第46話 未翔
びっくりした。まさか彼がそこで待ってるなんて思わなかったから。
最後の登校日。無事にわたしが仕掛けた送別会が開催されて、思い通りの記念写真が撮れた。想定外の花束とプレゼントももらった。幸せな時間だった。今、わたしはいろんな思い出を胸に、一年間通ったこの学び舎を後にする。
校舎の外に一人で飛び出すと、みんなに囲まれていた教室の温かさが恋しくなった。
けれども、あの場所にはもう戻れない。みんなと一緒に残りの一年を過ごすことは叶わない。
だから、せめて今見えているものをすべて覚えておきたい。わたしは歩きながら周りの風景を見回した。
校庭があって、校舎がある。何の変哲もない普通の中学校。わたしが前にいた学校にもこんな景色があった。次に行く学校でも同じような景色がきっと見つかる。
でも、それは勘違いだ。ここにしかないものがある。みんなは気がつかないかもしれないけど、わたしはそれを知っている。
その代わり、わたしにも知らないものがある。みんなはやがてそれに気がつく。わたしは知らないということだけ知っている。
春風が吹いた。桜の花びらがひらひらと優雅に宙を舞うのが目に映った。
桜を見るとき、わたしはいつも一人でいる気がする。仲の良かった友達とは必ず別れ、誰一人知り合いのいない世界でまた出発する。その傍らに桜は咲いている。
今回もこうして一人で桜を見上げながら、わたしは最後の帰り道を歩く。
そう思っていたのに。
「……翔、くん」
校門を通り抜けた先に、彼がいた。
返事があって、目が合って、逸らされる。
その仕草で、わたしのことを待っていたのだとすぐにわかった。
「帰ろうか」
わたしは呟いた。彼は黙って頷いた。二人で並んで静かに帰り道を歩き出した。
一年を通して、彼とは何度も一緒に帰ったことがある。
名前の話をした最初の帰り道も、林間学校の班が同じになってよろしくと言い合った雨の帰り道も、夏休みが明けて夏はどうだったと振り返る久しぶりの帰り道も、寂しい気持ちを共有した秋の夕暮れの帰り道も、空を見上げて一番星を探す競争をした寒い冬の帰り道も、わたしは彼と二人で並んで歩いていた。
その帰り道の途中で、わたしたちはいろんな話をした。たくさん笑った。怒ったり、泣いたりしたこともちょっぴりあった。
言えないこともあった。今になっても言えていないことがいっぱいある。
彼にもきっとあるのだろう。だから、初めてわたしのことを待っていてくれた。最後だからそうしてくれた。伝えたいって気持ちが伝わってくる。それだけで嬉しかった。
ぽつりぽつりと会話をしながら、歩き続けた。
やがて、赤信号の横断歩道で足が止まる。でも、すぐに青になってしまった。また足が前へと進む。最後の帰り道の時間が過ぎていく。別れのときが近づいている。
言葉にできない想いはしまったまま、わたしは心の中だけで彼に問いかけた。
そういえば、翔くんは覚えてる?
林間学校の夜のこと。二人で一緒に探検して、星空の下で語り合ったこと。
わたしは今でもときどき思い出すよ。
翔くんにとって、あの夜はどんな思い出になったんだろう?
でも、それは訊かないでおこうと思う。だから、わたしも言わない。
それでさ、あのときの話だけど、覚えてるかな?
わたしの名前は『未翔』だから『未』だに『翔』べないって言ったこと。変な考え方だって思ったかもしれないけど、それが自分の宿命なんだって、わたしは昔からずっと思い込んで生きてきた。
でもね、さっき送別会が終わって気がついちゃったんだ。
みんながわたしの名前を呼んでくれた。黒板にわたしの名前を書いてくれた。わたしのために笑ってくれて、泣いてくれた。
そのおかげで、ようやく違う意味を見つけられた。
それはね……。
ふと、彼の足が止まった。心の中の告白も止まる。
静かに顔を上げたら、いつもわたしたちが別れる場所に立っていた。
彼はわたしのことを見ていた。何を言ったらいいのか迷っている顔で、でも何かを言わなくちゃという顔で、真剣に別れの挨拶を考えていた。
わたしは待った。彼がわたしを待ってくれたように、わたしも彼を待っていたかった。
沈黙の中、表情が変わって決意した顔になった。
お互いに数秒間見つめ合った。
そして、彼はわたしのために選んでくれた『最後の言葉』を告げた。
「またな」
それは別れの言葉であるとともに、再会を約束する言葉だった。
嬉しかった。彼はわたしに帰る場所を与えてくれた。
でも、わたしは返す言葉が思いつかない。今はまだ答えることができなかった。
だから、わたしはいつかその約束を果たすため、おまじないをかけるように新たに見つけた自らの宿命を心の中で唱えた。
――『未』来へ『翔』ぶ。
未来への帰り道 遥石 幸 @yuki_03
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