第2話 医務室での抱擁
ふらりとよろけるように月路はスタジオから出てくる。呆然としていた審査員も我に返って、彼女を見つめた。
「君…、大丈夫か?」
「え…?はい…。」
ぼんやりと空に泳がせていた目の焦点を、月路はやっとこの場にいる人間に合わせた。そして困ったように笑った。
「どうしたんですか?」
どうしたも何もない。月路の色気に皆が中てられたのだ。気まずく思い目を逸らす者もいれば、興味津々に彼女の姿を見つめる者もいた。ただ一人、月路自身がわかっていなかった。いそいそと自分の椅子に戻り、腰掛ける。そして続くオーディションの流れを把握すべく、周囲をきょろきょろと見渡すのだった。
「つ…、次の方。スタンバイしてください。」
こほん、と咳払いをして進行係の社員が次の審査に移るように促した。オーディションは進み、次は翡翠の順番となる。
「エントリーナンバー11、樋口翡翠。お願いします。」
よく通る、少し低い声。月路は緊張する。その他の人間の声が全て雑音だと認識するに対し、翡翠の声は何故か必要以上に月路の心の琴線に触れた。ただ、話しているだけの声にどうしようもなく胸の内を引っ掻き回される。
できるだけ、違うことを考えていよう。意識しないで、やり過ごそう。
そう思い、ヘッドホンに触れる手付きを癖でしてしまう。だが今、ヘッドホンは待合室にあった。月路は焦る。
どうしよう。耳を塞いでも、この距離だと僅かにでも翡翠の声が聞こえてしまう。
「…っ!」
月路は目をぎゅっと瞑り、来る衝撃に備えた。
前奏が鳴り、翡翠が息を吸い込み、そして。
「ぁ…、ん…っ、」
鼓膜を震わせる翡翠の声が下腹部に響き渡り、月路ははしたない声を出さぬように自らの薬指を強く噛んだ。それほどまでに翡翠の声は強烈だった。
ずん、と響くハスキーヴォイスは甘い疼痛を胸に走らせ、手足の指先が逆上せそうなほどのお湯の温度に触れているようだ。ピリリとした痛みが生まれて、そのわずかな電流が身体中を駆け巡る。
「…っ…は、」
身体をくの字にして耐える月路の様子に、周囲が気付き始める。
「相川さん…?大丈夫かい?」
進行係の社員が心配して、月路の肩に触れた。次の瞬間大きく身体を震わせて、月路は喉元を仰け反らせた。
「っぁ、すみませ、ん…、調子が、悪く…て。」
はあ、と熱い呼気を漏らしながら、涙ながらに月路は訴える。社員は耳を紅くしながら、どぎまぎと月路の様子を伺い医務室へと連れて行ってくれたのだった。
「動けるようになるまで、こちらで休んでいてください。」
「ありがとう、ございます…。」
ベッドの冷たいシーツに包まれて、月路は自分の急上昇した体温が緩やかに下がっていくのを感じた。熱い吐息も徐々に落ち着きを取り戻し、月路は自分の痴態を思い出すようになっていった。
恥ずかしい。ただ、歌声を聞いただけで自分はこんなにも取り乱してしまう。
自分でも、この体質が嫌だった。体質というより、性質だろうか。健全な声が、性的に変換されてしまうなんて。
ぼんやりと透明さに欠ける思考力に負けて、月路は耳を塞ぎながら瞼を閉じた。自分の血液が流れる音を聞きながら、夢現、微睡んでいった。
夢の中で誰かが、肌に触れていた。ゆっくりと撫でまわすように、柔く強く、強弱をつけて指の腹がピアノを弾くように肌をなぞっていく。ぬるりとした感触は舌だろうか。唾液を溜めて、嬲るように犬歯が立ち喉を食い破ろうとする。
「…っあ…!」
甘美な刺激に触発されるように、ばちっと電流が走ったがごとく月路は目を覚ました。息を切らしていると、ベッドを仕切るカーテンの向こう側の声に意識が集中してしまう。
「…相川さん、だっけ。オーディション終ったよ。具合、大丈夫?」
「!?」
その声の主は翡翠だった。どうしても、自分を狂おしく嬲る声に喉が引き攣ってしまう。
「な、んで?」
何故、ここにいるのか。
質問に質問で返してしまった。だが、そんな無礼など気にする余裕は月路になかった。
