第3話 リリィ

 どれだけの時間、そうして泣き続けている小さな人魚を抱えていただろうか。

 ふと視線を少女の尾びれに向けると、それは二本の足になっていた。そう言えば、最初に少女が岩で眠っていた時は普通の少女だと思ったのだから、尾びれではなかったのだ。池に落ち濡れるとあの姿になったようだ。その逆に時間が経って乾くと戻るのだろうか。

 少女の涙も止まったらしい。しゃくりあげていたのがいつの間にかやんでいた。

 そんなことを考えていると、少女が腕の中から宗介を見上げた。


「そうすけ?」


「……うん」


 小さな女の子が、自分を呼び捨てかと少し呆れるが、取り敢えずスルーする。彼女は宗介にとっても辛い現実を口にした。


「……信介はもうここにいないの?」


「……そうだよ」


 自分でも傷つきながら返事をすれば、うるりと、また彼女の瞳に涙の膜が張る。拭ってあげたいが、宗介が拭う前に、彼女の涙は真珠になり、ぽろぽろと、頬を濡らすことなく落ちていく。

 美しい真珠を惜しげも無くこぼし続ける彼女を見つめながら、宗介はそれでも彼女が羨ましいと感じていた。

 大叔父の死が、悲しいのは宗介だって本当だ。この少女が大叔父とどんな関係にあるのかは知らないが、彼女の悲しみも偽りのないものだと理解している。そうでなければ、死んだと聞いただけで、こんなにも綺麗な涙を零せるはずがない。


 先ほど床に蹲り泣いた自分を思い返す。大叔父との関係、そして彼への態度に後悔だけが押し寄せていて、彼を想ってなく資格などないと、できる限り悲しみを押さえつけていた。


 ──喪失に対する純粋な悲哀か。羨ましいなぁ。


 こんな的外れな羨望など、彼女にとってあまりに失礼だと思うが、一度湧いた仄暗い感情をすぐには消し去れない。


 不意に少女が動き出した。驚いて体を離すと、ぽつりと彼女は呟いた。


「信介がいないなら、リリィもう帰る」


「帰るって……。ていうか君の名前はリリィっていうの?」


「そうだよ」


 何故か得意げに宗介を見返す少女改めリリィは、名前を呼ばれて嬉しそうな顔をした。しかし直後に体を震わせ、くしゅんと小さくくしゃみをする。それにより宗介は彼女が池に落ちていたことを思い出した。濡れ鼠で放置してしまったのだから夏とはいえ寒いに決まっている。慌てて家に入るように促した。


「ごめん、濡れてるし寒いよな。そこのソファに座っていてくれ。タオル取ってくるから」


 足に戻っているためか、今度はリリィはすんなりと立った。彼女は遠慮なく部屋のソファに座る。勝手知ったる大叔父の家だ。その様子を確認してから、すぐに宗介はタオルを取りに行った。

 ついでに濡れた自分の服も着替えた。一人で留守番ができる歳になってからも、頻繁に泊まりに来ていたために、宗介の服や身の回りのものは比較的全て揃っている。


 制服を着替えて、タオルを持って戻ると、リリィは大人しくソファに座って待っていた。新品のタオルと、着替えのつもりのTシャツを渡す。

 祖父の家ならば従姉妹や姪の着替えがあったかもしれないが、信介を訪ねてくる親戚はほとんどいなかったためにこの家に女児服はなかった。大叔父の新品のTシャツで我慢してもらおうと、買い置きの衣服のところから拝借したものだ。少々ずぼらな性格の大叔父のために、量販店のセールで適当なカラーTシャツを大量にストックしておいた自分を褒めたい気分だった。


「えっと、見ないから体拭いて着替えてくれる? あ、いや、部屋出た方がいいかな」

「どうして?」

「どうしてって……。君は女の子なんだから、ちゃんとそういうことは気にしないと」

「……? わかった。でも部屋からは出なくてもいい」


 見た目は小学生低学年くらいかと思ったが、もしかしたらもっと幼いのかもしれない。宗介が後ろを向く前に恥じらいなく脱ごうとしたので、慌てて後ろを向いて見ないようにした。

 ごそごそという音がしばらく続き、聞こえなくなる。もーいーよと言われたので恐る恐る振り返った。

 宗介が適当に買ってきたシャツは、リリィの膝を隠すくらいの丈で、ある意味ちょうど良いサイズだった。ワンピースの代わりにはなると思いホッとする。下着は大丈夫かとか言う疑問はこの際思考の端に寄せて触らないようにした。


