第6話 温室
中央塔の二階、オーディション合宿の参加者がミーティングルームに集められた。そしてこれから行われるスケジュールや日程の確認を終えて、Mキャビのスタッフは退散する。後は各参加者同士で、ということらしい。それぞれの表情を伺うように顔を見合わせる中、リーダーシップを発揮した人物がいた。
「えーと、自己紹介でもしようか?」
大柄で、冬眠前のクマのような大らかさを感じさせる青年だった。
「じゃあ、言い出しっぺの俺から。小日向天助です。普段は実家の農家を手伝っていて、音楽経験は地元でバンドを組んでました。よろしく。」
天助は力強く芯の通った歌声が魅力だったことを、一臣は思い出す。
「順番は、時計回りでいいかな?次、私ね。長谷ひよりでーっす。音楽系の専門学校に通ってます。ぴちぴちの19歳だから、お酒は飲ませないように!得意楽器は、ギター。よろしくお願いしまーす。」
二次審査では違う組だったのでひよりがどんな歌をうたうのかはわからないが、明るくひまわりのような笑顔が印象的な女の子だった。
「次は、姐さんだよー?」
ひよりは隣に座る女性の肩を突くようにして、自己紹介をするように促す。女性は、姐さんはやめろ、と唸るように低く言い、そして立つ。座っていたのでよくわからなかったが、女性としてはかなりの長身だった。
「鶴賀真綾。」
自身の名前だけを言い、さっさと席についてしまう。恥ずかしい、と言うよりも、自己紹介の必要性を感じていないようだ。その声はハスキーヴォイスで、歌を口ずさめば恐ろしく映えそうだった。
「ええー。姐さん、それだけ?」
ひよりが驚いたように目を丸くして、唇を尖らせる。真綾は小さく溜息を吐いた。
「ライバルである以上、必要以上につるむ気はないから。」
二人の女子のやり取りを聞いて、真綾の隣に座る青年が苦笑する。
「まるで自分の国を守る女王だね。…僕の名前は、原エリオル。気軽にエリオルって呼んでくれ。楽器はヴァイオリンが好きかな。よろしくね。」
後にイギリス人の母を持つというエリオルは、外見の華やかさを以てして王子様のような容姿をしていた。外国の血を引くからか、声の表現力が豊かだ。
それから翡翠、月路と自己紹介を終えて一周した。その後、夕食までは自由時間ということになった。
真綾はさっさとミーティングルームを出て行ってしまい、その後をひよりが鳥のヒナのように追っていった。
天助と翡翠は気が合ったのか、その場に残って雑談をしている。手持無沙汰になった月路はコテージに戻ろうと席を立つと、エリオルに声を掛けられた。
「月路、ちょっといい?」
「…エリオル、さん?何ですか?」
猫のように警戒する月路を、エリオルは興味深そうにその緑色を帯びた瞳で見つめる。
「敬語は止してよ。ちょっとしたコミュニケーションを取ろうかと思って。」
そう言うと、エリオルは合宿所の地図をボトムスのポケットから徐に取り出した。
「あのね、僕、酷い方向音痴で。よかったら、この場所に一緒に行ってくれないかな。」
「どこ?」
月路は広げられた地図を覗く。エリオルが指差した場所は敷地内の端にあり、温室と書かれていた。
エリオルから月路は地図を引き受けて、二人、温室までの道を辿る。敷地内は緑が豊かで、真夏の夕方を木の葉を擦らせ、ざわつかせていた。空の色は朱色を伴って群青へのグラデーションを以てして、物の影を色濃く映す。
エリオルはきょろきょろと周囲の景色の変化を楽しむように見渡して、その無言の時間が月路にはありがたかった。広大な敷地を縦断するように歩くと、やがて温室らしき建物が見えてきた。
「あ!あれかな?ガイドしてくれて、ありがとうね。」
「…うん。」
嬉しそうに温室へと駆けていくエリオルを目で追いながら、月路は後をついていく。先に温室のガラス戸をくぐって行ってしまったエリオルは背の高い植物たちに紛れて見えなくなってしまった。
ざり、と地面と小石を踏みしめながら、月路はガラス戸に手を掛けた。鉄枠の扉はギッと軋んで、重く開かれる。そっと中を伺うと、丸いドーム状の屋根の天井から幾筋もの光が差し、草が生え、そして木が茂っていた。温室の中は花の甘い香りと、植物の青臭いような生々しい香りが混ざり合って満ちていた。隅には野良猫が二匹、積まれた新聞紙の上でくつろいでいる。月路は室内の中央の枯れた噴水に歩を進めた。一歩一歩、地面を踏むたびにふかっとした草の感触を靴越しに感じられた。一等、光が差す地帯まで来ると立ち止り、頭上を見上げてみた。
「…。」
月路が天井を仰ぐと太陽の名残と月光にちらちらと埃が反射して、まるで粉雪が降っているかのようだった。掌を仄かな光にかざしてみると、紅黒い血潮が僅かに透けて見える。季節の暖かさを手に感じて、ああ、生きているなと実感した。
ガサ、と風の吹かない温室で木々の枝が揺れる。無意識にふっと視線を下ろしてみると、そこには先に行ったエリオルが立っていた。
「温室は気に入った?」
「そう、だね。思いの外に。」
エリオルはクスリと笑いながら、月路をさらに奥に誘う。誘われた先には、赤いビロードの布張りが施されたカウチが鎮座していた。
「さっき見つけたんだ。ちょっとロマンチックじゃない?」
そう言うと、嬉しそうにエリオルはカウチにダイブするように寝転ぶ。その無邪気な子供のような仕草に、月路は苦笑した。
「月路もおいでよ。」
「ああ…、うん。」
月路はカウチの淵にそっと腰を下ろす。昼間の熱を帯びて、カウチの布は温かく感じられた。
「気持ちいーねー。」
エリオルが優し気に瞳を細めながら、言葉を紡ぐ。彼の榛色の虹彩の淵が僅かに緑がかっていることを、月路は初めて知った。吸い込まれるような瞳の色に、思わずじっと見つめてしまう。
「…なんで、私を案内係に?」
月路から初めて話しかけると、エリオルは嬉しそうに表情をくるくると変えた。
「だって月路を見てると、インスピレーションが湧くんだもん。」
そう言うと、エリオルはハミングで歌を口ずさむ。月路はびくりと肩を震わせるものの、何とか耐えた。表現力が豊かなエリオルの声はうさぎのように飛び跳ねて、小鳥のように囀った。月路の鼓膜を震わせると、背筋がゾクゾクと粟立つ。が、それは翡翠の数分の一ぐらいの催淫効果だ。このぐらいなら、受け流すことができる。
「―…今の曲は、月路を見て降ってきたものだよ。」
にこっと笑うエリオルを見て、何とか笑い返す。ちゃんと笑うことはできていただろうか。
「そんなこと初めて言われたよ。ありがとう。」
「どういたしまして。ああ、僕、月路とペアを組みたかったな。」
エリオルのストレートな言葉遣いに、月路は困ったように首を僅かに傾げた。
「ええと…、ペアの相手は小日向さんだっけ。そんなことを言っては、彼に失礼だよ。」
「天助の声も好きなんだけどねー。でも、今ここには僕と月路しかいない訳で、正直な意見ぐらい許してよ。」
残念だなあ、と子供のように駄々をこねるエリオルだった。
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