第6話 異世界到着

 宗介が目を覚ますと、満点の星空だった。月は堂々と輝いている。頭を横へ動かすと、ここは外で、かつどこかの湖畔らしいことがわかった。視界いっぱいに水面に咲き乱れる蓮の花が広がっていた。


 ──夜、なのに。


 黒い水面に純白の蓮。真上に広がる数多の星々。あまりに幻想的な光景に宗介はため息をついた。

 寝転んだまま見惚れていると、小さな足音とともに鈴の音のような声があがる。


「宗介! 目が覚めた? 苦しく無い?」

「リリィ……」


 サンダルを両手に持って歩いてくる少女を見て、宗介はようやく自分が何をしたかを思い出した。

 そう、リリィの言う通り、あの池の月目掛けて飛び込んだのだ。馬鹿なことをしたと思う。まさか、本当に庭の池を突き抜けてあり得ざる場所に出るなんて。


「大丈夫? 苦しいの?」


 起き上がらない宗介に、リリィは不安になったようだ。仰向けのまま湖を見続ける宗介の横に手をついて、顔を覗き込む。


「違うよ。……あんまりに綺麗だから、死んだのかと思っただけ」


 そういうと、リリィは宗介に手を差し出した。すんなりとその手を受け入れて、握る。微笑んで引っ張られるがあまりに頼りなく、結局ほとんど自分の力で立ち上がった。


「リリィ、靴脱げてたから探しに行ってたの。宗介は何かなくなってるものない?」


 サンダルを掲げて見せながらリリィはどこかに行っていた説明をした。問われて身の回りを確認する。靴は両方履いているし、特に変化はなかった。池に飛び込む前にスマホは置いてきた。


「ないよ。これからどこに向かうんだ?」


 リリィは少し考え込むようにしてから、どこかを指さした。


「あっち。とりあえず人のいるところに行かなきゃ」

「なるほど」


 どうしてあっちに人が居るのか分かるんだ、なんてことはもう聞かない。リリィには分かるのだ。恐らく。

 こちらにきてしまった以上、宗介に分かることはない。リリィの言うことに従うほかなかった。

 軽い足取りでどこかへ向かうリリィを追う。上を見れば絵に描いたような星空だっだ。月と星の明かりのおかげか、街灯などひとつもないのに恐怖心を煽られることはなかったし、周囲もよく見える。あちら、日本にいたときには夏だったが、こっちに季節はあるのかは分からなかった。現状、暑くもなく寒くもなくといった気温だ。過ごしやすくはある。

 しばらく行くと本当に家があった。しかし集落ではなく、ぽつねんと、木でできた小さな家がひとつだけ。

 こんな夜中にドアを叩くのも迷惑極まりないのではと思って家まで近づくと、家から少し外れた古屋の前で誰かが動いているのが分かった。どうやらまだ眠っていないらしい。


 ──初対面で泊まらせては無遠慮すぎる。でも何で言ったらいいのか分からない……。


 どうやって話しかけようか悩んでいると、外で作業をしていたのは、高齢の老人なことがわかった。出だしの文句を考えていたら、最終兵器リリィは全く遠慮なしに話しかけていた。止める間もなかった。


「こんばんは、おじいさん」

「おや、小さなお嬢さん。こんばんは。こんな夜中にどうしたんだい」


 やけに穏やかな会話を繰り広げられて拍子抜けした。笑顔でリリィを見た老人は、宗介にも穏やかな笑みを向ける。


「あのね、家に帰る旅をしているの。今晩は泊めてくれないかしら」

「それは構わないが、どこから来たんだい? この辺はもう門が閉じていただろう」

「あの湖からよ」


 リリィがそう言うと、老人はわずかに目を見開いた。そして宗介を凝視する。なにか、心得た風に頷いて、2人に向かって手招きした。


「……そうかい。それは、お疲れ様。明日には立つんだろう。それなら今晩くらいはゆっくりしていきな」


 ありがとうと笑顔でいうリリィに倣って宗介を礼を述べる。しかし、こうも宿泊許可が出てもいいのだろうか。あまりにもうまくいきすぎではと、警戒心が顔を出す。


 しかしリリィは既に泊まる気だ。リリィを置いていくわけにも行かず、さらに宗介1人で何かできるわけでも無い。仕方なく、小さな赤いドアを潜って老人の家に入った。

 彼の家は簡素で暖かかった。机や椅子、書棚なども全て木でできているせいかもしれない。


「座るといい。上に客人用のベッドがあるからね。もう眠るかい?」


 老人は天井へと延びた木の梯子を示した。それはロフトのような場所へ繋がっており、そのスペースを貸してくれるようだ。

 寝るべきか、何か話すべきか迷っていると、老人は柔和に話した。


「風が吹いてね。何か飛ばされた音がしたから外に出たのさ。丁度よかったねぇ」

 