 安堵の溜息をつく宗介を、リリィはまたもじっと見ていた。今はすでに互いに名前を知っていることもあってか、宗介は先ほどよりは気まずさを感じずにリリィに尋ねた。


「どうかした?」


 リリィはまん丸な目を逸らさずに、鈴のような声でその質問に答えた。


「宗介は信介に似てるね」


「……そうかな、あまり言われたことはないけど」


 咄嗟に嘘をついた。そんなことはない。宗介は、父にも祖父にもあまり似ておらず、一番信介に似ているといつも親戚の間では噂になっていた。変わり者の外れものに、そっくりだと。その噂を聞くたびに、両親は嫌な顔をした。いつもは何も宗介に対して感情など向けないくせに、彼らはそういった評価に対しては人一倍敏感なのだ。


「ううん似てるよ。はじめね、リリィ、信介だと思ったもん」


 へにゃんと、泣きそうな笑顔を向けられる。だから近くで見た途端がっかりした態度をとったのかと、冷静に納得した。


「優しい、かお」


 リリィのその表情と言葉には、偽りない懐古の情が浮かんでいた。普段向けられる軽蔑や嘲りとはかけ離れたものに、宗介はその評価に対してぎこちなくも礼を述べた。


「……ありがとう……」


 どういたしましてと、嬉しそうに言うリリィに、毒気を抜かれる。初めて大叔父を悪く言わない人物に会えた。そのことが宗介をゆっくりと満たしていく。


 ほのぼのとした空気が流れ始め、何となくお互いの壁が消えた。信介という共通項は、2人にとって大きなものだった。

 しかし、宗介はこの日本に住む一般市民の一人だ。大叔父の屋敷の岩から出現し、さらに真珠の涙を零すおよそ人でない少女が大叔父とどんな関係なのかは確認しておかなくてはならない。

 というか早く警察に連絡した方がいいのではと、心の片隅で冷静かつ冷淡な自分が主張しているのには気づいている。その自分に応えるように、少女に尋ねた。


「リリィ、ちゃん?は」

「リリィでいいよ!」

「そ、そう。リリィは、信介おじさんと知り合い……なのかな?」


 出来るだけ優しく事情聴取をする。仏頂面を向け、この前姪を泣かせてしまった反省を活かして声音を調整した。


「うん! あのね、信介は大学が休みだから、たくさん遊べるって言ってくれてね、」

「ま、待って」


 初っ端から大学が休みだからという耳を疑うような言葉が飛び出した。信介の大学時代など、ゆうに50年は昔の話だ。しかし宗介の制止程度、信介との思い出を沢山話せて興奮した様子のリリィは全く聞かずに話し続ける。


「リリィは逃げてたら池に出ちゃって、戻れなくなったから信介が家にいていいよってなってね、門が開いたら一緒にくぐって送ってくれたの」


 訳がわからない。いや、本当に訳がわからない。嬉しそうに、楽しそうに喋るリリィには申し訳ないが、全く要領を得ない内容だった。逃げるだの門だの意味がわからなかった。

 取り敢えずどうやら迷子のリリィを、夏期休暇中の信介が面倒を見たらしいということだけは確かなようだ。それ以外は意味不明だが。

 しかしここでめげてしまっては最悪誘拐犯となってしまう。それだけはどうにか避けなくては。彼女がどういった境遇なのかははっきりさせないといけない。気合いを入れ直して宗介はもう一度リリィに問うた。


「ごめんね、よくわからないんだけど、リリィはどこから来たんだ?」


 そう問えば、白銀の髪に月の瞳の少女は、くすくすと可憐に笑った。悪戯っぽく宗介を見上げる目は、三日月に歪められている。


「リリィはね、別の世界から来たんだよ」

「は?」


 間の抜けた声で聞き返した。それにまた、くすくすと笑って、リリィは宗介のシャツの裾を軽く摘んだ。


「リリィ、帰らないと」


 その途端、ああこれは聞いてはいけないと、本能が警鐘を鳴らし始めるが宗介の体は動かない。

 月が、見ている。


「あの池にね、満月が映ったら門が開くから。そしたらリリィをお家に送って行って」


 ねぇ宗介と名前を呼ぶ少女に、無力な少年は為すすべもなく頷いた。

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