第5話 月の門をくぐれ
ようやく月が空に登った。
リリィの話によると、お家へ行くためには、池に映った月をくぐる必要があるらしい。くぐるというのは、つまり、飛び込むということである。何が楽しくて池に飛び込まないと行けないのか。大叔父の死の直後、自分は何をしようとしているのかと大変虚しくなる。
しかし連れて行くと約束してしまったのだ。こうなればリリィの言うことに付き合ってあげるほかない。
正直あまり彼女の言うことを信じていないが、要求通りのことをすれば気が済むだろう。信介も少し嘯くところがあった。愉快なじいさん、という印象だったしその通りだったのだが、その冗談を子供のリリィは鵜呑みにしてしまったのだろうと結論づけた。
今宵の月は満月。生憎の曇り、ともならず、雲ひとつない晴天である。
縁側に座り、2人で満月を見上げた。リリィは足をぷらぷらさせながらラムネを飲んでいる。本当によく食う子である。
静かで穏やかな時の流れに、今から池に飛び込むなんていう愚行をしようとしていることを一瞬だけ忘れる。
こういうふうに、いつも2人で話していた。学校のことや、家のこと。信介はいつも笑顔で宗介の話を聞いた。しかし本当は、宗介は自分のことを話すよりも信介の話を聞く方が好きだった。
もう二度と来ない時間を懐かしむ。
不意に桜色の爪の指が、空に向けられた。
怪訝に思いリリィを見ると、彼女は真っ直ぐに月を見ている。
「きれいな月。ピカピカしてる」
月のような彼女の目に、本物の月が映り込んでいる。綺麗だと思った。そのままもう一度月を見上げる。
「たぶん、信介が磨いたのね」
思わずリリィの方を向いた。宗介の反応を面白そうに見て、リリィは無邪気に微笑んで続ける。
「ピカピカの月は、お昼のうちに磨いておくんだよって言ってた。いま、お空にいるんなら磨き放題でしょ」
「……そうだね」
この話を聞いて、本当にリリィと信介は知り合いだったのだと納得した。
棺に横たわる大叔父の顔を反芻し、胸が苦しくなっていたが、リリィと話して心が軽くなる。一生懸命に月を雑巾で磨いている信介を想像すると少しだけ口角が上がった。
空にいるのなら、苦しくはない。
しばらく2人は会話もなく月を見上げていた。
たまにリリィが傾けるラムネの瓶の中で、カラカラとビー玉が音を立てる。どこからかカエルの鳴き声が聞こえる。緩慢に吹き抜ける風が草木を揺らす。
静かに、ゆっくりと、満ちていく。
こんと、軽く音を鳴らしてリリィはラムネの瓶を縁側に置いた。横に座っている宗介に目を向ける。
月明かりが彼女と周りの境界を融かしているようだった。白銀の髪が神々しい。思わず見惚れると、リリィは既に見慣れた無邪気な笑顔を咲かせた。
「それじゃあ、いこっか」
月は天辺に来ている。測ったように、池の真ん中に映っていた。
子供の頃感じた恐怖が甦る。
そうだずっとこの池が怖かったのだ。美しく、ひたすら美しく月だけを映す水面は、まるで、何かを呼んでいるようで──。
あの池は正しく呼んだのだ。リリィは来た。そして、宗介は今から行くのだ。
無意識に足がすくむ。しかし目の前に立つリリィは、宗介の買ってきたサンダルを履いて、可憐な笑みで宗介の手を引く。もはや、立ち止まることはできない。
すくむ足だが、確かな足取りで池まで向かう。繋がれたリリィの手は思った以上に小さく、温かかった。
「飛び込むんだよ、宗介。わかった?」
「わかったよ」
今更ながら気づくが、池の飛び石は腹が立つくらい正確に月の前に配置されていた。
「いくよぉ、せーのっ」
覚悟を決めて池の月に飛び込む。
庭の池だ。全く深さはない。そう、無いはずなのだ。何なら昔手入れを手伝ったこともある。あの時、宗介の膝下の深さだったはずなのに。
「……?!」
いつまで経っても足が底につかない。それどころか頭まで水に浸かっている。
パニック状態で上を向けば、明らかに池の中では無い光景が広がっていた。
澄み切った水が、あまりに深く、あまりに浅く、青なのか透明なのかわからない色彩で満ちている。
夜のはずなのに明るい。いや、明るいのか暗いのかわからない。ただ澄んでいる。
繋いだ手の感触だけは確かだと、縋るように力を込める。握り返されたのを僅かに感じて、宗介は意識を手放した。
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