第2話 真珠の涙
大叔父の家で大泣きしていると、突然池の岩が崩れて中から女の子が出てきました、なんて誰が信じられるだろうか。
そもそもあの子は生きているのか。もし死体だった場合、宗介はどうすれば良いのか。110番か? まさか、大叔父の死の悲しみに浸ることすら許されずに、事件の第一発見者になるなんて。2日前に大叔父が急死した屋敷から、別の女の子の遺体まで発見されるなんて事件の匂いしかしない。しかもその場合大叔父にも容疑がかかるのでは?
さまざまな考えが怒涛の如く駆け巡り、宗介はそのまま固まっていた。縁側に立ち尽くしていると、女の子が小さく身じろぎした。
「うぅ……」
彼女は生きている。このことだけで少し安堵する。
不思議な少女だ。岩の上に横たわり、プラチナブロンドの長い髪は、月光を浴びながら煌めいている。白いワンピースの裾が、少しだけ岩から垂れて、池に浸かってしまっていた。
その時、なんの前触れもなくゆっくりと女の子が目を開いた。
大きな金色の瞳が、ぼんやりと周囲を確認している。すると彼女は、宗介を捉えたのだろう。ぱちりと目が合った。
その途端、女の子は満面の笑みを咲かせた。勢いよく体を起こし、宗介の方に寄ろうとする。
しかし、少女がいるのは崩壊した岩の上だ。池で1番大きなものだったとはいえ、大した面積はない。彼女が身を乗り出した瞬間、手をつこうとした場所には何もなく、その手はそのまま水面へと投げ出された。
「あ……っ」
一瞬の出来事で、宗介は何もできない。少女の体がゆっくりと傾き、そのまま池に落ちていくのをスローモーションでただ見ているだけだった。
大きな音と水柱を立てて、女の子は池に落ちた。その音を合図にしたかのように、ようやく宗介の体も動く。
急いで縁側の下にちょうど放置してあったサンダルを引っ掛けて、池まで駆け寄る。庭池なので大して深くはない。溺れることはないだろうが、目の前で女の子が池に落ちれば誰だって助けに向かうだろう。
宗介の心配に反して、けほけほと咳き込んでいるが、彼女はすぐに宗介の立つ縁側側に上がってきた。少し戸惑いつつ宗介は女の子に手を差し出した。
「……大丈夫?」
「うん! だいじょう……」
その時の彼女の顔を、どう表現すれば良いか、宗介には分からなかった。笑顔で宗介に手をのばした彼女は、宗介の顔を見た途端、ひどく落胆した顔をしたのだ。しかしすぐにその失望の色は消して、迷いなく宗介の手を取った。あまりに鮮やかな変化だったために、はじめの落胆を流してしまいそうになる。
違和感を抱いたまま、少女を池から引き上げようとすると、信じられないものが目に飛び込んできた。いや岩から少女が出てくるのも大概可笑しな出来事だが。そんなことよりも。
濡れたワンピースから覗く少女の下半身は、二本の足ではなく白銀の魚の形状をしていたのだ。
「人魚ぉ?!」
あまりの衝撃に少女から手を引いて、素っ頓狂な大声を上げる。そんな宗介の態度に、今度は少女がぎょっと驚いた反応をした。
少女は訳がわからない様子で、お月様のようなまん丸な目を見開いて、こてんと首をかしげる。そのまま、自分の下半身に目を向けた。わぁと小さく女の子は呟き、自分の下半身にも関わらず何故か珍しそうにペタペタと触っている。
そして思い出したかのように、池の淵に手をついて上がろうとした。手を貸した方がいいかと、若干人魚ショックから立ち直りかけた宗介が思っていると、女の子は力なく宗介に手を伸ばした。
「た、立てない。だっこ」
「ええ……」
「だっこ……」
儚い外見とは裏腹に意外と押しが強かった。見知らぬ女の子を抱えるなんて倫理的に大丈夫だろうか。邪な気持ちはないから問題はないと、自分に言い聞かせながら、あまりに軽い体を持ち上げた。
全身ずぶ濡れの子を抱えているために制服が濡れる。冷たい。彼女は池に落ちたのだから当たり前だ。
女の子は遠慮なく宗介の肩口あたりの布を掴んできたが、何故かやめろとは言わなかった。
無遠慮に自分にひっついてくる存在に、多分、そうは言えなかったのだ。
ゆっくりと縁側に女の子を降ろすと、彼女はじっと宗介を見ていた。見定めているような視線に、居心地が悪く、つい顔を逸らす。ただ彼女の目は探る目ではなく、なんとなく、哀愁を纏っている気がした。
「あなたはだぁれ?」
宗介が気まずく思い、彼女から一歩離れた時、唐突に少女が問いかける。正直その問いを投げかけたいのは宗介の方だった。正確には、君は何?だが。
そんなことを思いつつ、宗介も次に取るべき行動を考え、まずタオルを取りに行こうとしていると、少女は、聞き過ごせない単語を発した。
「信介の、お友達?」
その言葉を聞いた途端、宗介は勢いよく振り返る。少女が少し怯えた風に身を揺らすが、フォローは出来なかった。
「叔父さんを知っているの?」
「おじさん……?」
「俺は宗介。信介は、俺の大叔父さんだよ」
ぽかんと、少女は宗介を見つめている。なんとなくきっと、それを口に出せばこの子は宗介の予想通りの反応をするのだろうと分かっていながらも、真実を告げた。
「信介叔父さんは、2日前に亡くなったよ」
こぼれ落ちそうなほどに目を見開く。二つの満月は、みるみる涙に濡れていった。カツンカツンと、軽い音を立てて、彼女の涙は縁側に落ちる。真珠に変わった涙が一粒、縁側で跳ねて宗介の足元に落ちた。
子供特有の、胸を締め付けられるような悲痛な泣き声があたりに響く。先ほどの気まずさを忘れて、宗介は少女の小さな背中をぎこちなくさすった。
大叔父の死を知り涙を零している少女は、躊躇うことなく宗介にしがみついた。
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