第5話 肌に沈む、指。
オーディション合宿は8月に伊豆で行われる。海が近い立地にⅯキャビの合宿所があると言う。そこには収録のできるスタジオを筆頭に、防音室を伴ったレッスンルーム。小さなスポーツジムなどの設備が揃っているらしい。
月路はⅯキャビから配られたパンフレットを眺めながら、現地集合である合宿所に向かって電車に揺られていた。
ヘッドホンで音を遮断した世界は、月路が幼少の頃に育った世界とよく似ている。
月路は離婚した両親から、長野県の白馬村にある祖母の家に預けられた。祖母は耳が不自由な人だった。家の中にはテレビもラジオもなく、柱にかかった掛け時計の秒針の音だけが響いていた。
「…。」
ふう、と人知れず溜息を吐く。弱冷房車にこそ乗ってはいるが、時間が経つとむき出しの二の腕が冷気を以てして冷えてきた。その感覚は長野の初冬に似ていると思った。
白馬村は冬にもなれば雪が深く積もり、その雪がさらにしんしんと音を吸収する。祖母との会話は筆談を含めた手話が多かった。
とても、静かだった。
愛しい静の空間から憧れの動の世界へと足を踏み入れたときに、月路はその環境の変化に耐えることができなかったことをよく覚えている。
雑音を伴った学校生活は鼓膜をつんざくようで苦痛でしかなく、度々パニックを起こして過呼吸を引き起こした。最初こそ周囲は心配をしてくれたが、度重なるようなその発作は徐々に疎まれていくようになった。
月路は電車の窓から見えるのどかな景色に視線を向けた。車窓からは延々と続く畑で、夏野菜が青々と実っているのが伺い知れた。思い出されるのは、祖母の畑だ。
やがて不登校になった月路は祖母が耕す畑で日中を過ごすようになる。土を掘ったときの断ち切ったような小気味よい音や、じょうろから水を撒く涼やかで光るような音が耳に心地よかった。植物の葉が擦れてする会話、実った野菜を刈り取る瑞々しい歓声を聞いた。優しく見守ってくれる祖母がいて、凪ぐような音声があって、月路は自分の世界はここだけだと思っていた。
ヘッドホンの奥から、小さく電車のアナウンスが聞えてくる。月路は次に停車する駅名を確認して、荷物をまとめた。やがて電車は緩やかに減速して、景色に駅の構内が混じってくる。一度大きく揺れて、完全に車体が止まった。月路は立ち上がって気合を入れて、背負ったギターを持ち直した。そして外の世界へと一歩、足を踏み出した。
駅からバスに乗り換えるまでの間、じりじりとした熱気が肌を焼く。暑さで人通りの少ない時間帯、野球帽をかぶった子供たちがプール用の手提げバッグを振り回しながら駆けて行った。
合宿所は山間の別荘地にある。月路を乗せたバスはガタゴトと揺れながら、山道を走っていた。木漏れ日が魚のように泳ぎ、一秒としてじっとしない。時折、木々の間からはログハウスや小さな平屋が窺えた。世の中は学生たちが夏期休暇を迎えている時期なのだろう。家族連れを度々見かけた。そこには確かな人々の暮らしがあって、気配を感じさせる。
山の空気は月路が育った白馬村を彷彿とさせて、束の間、深呼吸をすることを覚えた。バスの終着点が合宿所の最寄りバス停という安心感から、月路はいつの間にか重くなった瞼を閉じていた。
終点のバス停を降りると、そこにはMキャビの社員を名乗るスタッフが待っていてくれた。
「相川月路さんですね。遠いところからお疲れさまでした。ここからは道が分かりにくいのでご案内いたします。」
月路はヘッドホンを外すのを一瞬だけ躊躇して、それでも、と外すことにした。
「…ありがとう、ございます。」
「緊張されてますか?」
スタッフはにこと微笑み、その緊張を解そうとしてくれた。月路が自分から発する声に色が付かないように気を付けていると、自然と小声になる。申し訳なく思いながら、月路も曖昧に微笑み返す。
「大丈夫ですよ。参加者の皆さんも緊張されている方がほとんどですから。ああ、でも…。」
「?」
んー、と思い出すようにスタッフは首を捻って、そしてクスクスと笑った。
「相川さんとペアの樋口さん、でしたっけ?こちらで用意した軽食をほとんど食べちゃってましたね。彼女一人で。」
月路もそういえば翡翠は、痩せの大食いだと言っていたなと思い出した。どうやら遺憾なく発揮したらしい。
そんなことを話しながら歩いていると、不意に景色が開けた。そこにはコテージを伴ってコンクリート二階建ての建物が鎮座していた。銅色をしたプレートが掲げられ、ミュージック・キャビネットの文字が刻まれている。
