第4話 運命共同体
とりあえず、弾き語りを阻止するために翡翠は月路の家まで付いていくことにした。月路が暮らす一人暮らしのアパートは渋谷から電車を乗り継いで、一時間ほどの場所に位置していた。有名な映画のモデルにもなったとも言われる、坂道の多い町だった。
長かった日も暮れ、とろりとした夜の気配が空を染めていく。パラパラと街灯の光が灯りだし、地上の星のように瞬いた。
「この坂を上ればすぐだから。」
月路はそう言うと、慣れた足取りで力強く一際長く険しい坂道を歩く。翡翠はぜえぜえと呼吸を乱して、肩を揺らした。
「いや…、ちょっと、坂…きつくない?」
「ああー…、立地条件で安い物件だったから。そこ、猫が寝てるから気を付けて。」
翡翠が、え、と思って、足元を見ると黒い物体が影のように伸びていた。
「うわ!?」
それは月路が言う通り、真っ黒な猫だった。黒猫は二人に動じることなく、ごろりと寝転んでいる。
「ふてぶてしい猫だねー。」
「可愛いでしょ、竹久さん。よくうちにも来るんだよ。」
ほら、と月路は指を差すと、丘の上に古い木造建てのアパートが見えた。どうやらそこが、月路の根城らしい。竹久さんと呼ばれた黒猫は、その声に反応したかのようににゃあと一鳴きして、二人を導くように起き上がって歩き出した。
「さて、もうひと踏ん張りだよ。」
猫を追うように駆けていく月路を、気合を入れて翡翠も追うのだった。
古い、よく言えばレトロな木造二階建てのアパートの名前は、かぜよみ荘と言った。月路はその一階の角部屋に住んでいた。ささやかな庭と、時々猫付きだといって月路は笑った。
「どうぞ。」
扉の錠を落として、月路は翡翠を入室するように促す。
「お邪魔しまーす。」
そう言って、遠慮なく翡翠は足を踏み入れた。
「…おおう。」
部屋の中は乱雑に楽譜が積まれて、パイプ製のベッドと小さなテーブル。それと一台のパソコンがあった。テレビやラジオなど、音を出す機械は一切排除されている。それは月路の敏感過ぎる聴覚を刺激しないためなのだろうが、自らの音楽だけを生み出すためだけの部屋のようにも思えた。
「適当に座って。」
月路はせまいキッチンスペースに立つと、麦茶をコップ二つに注いで一つを翡翠に手渡した。
「ありがと。」
一気にコップを仰ぐと、冷たい麦茶が喉を通り胃の中に溜まっていくのを感じた。
「今日、本当に暑いね。クーラーの調子悪くて、ごめん。」
クーラーは唸るばかりで、一向に涼しい息を吐かない。月路は軋むベッドを昇って、窓を開けた。その刹那、夜風がカーテンを孕ませ、室内の熱気をさらっていった。丘の上のかぜよみ荘には、心地よい風が吹くと言う。
月路はそのままベッドの上に膝を抱えるようにして座った。ショートパンツから覗く白い足元が眩しい。
ビーズクッションに腰掛けて、翡翠は散らばった楽譜に目を通した。
「すごい量だね。」
「音楽が好きなの。」
声は苦手なのに?と意地悪く翡翠が訊くと、月路はバツが悪そうに視線を逸らす。
「まあ、いいけど。ねー、これ、歌ってみていい?」
「! やめ、」
月路の返事を待たずして、翡翠は手にした一枚の楽譜をハミングで歌を紡いだ。曲の早さがわからなかったから、そこは適当にリズムをつける。
「―…、」
素直に歌いやすい曲だと思った。ぽとんとインクを一滴、バスタブに落としたかのように緩やかに心に滲む。荒々しい感情が凪いでいき、その細波が静かに広がっていくようだった。
「…相川さん?」
歌うことに夢中になっていて気が付かなかった月路の異変に、翡翠はようやく気が付いた。月路は腹を抱えるようにして、胎児のように蹲っていた。その呼気は熱く、荒い。
「どうしたの、大丈夫?」
「…ぅ…、ん。ごめ、ん。」
頬を紅潮させて、涙目になりながら震える手でヘッドホンを取ろうとする。翡翠は慌ててそのヘッドホンを月路に手渡した。耳を覆い隠して、月路はやっと深く呼吸を繰り返すことができるようだった。落ち着いた頃合いを見計らって、今度はノートと筆記具を取り出す。
『取り乱してごめんなさい。』
たった一言。そう書いて、月路はベッドに突っ伏してしまった。翡翠はどうすればいいかわからず、とりあえずベッドの淵に顎を置いて月路が復活するのを待つ。数分ほど沈黙していただろうか、月路がそろりと顔を上げた。今度は翡翠が筆記具を手に取って、ノートに書き込む。
『昔から人の声が苦手なの?』
月路は問いの答えを口に、文字にするのを逡巡しているようだった。そしてぐっと唇を噛み締めて、意を決したかのように文字を書いた。
『アコースティッコフィリア。私は、音響性愛者なの。』
翡翠は初めて見る言葉に、首を傾げる。無理もないと月路は頷いた。
『人の声が鼓膜を響かせると、そのままセックスに直結する。私の性行為は音楽そのものなんだ。』
目にした文字に驚いて、翡翠は月路を見た。月路は照れたような、困ったような表情をしている。
『だから最初、迷った。私が音楽を奏でてもいいのかどうかを。私には自分のセックスを人前に晒す趣味はない、はずだから。』
翡翠は月路が歌をうたう姿を思い出していた。最後の一音を弾いたあの時、確かに月路は果てたのだ。そして、とあることに気が付く。言うべきかどうか迷ったが、確認しないといけないと思い今度は翡翠が筆記具を手に取った。
『私と音楽を作ると言うことは、私とセックスをするということ?』
「!」
翡翠の文字を見て、月路はびくりと肩を震わせた。ぱくぱくと口を開閉し、やがてきゅっと瞳を閉じながら頷いた。握りしめられた月路の拳の肌を、とん、と翡翠は突く。
おずおずと瞼を開ける月路に、言葉の続きを綴る。
『それは、相川さんとしては許容範囲?嫌じゃないのかな。』
「…わからない…。」
ぽつりと、月路は呟いた。
どうすればいいかわからなくて、途方に暮れて一人佇んでいるかのような寂しい声音だった。月路は祈るように手を合わせて再度、瞳を閉じる。その目の端には僅かに涙が浮かぶ。
「…。」
伸ばした手を一瞬止めて、それでも翡翠は月路の頭を撫でた。
「よしよし。相川さんにとって、生きにくい世界だなあ。」
子猫に触れるように優しく、警戒心を解くように心を込める。その想いが届いたのか、そっと月路は顔を上げた。視線は真直ぐに翡翠を捉え、見つめる瞳はしんとして静かだった。思い切ったかのように呼気を漏らして、月路はヘッドホンを徐に外す。
「樋口さん。」
「…。」
翡翠はその様子を黙って見守った。
「…声を、出して。」
「いいの?」
一瞬だけ怯んで、それでも、月路は言葉を紡ぐ。
「樋口さんは、私なんかと組むことになって本当に不本意だと思う。でも…、私に力を貸してほしい。」
月路の震える声には決意が滲んでいた。
「いいよ。あなたも、私に力を貸して。これから私たちは、運命共同体なんだから。」
共闘を誓う握手を求めるように翡翠が手を出すと、月路は迷わずにその手を握った。
「よろしく。」
二人の声が重なった。
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