第7話 あなたの髪、君の瞳。

夜の序盤までエリオルと一緒に温室で過ごして、月路はコテージに帰ってきた。

「ただいま。」

何気なしに帰宅した旨を示す言葉を吐くと、「おかえり」と何の覚悟もなしに翡翠の声を聞いて月路の心臓が跳ねた。

「あ…、ぅ、うん。」

「遅かったね。」

何となく不機嫌そうな翡翠の声に、おや、と思う。

「何してたの。」

「え…?ちょっと、道案内。温室、まで。」

心臓の鼓動がうるさく、月路の身体中に響いた。そのせいでドギマギと声が詰まってしまう。

「ふーん。」

確認だけすると、ふいと翡翠は月路から視線を逸らしてしまう。この態度の変化は何故だろうと、月路は考えて思い当たる節に辿り着いた。

「樋口さん…。もしかしてだけど、一緒に行きたかった?」

「べっつにー。」

無表情に備え付けられたテレビを眺める翡翠の耳が赤く染まっている。その正直な身体の反応に月路は、吹き出してしまう。

「な、何、笑ってんの。」

「ごめん、ごめん。樋口さん。意外とかわいいところがあるんだなって。」

ククク、と鳩のように笑いながら、身体をくの字に折った。その翡翠の独占欲が月路には心地よかった。

「今度、樋口さんも温室に連れて行ってあげるよ。場所はもうわかったから。」

「別に、温室に行きたかったわけじゃない…。」

小さく、ぎりぎりで聞こえない声で翡翠は呟いた。

「? 何?」

月路は首を傾げて見せる。

「何でもない。」

そう言うと、翡翠は乱すように月路の頭を撫でた。くしゃくしゃになる髪の毛を手で押さえながら月路は唇を尖らせる。

「やめてって。もう。」

拗ねるように告げると、ようやっと翡翠が笑った。

「遅くなるなら、ちゃんと連絡してよね。」

「母親かよ。」

釣られて、月路も笑う。

やがて、夕食の時間となり二人は食堂に赴くことにした。


食堂には翡翠と月路のペアが合宿参加者としてどうやら最後に着いたらしい。Mキャビのスタッフも交じって、賑やかな食事が始まる。合宿初日の夕食は、大鍋で煮込んだカレーだった。

「天助、福神漬けを取ってくれる?」

「あいよーって、エリオル。福神漬けとカレーライスのバランスおかしいんじゃないか…。」

どうやら福神漬けがお気に入りらしく、エリオルのカレー皿の二分の一は福神漬けで占められている。「だって美味しいんだもん」としれっと言い放ち、エリオルはほぼ福神漬けカレーを頬張った。

「姐さん!もっと食べないと、夏バテしちゃうよ!」

「うるさいなあ…。私の適量なんだから放っといて。」

ひよりはメンバーの中で最年少ながら、真綾の世話をよく焼いている。たしかにひよりが言う通り、真綾は少食のようだった。

ノイズキャンセリング機能の付いたイヤホンをして、月路は黙々とカレーを食している。

「あ、おかわりください。」

その隣で翡翠は何度もおかわりを繰り返していた。

「樋口さん、お茶。」

「ん。サンキュ。」

翡翠が飲み干したタイミングで、月路がポットからお茶を注ぎ手渡す。その様子を興味深そうに見ていたのはひよりだった。

「二人って、阿吽の呼吸…っていうか熟年夫婦みたいだねえ。」

「そう?」

翡翠は首を傾げる。月路は聞こえていない。

「そうだよー。私も姐さんと早く呼吸が合うといいなー。」

大げさに溜息を吐くひよりに、真綾はさらに大きい溜息を吐く。

「え、面倒なんだけど。」

「姐さんひどい!?」

きゃんきゃんと鳴く子犬と、動じない飼い主のような構図はある意味息がぴったりだった。

食事を終えて食後のコーヒーを嗜んでいると、スタッフが合宿参加者のメンバーにホチキスで留められたプリントを配り始めた。

「何ですか、これ。」

天助が皆を代表して、スタッフに問う。

「これは皆さんへの宿題です。内容を確認してください。」

そう言われて全員が配られたプリントを見た。


『―…束の間、冬にしては暖かい太陽の日差しが温室のガラスを通して、室内の空気を温めていた。木の葉が青々と茂り、花は繚乱に咲き誇っている。植物の甘い香りと共に苦味を帯びた生臭さが満ちて、肺をいっぱいに満たす。

温室には噴水があり、虹色のシャボン玉のように輝く命の水が湛えられていた。光の粒子をまき散らすように雫を落としながら、水は湧き上がる。

その噴水を前に、白樺で作られたベンチにて年若い夫婦が語らっていた。

「あなたの髪よ。」

クジャクの羽のような色の瞳、ピーコック・アイをした彼女の腕の中には、小さな赤ん坊が不思議そうに両親を見上げている。その小さな紅葉のような手を開いたり閉じたりを緩く繰り返していた。

