第8話 飲み込むクジラ

温室に向かう途中にある小さな森を通るときには目が闇に眩んで、一瞬真っ暗になる。その瞬間、月路は思わず翡翠のシャツの袖を摘まんだ。翡翠は光の変化にあまり影響を受けないのか、動揺することなく月路の手をきゅっと握って宥めてくれた。

「ごめん。」

「いーよ、別に。」

カサコソと木の葉が温い風に吹かれて、音を立てる。暗い空間で普段は意識しないようにしていた翡翠の息遣いが隣で聞こえて月路は、人知れず気まずい想いをしていた。

性感帯をくすぐられて声を出すのを押さえているかのような錯覚に、身体の熱が上がっていく。ぞくりと背中を這うのは夢の中の自慰行為のようで痛むことなく、只々、快感だけを追う感覚だった。

「…っ、」

月路は僅かに俯いて、唇を噛む。

「?」

翡翠は敏感に月路の変化に気が付いて、首を傾げながら立ち止った。一歩遅れて立ち止って、振り返る月路の瞳に涙が光る。

「どうしたの?」

月路の目にかかる前髪を掬おうとして、その手を払われてしまう。

「!」

「…あ、ごめ…、」

怯えたように謝る月路を見て、翡翠は思い当たる節があって苦笑した。

「何。声、感じちゃった?」

ん、と首を傾げながら月路の顔を覗き込む。月路は翡翠の言葉を聞いて、パクパクと金魚のように口を開閉した。そして翡翠の視線に捕らわれると、観念したかのように震えながら頷いた。

「仕方ない、でしょ…っ、私だって、嫌だよ。こんな…。」

自分が性的に興奮していたことを悟られて、恥ずかしくて、申し訳なくて月路の目の淵から涙がぽとんと一粒落ちた。

「泣くことないよ。」

今度こそ翡翠の手が、月路の頬に触れる。指の腹で柔らかく涙を拭ってくれた。

「そんな風になるのも、相川さんにとっては反射みたいなものだろうし。理解してるつもりだけど?」

「…。」

声を聞いて下腹部が痺れながらも、その諸悪の根源を理解していてくれるのならまだ耐えられそうだった。

「行こう。」

「…うん…。」

翡翠に手を引かれて、ゆっくりと歩み出す。この森林に快楽を置いていけたらどんなにいいだろうと、月路は思った。

やがて訪れた温室はひっそりと佇んで、二人を迎え入れた。

月明かりに照らされた木の葉たちは銀色に輝いて、しんとして眠っているようだった。シンボルツリーの背の高い樹木を目指して、二人は足を進める。そうして辿り着いたカウチに腰を落ち着けた。

「…。」

しばらく無言で、夜の温室の雰囲気を楽しむ。昼間の名残を帯びて、空気はまだ温かく柔らかい。光源の少ない温室の闇が手を伸ばすように見えた。

「…何だか、少し怖いね。」

月路が言うと翡翠は、はは、と笑う。

「そうだね。でも慣れると、この闇も愛しくなるよ。」

「本当?」

「うん。柔らかい闇が身体を徐々に包んでいく瞬間って、母親の胎内に戻っていくようで少し安心する。闇に触れたことある?意外と温かいんだ。」

月路は、翡翠の答えに安心した。この闇が、優しく微笑みかけ、温かいまでに包んでくれる存在であったことに。

「じゃあ、樋口さんって暗闇が怖くないんだ。」

「うーん。ていうか、完璧な暗闇ってそうそうないんだよなね。空を見上げれば、月も星も出てるし。今の時間が一番暗いよ。だから怖く思うんじゃないかな。」

「そうなんだ。」

月路が感心すると、翡翠が視線を向けてくれた。

「相川さんは暗闇が怖い?」

「…うん。怖いよ。」

月路にとって闇は自分自身を飲み込む、恐ろしくでかいクジラだ。幼いころに見た、餌を一網打尽に飲み込むクジラの姿に月路は酷く恐怖した。餌に対し、月路は自分の姿を重ね合わせてしまう。

「そうかー。早く、平気になるといいね。夜の散歩って気持ちいいよ。」

「なんで、わざわざ夜。」

月路はくすりと笑った。翡翠は、夜の良さをまるで目の前の風景のように語る。

「想像してみてよ。いい…?」

―…ビルや住宅街には明かりが灯り、パールのネックレスのようにつながる光は自動車のテールランプだ。紺色の夜空には、銀色の星々が宿る。

「光は闇の傍らにあってこそ、美しく見えるの。」

星の光を扇ぐように、翡翠はカウチに寝そべった。月路もまた、翡翠の視線の先を追う。

ガラス張りの天井から透ける星々は降り注ぐように、その灯りが世界の半分を優しく包んでいた。

「…樋口さん。」

「何―?」

空から視線を移さず、否、移せずに月路は翡翠に問う。

「樋口さんは、私が気持ち悪くない?」

「え?別に。」

何の迷いもなく、翡翠は月路の問いを一蹴してしまう。

「…それは、何故?」

それでも。それでも月路は、信じ切ることができずに問いを重ねた。

「何故って言われてもなあ…。だって、私。相川さんのこと嫌いじゃないし。」

「私も、樋口さんは好きだよ。でも、同性なのに…声だけで感じるんだ。変でしょ。」

うーん、と樋口が考えるように唸る声が聞える。

「じゃあ、私が男子だったらよかった?」

「異性だとしても、それはそれで問題だけど…。」

月路は目を伏せる。

「同じ女で、歌うことがセックスになるなんて気持ち悪くない?」

「平気だよ。私、だって同性との経験あるし。」

思わず月路は、翡翠を見た。翡翠はにやりと笑う。

「詳しく聞きたい?」

「え、いや…。ただ意外、というか…。」

いきなりのカミングアウトに、月路はドギマギとする。翡翠の柔く、敏感なところに触れた気がした。

「まあ、ね。だからってわけじゃないけれど、相川さんはそんなに気にすることはないよ。」

「…うん。ありがとう。」

月路は翡翠の言葉に、確かに救われたのだった。

「私たち、お互いに歩み切れてないよね。知らないことも多いし。そうだねえ、まず、名字呼びを辞めるか!」

「え?」

気合を入れたように翡翠は起き上がって、月路と視線を合わせる。

「月路。」

「!」

鼓膜を通り越して直接、脳に響く翡翠の声。ドクン、と一際大きく心臓の鼓動が高鳴った。口の中が乾いて、上手く言葉を紡げない。

「ひ…、翡翠…?」

「そう。それでいい。」

満足したように頷いて、再び翡翠は、ギシ、と軋む音を立てカウチに寝転んだ。

「月路もおいで。」

翡翠はにこっと笑って、月路に向かって手を広げるのだった。互いの胸の内を明かした気安さに、月路は甘えるようにその腕の中に納まった。

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