 にこにこと、まるで邪気なく微笑まれる。リリィはそのまま差し出されたミルクを満足げに飲んでいる。こんな笑顔を浮かべられる人を疑いたくは無い。しかし、あまりに出来すぎていないかと不安になった。

 つい力んだ声が出る。


「あの! 俺たちすっごく怪しくないですか?!」


 ぱちりと、メガネの奥の黒い目が宗介を見つめた。真っ当なことを言ったはずだ。すると老人はやはり穏やかな笑顔で応えた。少し楽しんでいる響きが声に乗る。


「この歳になると、善人と悪人の区別くらいすぐつくさ」

「おじーちゃんいくつなの?」

「リリィ……っ!」

「はっはっは。いい、いい。そうだねぇ、千近いんじゃないかなあ」


 あまり覚えてないんだけどねぇと、照れ臭そうに笑う老人に宗介は目を剥いた。


「せん……?!」


 宗介の素直な驚嘆に、老人は悪戯っぽく笑う。フォフォフォと、サンタクロースのような髭を揺らした。


「素直じゃな。そうそう、今年で937じゃった」


 信じられないと疑う目で見る。そんな宗介にも、老人は気分を害した様子はなかった。

 しかし、急に確かめるような目になる。ぎくりとすると、彼は懐かしむように言った。


「50年前、君に似た、とても闊達な青年が来たのも覚えておるよ」


 唐突に大叔父の話題を振られて一瞬思考が停止する。しかし即座に納得もした。なるほどと。だからリリィはすぐにいくべき方向を指し示したのかと。湖の近くに心当たりがあったのだ。

 そして、大昔、信介がここに来ていたという事実に、落ち着かなくなる。


 ──知らないことが、いっぱいだ。


 池を潜って不思議の世界に行ったなんて。絵本を読むよりも夜の読み聞かせに向いているのに。信介は一言もそんな話をしなかった。

 それが少し、心を締め付ける。


「彼は君の家族かい?」

「あ、えっと、はい。大叔父です」

「そうかい。それじゃあ……」

「…………、先日、無くなりました」


 老人の黒い目が僅かに見開かれる。膝の上で拳を作っているのを、宗介は見逃さなかった。


「そうかい……。人の命の、なんと短いことか……」


 千生きる彼にとってはそうだろうなと、他人事のように思う。宗介は人だ。信介くらい生きられたら良い方だ。千年生きるなんて、喜びも苦しみも、彼にとってどんなものなのか検討もつかない。

 老人はリリィに向き直った。何故か憂いのこもった静かな目をしている。


「それなら、帰るんだね」

「うん。帰ります」


 老人の言葉に応えるリリィは、いつもとは違った、全てを超越したような凪いだ顔で返事をしていた。

 宗介には、わからない。こちらの人間では無い以上、常識も知識もないのだから。老人は心得た風に頷いて、席を立った。


「お湯の準備をしてあげようね。それが済んだら、ゆっくりおやすみ」


 そう言って別室へ消える小さな背中を見送って、宗介はリリィの方を見た。

 そこにはミルクで髭をつくった小さな女の子がいる。宗介の視線に気づき、伺うように首を傾げる姿は、先ほどの別人のような静かな態度の名残すらなかった。


 老人はすぐに支度をしてくれた。身の回りを整えて、梯子を使って上に上がる。初めてのロフトで少しテンションが上がったが、色々あった疲れのせいか眠気は即座にやってきた。

 ベッドは一つしかなかったのでリリィと使った。壁際がリリィだ。よく食べよく眠る小さな子は、ベッドに入った途端に夢の世界へと向かったようだ。

 背中の向こうで規則的な呼吸を感じながら、宗介もすぐに眠った。

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