「私の番のときに、会場を出ていったから心配になってきてみた。…相川さん?」
翡翠の、声が。身体に侵入してくる。奥底まで犯し、駄々っ子のように暴れ回る。
「相川さん、カーテン開けるよ。」
止めて。止して。どうか、早く立ち去って。
月路の思い虚しく、真白いカーテンが引かれた。そこには案の定というか、声で暫定させた主が立っていた。
「―~…っ、や、」
目が涙で潤み、翡翠の表情が見えない。恐らく滑稽な自分の姿がその瞳に映っているのだろう。
「…相川さん。もしかして、」
「やめ…っ、喋らない、で。」
「泣いてる?」
最早、翡翠の言葉の意味も分からない。月路は身をよじらせて、耳からクる快感に耐えていた。耳を塞いで頭を振る月路を、翡翠は見下ろしていた。
そして、ギシリと音が立ってベッドが軋む。月路自らの顔に影が落ちて、思いがけず瞼を開けてしまった。するとふわりとした動作で、翡翠に抱きしめられる。月路は驚きに目を見開いて、押しのけようと翡翠の柔らかい胸を押した。翡翠の呼吸音が耳に直接届く。
「やめ、て…!おねが、いっ、」
「静かに。」
声を出さないで、と翡翠に耳元で囁かれて月路は気が狂いそうになる。
「泣いてるところを人に知られるの、嫌でしょ。」
先ほどの夢は翡翠の声を聞いたからだということに、月路は今更ながら気が付いた。
「いきなり、ごめんね。苦しそうだったから。」
「…。」
意識がぼうっとしながら、月路は翡翠を見る。そして涙を零しながら、耳を震える手で塞いだ。
「もう、喋らないで…。」
「…うん。」
月路の哀願を察し、翡翠は押し黙る。そして乗り上げたベッドの縁に腰掛けると、優しく月路の裸足の素肌を撫でた。ぴく、と震えが指先に伝わったが蹴り上げられることがなく放っておかれたため、そのまま柔く月路の足の甲を撫でていた。冷たかった体温が触れているうちに徐々に温まっていく。月路は布団をかぶって、顔を隠していた。もしかしたら照れているのだろうか。気にすることない、と言いかけて喋るなと言われていたのを思い出す。
口を噤み、翡翠は月路が布団から顔を出すのを待った。とりあえず部屋を換気しようと窓を開けるために立ち上がると、ごそ、と布団の山が動いて翡翠の様子を伺う気配がした。
「…。」
カーテンを引き、カラカラカラと音を立て窓を開けると都会特有の温い風が部屋に流れ込む。季節は7月、初夏。ビルの大群の隙間から入道雲が見えた。もう少し大きくなったら、雨を携えて渋谷の街を濡らすのだろう。
20分ほどの時間が過ぎて、先ほど月路を医務室に案内してくれた人と同じ社員が再び部屋に現れた。
「樋口さんもこちらにいらしたんですね。オーディションの結果が出たので、会場まで来ていただけますか?」
「! はい。」
翡翠は返事して、行くよ、と月路の肩をゆする。上目遣いにしながら布団から顔を出した月路は目元を微かにまだ朱に染めていた。
「まだ、具合悪いですか?」
心配を声に滲ませる社員に対して、月路はのろのろと起き上がって頭を下げる。
「大丈夫、です。…すみません…。」
足元が覚束ない月路を支えようと翡翠は無意識に手を出そうとするが、それを避けられてしまう。
「…ごめんなさい。」
「いーよ。行こう。」
まるで手負いの猫のような反応に、翡翠は苦笑した。
レコーディングスタジオに集められた参加者の中に、翡翠と月路も加わる。それを確認し、審査員の一人がマイクを手にした。
「全員、揃いましたね。それでは二次審査の合格者を発表します。番号の呼ばれなかった方は、残念ですがご退出を願います。」
悲喜こもごも、順番に番号が呼ばれていく。
「―…9番、」
番号を呼ばれて、月路は顔を上げる。
「11番。最後に15番。以上の方は、お残りください。」
無事に翡翠の番号も呼ばれ、心の中でガッツポーズをとった。合格者に残ったのは合計6名。次の最終審査で、Mキャビ所属契約を約束される。
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