トータ・プルクラ・エス・マリア
真崎いみ
第1話 恋を睦む、愛の歌。
渋谷は人の多さと比例して雑音が多い街だ。人の声が不快でずっと上京に怯んでいたが、それでも心を奮い立たせ相川月路は何とかこの地に降り立った。
ノイズキャンセリングのヘッドホンを身に着けて、月路はオーディション会場に足を向けて急いでいた。背中には父から譲ってもらった愛用のギターがあった。音楽芸能事務所ミュージック・キャビネット、通称Mキャビでそのオーディションは行われる。
「…ここ、かな?」
一次審査の合格通知と共に送られてきた、二次オーディション会場の地図を何度もにらめっこして場所を確かめる。住所、添えられた写真の外観が一致した。よし、と気合を入れて、月路は出入り口の扉に手を掛け、指に力を込めたのだった。
「…それでは、こちらの待合室でお待ちください。」
にこ、と受付の女性に微笑まれて、待合室への入室を促される。月路は渡された自らのオーディションのナンバープレートをきゅっと握った。これから一緒に挑む戦友のように思えたのだ。無事に受付を終えた安堵感を胸に、ほっと一息つきながら部屋の一角にあった椅子に腰かけた。オーディションの待合室ということで、室内はちょっとした緊張感に包まれている。月路はいつもの癖で人間観察をしてしまう。
書類を確認する者。楽譜を見直している者。イヤホンをつけて精神統一している者などそれぞれが、戦いに向けて準備しているようだった。
…皆、もっと楽しめばいいのに。
月路はのんびりとした性格も相まって、楽観的に考える。膝に乗せた掌をグー、パーにしながら暇を潰した。しばらくの間、そうして時間を過ごしているとふと頭の上から影が落ちた。
「?」
不思議に思い、月路は顔を上げる。そこには精悍な顔立ちをした女性が立っていた。漆黒の猫のような髪の毛を長めに伸ばし、後ろで無造作にまとめている。おしゃれとしてと言うよりは、ただ切るのが面倒で伸ばしているようだった。涼やかな目元にはぽつんと一つの黒子があり、その黒子を見てしまうと自然と目が合ってしまう。鼻筋はすっと通り、薄い唇が何かを囁くように動いた。
月路は、慌ててヘッドホンを外す。
「ごめん。なんて言ったの?」
「隣に座ってもいいかって、聞いてるんだけど。」
月路は首を傾げて周囲を見渡した。椅子は他にもあり、月路の隣にしか席がないということはない。
「座るね。」
返事を聞かずして、女性は月路の隣の椅子に座った。そして、ふう、と呼気を漏らす。その声と息遣いに、月路は背筋をぞくりと振るわせた。それを相手に悟られないように、わざと言葉を紡ぐ。
「どうして、ここに?」
「ん?あなたの周囲の空気が一番柔らかかったから。わざわざギスギスしたところに居たくない。」
「ふうん。変な人。」
トクトクと心臓が高鳴る。鼓膜に響く女性の声は、月路の体温をそっけないふりして上げた。
「…。」
女性はじっと月路を見つめている。
「何?」
「顔、赤いけど。」
「!」
軽い性的な興奮による発汗を悟られたのかと、月路はどきりとした。
「緊張してるの。」
「まあ…。」
月路はアコースティッコフィリアだった。
その他大勢の声はセックス中の喘ぎ声に等しく、盗聴する趣味のない月路にとっては不快なものだった。人ひとりを認識してしまうと気まずく思う。だから月路は常にヘッドホンを身につけて、聞かないようにしている。
「無理もないか。オーディション前だもんね。でも、まだ緊張するの早いんじゃない。」
だけれどこの女性の声は透明なリボンをほどくようにするすると鼓膜をくすぐり、その震えの感触に背筋を撫でられたようにぞくぞくした。手足の指先が甘く痺れ、熱い何かが体内をゆっくり浸食するように広がっていく。
「…、っ。」
「大丈夫?」
月路は息を呑んで、快楽の波を耐えた。それは文字通り細波のように寄せては返すように強弱をつけて月路を襲う。
「ちょっと…、ごめんなさい。」
耐えきれず、ヘッドホンを装着する。引いていく声に、月路はほっと胸をなでおろした。女性は驚いたように月路を見つめていたが、やがて目を逸らしてくれた。
