Gate: Moon

天音

第1話 喪失、そして邂逅

 高村宗介は、がらんとした奥の間を無感動に眺めていた。


 いやがらんとした、というのは些か表現が間違っているかもしれない。別に物がないわけではない。どちらかと言うとこの部屋に物は多いのだ。

 この家の主人の性格を表しているかのような、その辺にいくつも山を作っている雑誌、学術書、漫画本。エロ本の類が見当たらないのは救いか。宗介は高校生、多感な時期だ。敬愛する大叔父のそんな一面は見たくない。それよりも、さらによく見れば、カラフルなあれは食べかけのグミの袋ではないか。


 このように視覚的には大変喧しいのだが。


 ──よく来たね、宗介。


 両親の仕事が忙しく、幼い頃からいつも一人で留守番をしていた宗介のことを気にかけてくれたのは、親戚でも唯一彼だけだった。自ら進言し、この家で宗介を預かってくれていたのだ。周囲の嫌な視線など気にもせずに、優しく出迎えてくれていた彼の声はもう二度と聞けない。


 ──今日は宗介が来るからたくさん作っちゃったよ。


 そう言ってアホほど山盛りの唐揚げを大皿に乗せる彼と共に、晩御飯の用意をした小学生の春。拗ねてムッツリとした態度の宗介にも関わらず、彼は朗らかに笑って宿題を教えてくれた。


 ふう、と息を吐くと、先ほどまでは全く思い出せなかった彼との思い出が、何故か急に次々と蘇る。


 ──釣り行かないか、楽しいぞう。

 ──宗介は習字が上手いなぁ。

 ──お父さんとお母さん、待てて偉いよ。


 優しいだけの記憶の暴力に、耐えきれずに座り込む。この体勢にすら、彼との記憶と結びつくものがあるなんて。

 硬く大きく、そして温かい手が、頭に乗っている気がする。


 ──そんなに、縮こまらなくてもいい。嘘が下手な子だなぁ。おじいさんに頼りなさいよ。


 嘘つき。もう慰めてなんてくれないくせに。そう心の中できつく罵る。

 葬式の会場では流れなかった熱い雫が頬を伝う。今更と思う反面、ようやくと安堵する。


 顔を上げると、大叔父がよく見せてくれた地球儀が目に入る。それが宗介の涙腺をさらに刺激した。


「おれ、高校入ったばっかなんだけど……っ」


 ──大学入る前に、旅行でも行こうか!


 あの古びた地球儀を抱えながら結んだ約束が果たされることはない。

 限界がくる。今までの無感情が嘘のように、喪失の悲しみが押し寄せてきて苦しい。


 両親は葬式が終わってすぐに自宅に帰った。この、彼が住み続けていた家にいるのは宗介だけだ。


 周囲など気にもせず、思う存分に泣ける。


 嗚咽が漏れでて、次第に大きくなる。どれだけ親に誕生日を無視されようとも、一人だけ運動会も参観日も誰も観に来なくても。

 こんなに泣いたことなんてなかったのに。


「しん、すけおじさん……っ」


 先ほど白と黒の式で見送った彼の名前を呼んだ。それに返事をするものは当然いない。

 急に具合が悪くなったらしいと聞いた。らしい、というのは彼がこの屋敷に一人暮らしで、誰もなくなったところを見ていないからだ。信介の兄であり、宗介の祖父である康介が様子を見に行くと、すでに縁側で亡くなっていたらしいのだ。持病もなく、健康そのものであったが、歳には勝てなかったということだ。


 縁側でというキーワードが、宗介の気をひく。


 ──ここだ。


 今、宗介が、咽び泣いている部屋のすぐ横。そこで信介は亡くなったのだろうと直感する。

 生前彼はよく、その縁側に座り、庭の池を眺めていたのだから。


 すっと涙が引く。

 湿った頬をそのままに、どうしたことか大叔父の亡くなったであろう縁側に出ようと思った。


 大叔父の屋敷には、大きな庭池がある。そこは鯉や金魚などの生物はおらず、ただ夜になると妖艶に月の姿を映し出していた。彼はその庭の池をそれはそれは大事にしていた。自慢の池だと言い、よく一緒におやつを作って月見をしたものだ。

 しかし、宗介はこの池が美しいとは思っていたが、同時に不気味だと感じてもいた。


 黒い水面に、ただ白銀の月が浮かぶ池は、まるでなにか、得体の知れないものを呼んでいるようで恐ろしかった。


 すいと、襖に手をかけて横に滑らせる。夏なのに少し冷たい風が奥の間に駆け込む。


 外には見慣れた光景が広がっていた。

 美しく整備された庭木。揺らめく池の黒い水面。反射する月光。


 空を見上げると、まだ満月ではなかった。

 若干欠けている月をぼんやりと見つめる。

 ピカピカの月を見て、もう一つ大叔父の話していたことを思い出した。


 あれはとある満月の日。電球のように明るく輝く月を見上げながら、月が綺麗だと2人で話していた時。彼は唐突に言い放ったのだ。


 ──綺麗だろ、あの月。俺が昨日磨いたからね。


 得意げに嘯く大叔父に、あの時は可愛げもなく呆れ顔で対応したのを覚えている。


 その記憶の再生を皮切りに、多くの後悔が押し寄せてきた。

 宗介を気にかけてくれたのなんて、信介だけだったのに。


 ああ、もっと料理を手伝えばよかった。美味しいと伝えればよかった。初めて運動会に来てくれたとき、ちゃんと喜んでお礼を言えばよかったのだ。文化祭だって、来てくれたのは大叔父だけだったのに。幼稚園の時に渡した肩たたき券は、結局彼の財布に入ったままだ。


 もっと、ちゃんと。ありがとうって。大好きだって。


 また鼻の奥がツンとする。

 ゴシゴシと手の甲で目元を拭えば、庭のどこかでカエルが鳴いている声が聞こえた。


 目を覆ったまま立っていると、微かにピシリと、何かが割れるような音を拾った。不思議に思い、顔を上げて辺りを見渡してみると。


 池の岩に、亀裂が入っていた。


「な……⁈」


 池の中、正面に配置してある、1番大きな岩だ。あの岩が、何もないのに割れるなんて考えられない。

 驚きと恐怖で、半歩下がる。

 それと同時に岩がガラリと崩れ落ちた。表面だけ剝げ落ちるような奇妙な割れ方だった。


(あの岩、中空洞だったのか……? なん、だアレ……)


 ボチャボチャと音を立てて岩の上半分は砕けて池へと落ちていく。下半分ほど残り、まるで台座のようになった岩に載っていたのは。


「……何、もしかして俺寝てる? 夢? それとも俺も死んだわけ?」


 目の前の光景が信じられず、苦し紛れに現実逃避の言葉を、あえて声に出して紡ぐ。いや俄には受け入れがたい。


 崩れ落ちて池に浮かぶ台座のようになった岩の上には、小さな女の子が猫のように丸まって眠っていた。

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