「中央塔の一階、玄関前で受付を済ませてくださいね。お荷物は受付で告げられた番号のコテージに置いて、集合時刻は16時です。再度、中央塔にお越しください。」
月路は頷いて、スタッフから敷地内の地図を受け取って別れた。教えられた通りに受け付けをし、寝泊まりをするコテージに向かう。道中は木々の間を行く小路になっていた。さくさくと進み、コテージの前に立って扉に手を掛けた。今の時間は15時を少し過ぎ、一休みが出来そうだった。
ほっと息を吐いて、入室をすると扉の隣にあるらしき浴室から、水が流れる音と物音が聞こえてきた。同室だというペアの翡翠は恐らくシャワーを浴びているのだろう。シャワーを使用しているとどうしても外の音が遠くなるよね、と一人納得して月路は荷物整理を始めた。クローゼットにスポーツバッグを片付けていると不意にガチャリと音が聞こえた。反射的に音の方向へと顔を向けると、そこにはショーツ一枚を身に着けた翡翠がタオルで髪の毛を拭いながら立っていた。
「お?ああ、相川さんか。」
「ええと…、久しぶり。」
二次審査後、およそ二週間ぶりだった。
「ごめんごめん、気付かなかったわ。」
翡翠はそう言いながら、備え付けの冷蔵庫に向かい冷えたお茶を取り出して飲む。
「だろうね。服を着ろ。」
「え。」
「服を着ろ。」
「え!」
数分後、きちんと身なりを整えた翡翠が脱衣所から出てきた。月路も荷物整理を終えて、一段落着いたところだった。そこで改めて顔を合わせる。
「あつーい。風呂上がりぐらい、パンイチでいいじゃんか。」
翡翠はぶーぶーと文句を言う。
「やだよ。」
「何よ、照れてんの?」
クーラーの設定温度をリモコンで下げながら翡翠は言う。
「そんなんでどうするの。音楽を通してセックスするんだよ?私たち。」
「オブラートに包んでくれる?」
月路は翡翠の言葉を聞いて、僅かに頬を赤らめた。
「包みようがないでしょーが。ちょっとは慣れろ…っと。」
衣擦れの音と、衣服が床に落ちる音が響く。翡翠は勢いよく着ていたTシャツを脱いだ。月路は思わず、両手で耳を塞ぐ。
「待って。」
その手首を翡翠は掴んで制止した。ぎょっとして、月路は目を見張る。
「な…に、を…!」
「特別大サービスで、今なら見放題だぞー。」
翡翠はにやりと意地悪く笑いながら、月路の視線を自らの上半身に誘った。声を詰まらせながらも、視線は翡翠の肌を辿る。
一臣の肌は健康的な色に焼けて、しなやかな腕に伴って指先までが長く美しい。健康的な桜色の爪は長すぎず、短すぎず整えられている。鎖骨がオブジェのように浮かび上がって、ささやかな胸元から腹部にかけてのラインは筋肉質で無駄な脂肪がついていなかった。
「…っ、」
月路は唇を震わせながらも目が離せない。その様子を見ながら、翡翠は月路の手を取った。
「触ってみる?」
「!?」
振り解ける力で腕を掴まれている筈なのに、月路は拒否することができなかった。もとい、しなかった。
翡翠の肌はサラサラと乾燥していて、クーラーの冷風で僅かに体温が下がっていた。肩に残った産毛が月路に触れられて、無意識に逆立つ。翡翠の肩から鎖骨、胸を誘われながら月路は指の腹で触れていく。その軌跡を辿る翡翠の視線に合わせて、耳元からさらりと黒い長髪が流れた。毛先が指に触れて、月路はびくりと肩を大きく震わせた。
それを限界の合図だと捉えた翡翠は、ようやっと月路の手を離す。
「…相川さん?」
翡翠が様子を伺うように月路の顔を覗き込むと、月路は顔を真っ赤にして硬直していた。やがて涙が滲んで、目が回ったかのように膝をついてしまう。
「え?あ、相川さーん。大丈夫?」
月路はひゅっと喉を鳴らしたかと思うと、大きく咳き込んだ。
「おいおいおい!?ちゃんと呼吸してよ、ブレス、ブレス!」
翡翠は月路の息が止まっていたことに気が付いて、慌てて背中をさする。こほこほと咳込みながら酸素を取り入れた月路は、やっと人心地着いたのか大きく深呼吸をすると翡翠を涙目で睨むのだった。
「樋口さん…。覚えてろよ…、いや、忘れろ。」
「どっちだ。」
唐突に、スマートホンの甲高いアラームが鳴る。それは翡翠が16時を忘れないように10分前を設定した音だった。
「遊んでる場合じゃない。行こう、相川さん。」
「…。」
翡翠は落としたTシャツを拾って身に着けて、扉に手をかける。むっとして機嫌が悪いながらも、月路は後に続いてコテージを出るのだった。
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