第10章 未来への帰り道

第45話 桜

 中学校の校門のところに咲く桜を、俺は一人で立って眺めていた。


 誘った本人が遅れてはまずいという一心で、待ち合わせ時間よりもだいぶ早く来てしまったから、しばらく一人きりでの花見が続いていた。


 三月も終わりが近づき、桜の木には古びた校舎と青空を背景に薄いピンクの花が咲き誇っていた。


 年にもよるが、この地域の桜はだいたい三月の下旬から四月の上旬までが見頃となることが多く、ちょうど卒業のシーズンに咲き始め、新生活の始まりとともに散っていくという宿命を背負っている。


 だからこそ、こうして綺麗に咲いているのを見ているだけで、他の花にはない特別な感慨を覚えるのだろう。


 まあ、それすらもいつかは失ってしまうものなのかもしれないけれど。


 あのファミレスの一件以降、彼らとはずっと会うことができずにいた。このままだといろんなことが有耶無耶になって、再び疎遠になってしまう恐れもあった。


 それを回避するべく、俺はみんなにもう一度集まりたいと正直に伝えた。


 あんな別れ方をしてしまったのは俺のせいだから、声をかけるのは俺の役目であり、責任だと感じた。それで断られたら仕方ないと思った。


 集合場所を中学校の前にしようと言ったのも俺だった。


 もし、再び集まることができるのならここにしたいと思っていた。さして大層な理由があるわけでもなく、ただみんなで懐かしみながら中学のときの帰り道を歩きたかっただけだ。


 こうした俺のわがままに、結果的には全員が了承してくれた。


 忙しい春の最中、それぞれが予定を合わせてくれて、この三月の終わりに集まれることになった。


 時間的にそろそろだろうと、俺は曲がり角のほうへ目を向ける。


 すると、ちょうど会澤が角から姿を現し、こちらに気づくと溢れんばかりの笑みをこぼしながら駆け寄ってきた。


「よっ!」


 会澤は俺のすぐ手前で手を挙げて元気に挨拶をしたかと思うと、なぜか「どーん」とか効果音つけながら勢いそのままにタックルしてきた。中学生かよ、と脳内で突っ込んだ後、実際に声にも出した。


「中学生かよ!」


「へへっ、なんか気分的に」


 校門の前で大の大人が子供のようなやり取りをしてしまう。


 もしかしたら久しぶりの登校で昔の血が騒いでしまったのかもしれない。当時は会澤も含め、何人かの男子と教室などでよくこういうふざけ合いをしていた。無論、自分が中学生のときには「中学生かよ!」とは突っ込まないが。そんな芸当ができるのは氷川くらいだ。


 と、思っていたら、続けてその氷川がまさに向こうから歩いてきているのが見えた。


 タイミング的に今の恥ずかしいじゃれ合いを完璧に見られてしまっただろう。氷川は表情をほとんど崩さず俺たちのもとへと近づき、抑揚のない声で冷たく言い放った。


「楽しそうで何より」


 無視して素通りされなかっただけまだマシだろうか。


 それにしても、彼女は彼女で当時とあまり変わっていない。中学生の氷川でも多分同じような台詞を吐いただろう。人間というのは大人になっても、根っこの部分はあまり変わらないのかもしれない。


 逆に言えば、そういった中学生時代をお互いに知っているからこそ、変わった変わらないと懐かしく振り返ることができるのである。


 実はそれってとんでもなく価値があることなのではないだろうか。


 そんなことを考えていたら、会澤が若干不安そうに曲がり角のほうを指差した。


「あれ、笹本さんだよね? どうしちゃったんだろ?」


「……気分的に、なのか」


 遅れて目をやった俺も、思わずさっきの会澤のコメントを引用してしまうほど言葉を失ってしまった。


 笹本の外見は端的に言うなれば中学生のときの黒髪眼鏡スタイルに逆戻りしていた。俺にとって本来の彼女はこちらのイメージだったけれど、大人になってからは派手な赤髪コンタクトレンズスタイルしか見たことがなかったのでむしろ新鮮な感じがした。


「笹本さん、どうしたのそれ?」


 会澤が挨拶も省略し、寄ってきた彼女に変貌の事情を尋ねた。


「あっ、これ? これは来月から就職するから」


 笹本はいきなりの質問に焦った様子で髪を触りながら答えていた。


 しかし、「それ」とか「これ」で会話ができてしまうあたり、笹本は当然訊かれると予想していたのだろう。


 だから多少狼狽しつつも、彼女は自身の見た目の変化についてしっかり説明を続けた。


「髪の色は自由なんだけどね。でもせっかく決まった職場だし、最初はちゃんと覚えることを覚えなきゃいけないから、新人で入っていきなりそこで目立たなくてもいいかなって。眼鏡はもともとコンタクトと併用したんだけど、ちょっとめんどくさくなってこれでいいかなと……」