「君の瞳だ。」

黒い真珠のように輝く漆黒の髪の毛をした彼が、赤ん坊の掌を自身の細く長い人差し指でくすぐるように突く。赤ん坊は笑って、その指をきゅっと握った。

穏やかな笑い声が静かな温室に響いた。愛らしい子供に、番いの鳥のように仲睦まじい夫婦にはしあわせが満ちていた。それは、風鈴の音色のように響き渡るようだった。』


プリントは短編の物語が記されている。これが何の宿題に結びつくのかわからず首を捻る者が多数だった。

「このショートストーリーをもとに、ペアで歌を一曲作ってください。期限は合宿の最終日まで、随時受け付けています。」


コテージに戻ると、翡翠はソファに寝転びながら配布されたプリントを見返していた。

「ねえ、相川さん。歌を一曲作るのに、どれぐらい時間かかる?」

「え?…曲によるけれど。まあ…、平均一日?かな。」

月路は翡翠の声に慣れるために、イヤホンを外す。

「この宿題ってかかる時間って言うより、かける手間を見てそうだよねー。」

翡翠は起き上がって、隣に月路が座るスペースを作った。

「やっぱりそう思う?どういう歌にするか早々に決めて、質を高めたいよね。」

そのスペースに腰掛けて、月路もプリントを見る。寝る前に方向だけ決めようということになり、話し合いになった。

「曲調はゆっくり目なイメージかな。で、パーカッションは控えめ。」

翡翠がノートに思いついたキーワードを書き記していく。月路も第一印象に得たイメージを自らの中で膨らませて、旋律を小さな声で口ずさんでみた。すう、と息を吸い込んだ刹那のぞくりとする快感を無視する。

「―…、―…。」

「ああ、そのフレーズ良いんじゃないか。穏やかな昼下りみたいな感じ。」

月路の旋律をすかさず、翡翠は絶対音感を以てして持ち出したギターで弾き奏でる。赤子の笑い声のような高い音が連なる。翡翠の演奏を聞きながら、待てよ、と思い直した。

「ねえ、樋口さん。もう少し早く弾ける?」

「うん?ああ、もちろん。」

月路の要望を得て翡翠は先の演奏よりもピッチを上げて、弾くと言うよりも掻き鳴らすように爪弾く。

「あー、わかった。最初に高い音の対比でベースを持って来てさ…、イントロ長めでここから歌詞が入る、みたいな。」

合作でのメロディの方向性が見えてきたので、二人は一休みをすることにした。

「自販機で飲み物を買ってくるけど、樋口さんはリクエストある?」

ソファから立ち上がり、財布を持って出て行こうとする月路を翡翠は追いかけた。

「私も行く。外の空気が吸いたい。」

連れ立ってコテージを出ると、月が白く佇むように夜空に浮かんでいた。星が瞬き、生温い風が吹いて雲を流す。真夏の陽光を浴び続けた植物は青々と茂り、今は成りを潜めて木の葉を揺らしていた。さくさくとした草を踏み、自販機までの道のりを辿る。

歩き始めた月路が突っ掛けたサンダルの踵を直した。その仕草により一瞬、翡翠の視線が月路の足に移る。その鹿のように引き締まって、色の白い肌が目に焼き付いた。それは夜間の空に浮かぶ月と同じく印象的だった。

「? 何?」

翡翠の視線に気が付いて、月路は首を傾げた。

「…別に。」

ふいと顔を背け翡翠は表情が見えにくい、周囲が暗い時間帯を感謝した。

飲み物の自販機は煌々と光り、鬱陶しい小さな虫を集めていた。ひらひらと舞う羽虫を手で追い払って、月路は硬貨を自販機の小さな口に放り込む。

「樋口さん、何にする。」

「スポーツドリンク。ごめん、小銭がなかった。」

翡翠は財布の小銭入れを見て、渋い顔をする。立て替えておく、と言って苦笑しながら、月路はリクエストされたスポーツドリンクを購入して翡翠に向かって放った。

「ん。」

ペットボトルのふたを開けて飲むと、冷えた水分が夏の夜の熱気でいつの間にか火照った身体に染み渡った。見ると月路もまたお茶を飲み、空を仰いだついでにか月を眺めている。

「…。」

愛しそうに目を細めている。月路の色素の薄い瞳は月光ですら、眩しく感じるのかもしれない。

「相川さん。」

「…何?」

ふっと月から目を逸らして、月路は自らの名字を呼ぶ翡翠を見る。

「温室に行きたいんだけど。どう?」

「今から?」

翡翠の唐突の言葉に月路は驚いて、僅かに目を張った。

「だって、昼間の温室ってこの季節、暑そうじゃん。」

「ああ、なるほど。確かに汗ばむほどだった。」

納得がいったのか、ややあと頷いて月路は翡翠の提案を了承するのだった。

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