「これよりミュージック・キャビネット、歌手育成のための新人発掘オーディション第二次審査を始めさせていただきます。」
Mキャビの男性社員が待合室の扉を開いて、オーディション参加者に告げる。
「それでは、1番から4番のナンバープレートをお持ちの方は移動してください。」
周囲がにわかにざわめき出す。樋口翡翠は自分のナンバープレートを見る。11という数字を確認して、指折り数えて順番を確かめた。4人ずつ呼ばれるとしたら三番目に出番が来る。
ちら、と隣を見ると、少年のようにあどけない顔をした少女がヘッドホンを着けて目を瞑っていた。参加条件に18歳以上と記載されていたから、高校生以上であることは間違いないが彼女は下手をしたら中学生でもまかり通りそうだ。子どものように掌を開いたり閉じたりを繰り返す少女を見て、緊張感が薄れたのは確かだった。だから、わざわざ隣に腰を落ち着けた。何気なく少女が手にしているナンバープレートを見ると9の数字が刻まれていた。
―…同じグループか。
何となくほっとする自分がいた。この子と一緒だと、落ち着いて歌えそうだった。
やがて呼ばれる自分たちのグループ。隣の少女はまだ目を瞑っていた。ヘッドホンをしているから、聞こえていないのかもしれない。
「ねえ、呼ばれたよ。」
肩をゆすると少女はゆっくりとヘッドホンを外し、瞼を開いた。その澄んだ瞳の色は電球の灯りに透けて、アンバーブラウンに輝いていた。
「…ごめん。何?」
ぱちくりと目を瞬かせる彼女は邪気が無く、まるで世間のしがらみ何もかもから解放されたかのようだった。
「だーかーら、順番!行くよ。」
「あ、うん。ありがとう。」
「ヘッドホンは置いて行った方がいいと思う。」
「! そう、だね。」
再びヘッドホンを着けようとする少女の手を止め急かすように立たせ、係の社員が待つ廊下へと連れ立つ。
「えーと、揃いましたね。では会場へ向かいます。」
エレベーターで下り、オーディション参加者は地下のレコーディングスタジオへと向かった。スタジオに着くと、4名の審査員が待ち構えていた。
「えー、これから皆さんには順番に課題の曲と参加者自らが制作した楽曲を、歌ってもらいます。」
課題曲はMキャビ所属の歌手の代表曲だ。アレンジをせず、どこまで忠実に楽譜を追えるかを問う。自らが制作した楽曲ではオリジナリティが問われると先に、告知されていた。
参加者の緊張感が高まりピークになるころ、9番の少女が呼ばれてスタジオに入った。ふらりとしてまるで柳の葉のような立ち居振舞いだった。マイクを通して、静かに凪いだ声が響いた。
「エントリーナンバー9の相川月路です。よろしくお願いします。」
課題曲のイントロが流れ始める。月路の心臓は緊張ではなく、別の理由でドクドクと高鳴っていく。うるさいぐらいの鼓動を無視して、月路は音符を辿っていった。今のところは可もなく不可もなくといった及第点だろう。決して合格点ではない。平静を保ちつつ、最後まで歌いきる。
「…はい、ありがとうございました。それでは次の曲の準備に入ります。」
事前に提出してあるデモテープの音源が流れ出す。月路は、すう、と息を吸い込んだ。
「何、あれ…。エロい…。」
他の参加者からつぶやきが漏れる。皆が月路の歌に、声に絶句していた。
歌声は徐々に熱っぽさが増し、サビに近づくにつれ愛欲に濡れていくように潤んでいく。
「…ぁ…っ、」
苦しそうな息遣いはセックスの痛みに耐えるかのように震え、聞く者の被虐心を煽った。
月路自身、喉を震わせる瞬間に肩を小刻みに痙攣させて瞳を潤ませる。その様子はまるでマスターベーションを見せつけられているようだった。
そして緩やかに楽曲の速度を落とし、音源の音色が止むとき。やがて身体が弛緩したように月路は膝をついた。
「ぁ…はー…、ふ、はは…っ。」
天を仰いで目蓋を閉じる月路を見て、翡翠は、ああ。今、この子はイったんだ、と思った。
月路がうたった歌。それは恋を睦む、愛の歌だった。
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