 感想を気にするように控えめな視線を向けられたので、俺は率直に思ったことを口にした。


「笹本らしくていいんじゃないか」


 らしさ、とはいったいなんだろうとは思う。容姿だって派手なバージョンの笹本が先にインプットされていたら、その姿を彼女らしいと感じたのかもしれない。


 そんな仮定をしたところで意味はないけれど、果たして自分が今言った感想は正しかったのだろうかと疑問が湧いた。


「ありがとう」


 それでも、笹本は恥ずかしそうにはにかんで小さく頭を下げてくれた。少なくとも言われて嫌だったという反応ではなかった。


 もしかしたら、自分らしさというのは結局、己自身が自分のことをどう評価しているかで作られているのかもしれない。


 だから、他人になんと言われようと、自分がそれを自分らしさだと思えばきっとそれが答えになるのだろう。


 でも、人はそんなに強くない。他人の評価を気にして自分の評価を変えていく。


 ゆえに、良くも悪くも自分らしさは自分一人で形成されることはない。


 ならば、俺らしいとはいったいどういったものなのだろう。みんなにとって俺はどう映って、俺は自分のことをどういう人間だと判断しているのか。


 こんなことを改まって言うのは、俺らしくないかもしれないが……。


 躊躇いながらも覚悟を決め、タイミングを計るように和やかな表情の三人を見回す。


「そういえばな」


 みんなの視線が集まると、なんだか急に緊張感が増してきた。


 ただでさえ何かを報告するということに慣れていない。


 さらに一度逃げ出したという前科も加わっており、あまりのこっ恥ずかしさに全身から汗が噴き出してくる。


 けれども、自分らしさとかは関係なく、このメンバーにはどうしても伝えておきたかった。


「大学、来月からまた通うことにした」


 一瞬だけ、沈黙が流れた。


 でも、それは本当に一瞬だった。


「いやぁ、よかったよかった。どうすんのか気になってたからさぁ、石狩が何か言ってくれるの待ってたんだよ」


 報告を聞いてすぐ、会澤は俺の大学復帰を自分のことのように嬉しがってくれた。突っ立っていたら背中を何度も叩いてきて、ついでになぜかちょっとのしかかってきた。


 痛い、重いとか言いながら前を見ると、笹本が柔らかな笑顔を浮かべながらこちらに向けてうんと大きく頷いていた。


「悪かったな、いろいろと」


 改めて、俺は全員に向けて謝罪の言葉を呟いた。こんな無愛想な言い方しかできないのはなんとも俺らしいな、と我ながら思って皮肉な笑みが浮かんだ。


 だがそんな俺を尻目に、氷川はそれほど興味がないとでも言いたげに小さくため息をついた。


「別に石狩が大学をどうしようと、わたしたちには関係ないから」


 確かにその通りだ。この合理的な思考と態度こそ氷川の氷川たる所以であり、俺はむしろ清々しい気分になった。


「まあ、そうだな」


 おかげで気安く返事ができる。そう思っていたら、笹本がそんな俺たちの歪んだ応酬に一石を投じてきた。


「咲さんが言う『関係ない』っていうのは、石狩くんがたとえどんな進路を選択したとしても、みんなで会うことは変わらないから関係ないってことだよ。ねっ、咲さん?」


 笹本からの反撃は予期してなかったのか、氷川は決まりが悪そうに顔を背けていた。


「そういうこと。またいつでもこうやって集まればいいんだよ」


 そんな彼女の代わりに答えたのは会澤だった。愉快な笑顔を浮かべ、さらに調子よく言葉を続けた。


「石狩が大学辞めるって言ってたとしても、よかったよかったって背中叩いただろうしなぁ」  


「いや、それはおかしいだろ。なんで反応同じなんだよ」


 そう突っ込みながらも、俺は心の底から自然と笑いがこみ上げてきた。会澤は相変わらず笑っていたし、笹本も可笑しそうに口に手をやっていた。ちらっと捉えた氷川の表情にも笑みがこぼれていたように見えた。


 仲間、という言葉が頭をよぎる。


 大切にしろよ、と誰かに教えられたけれど、それがどういったものなのかを俺はまだ知らない。理解できる日が来るのかもわからない。


 それでも、今この瞬間の心の温かさはかけがえのないものだ。


 だから、たとえいつか失ってしまうのだとしても。


 俺は決意を新たにし、皆の顔を見据える。


「それじゃ、全員揃ったわけだし……」


 言いかけた刹那、春風が吹いた。


 正門の近くの桜の木の枝がしなって揺れ、花びらがひらひらと優雅に宙を舞う。


 風が止むと、花びらがゆっくり舞い落ちて、門の外に着地した。


 俺はそれを見届けてから、今度こそ、皆に向かって宣言した。


「一緒に帰ろう」

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