくれた。そんな厚意は受けられないと固辞しようとしたが、結局押し切られてしまった。リリィは機嫌よくその包みを抱えている。

 包みを渡すときのおじいさんの表情が、ひどく切なそうだったのが気になるが、もうなぜかを確かめることはできない。


 道はおじいさんの言った通り、意外と舗装されていて歩きやすかった。道に沿ってしばらく歩くと、遠くから何か聞こえて来るような気がした。犬の鳴き声のようなそれに耳をすましていると、次第に近づいてくるのがわかる。

 後ろだ。恐る恐る振り向けば、犬とはいえないほど大きな何か獣がこちらを目指して走ってきているのが見えた。

 声の出る限りを尽くして叫ぶ。リリィも驚いたようで、その場で悲鳴を上げて飛び上った。

 とりあえず走り出した。流石にリリィをおいていくわけにはいかず、彼女の速度に合わせたために宗介の全力疾走というほどではなかったが、とにかく二人は走って逃げた。

 どのくらい走ったかはわからないが、気づけば犬の化け物はいなくなっていた。

「疲れた……」

「リリィもぉ……」

 安堵と疲れで、道の端にしゃがみ込む。足はだるいし、走ったせいで喉も痛い。リリィも疲れたようで、ぺたんと両手をついて座り込んだ。

「あれ」

 ぽかんと小さな女の子は、座り込んだまま自分の手を見る。

 その手には、おじいさんの持たせてくれた包みはもうなかった。

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