楽器の町にて

増田朋美

楽器の町にて

楽器の町にて

寒い日であった。12月らしく、しっかりと寒い空気になってくれて、本当によかったなんて、言っている人もいる。今年はなんでもそうだけど、その時期らしいことができるのが、本当に幸せだと思うのであった。

その日、いつも通り、浩二のもとへ、ピアノ教室の生徒である、古郡さんというひとがやってきた。一体何が在ったんだろうかと、浩二も心配になるほど、古郡さんは、落ち込んだ顔をしている。

「どうしたんですか。そんなに落ち込んで。」

と、浩二は彼に言った。

「い、いやあね、うちのピアノが故障してしまいましてね。一寸、練習ができなくなってしまったものですから、こないだ課された課題曲が、まったくできなくなってしまいましてね。」

と、彼は答える。

「ピアノが故障ですか?」

と、浩二が聞くと、

「はい、ピアノの鍵盤を押すと、変な音がするんです。壊れてしまったんだと思って、それ以上練習できなくなってしまって。」

と、古郡さんは答えた。

「そうですか。では直してもらわないと行けませんね。楽器屋さんに連絡してみましたか?」

浩二がもう一回聞くと、彼は、そうですね、と答えるのを躊躇した。

「あれ、すぐに頼まなかったんですか?」

浩二がまた聞くと、

「ええ、こういう時世ですから、もうピアノを習おうとするのは、無理かなあと思います。それよりも、世のため人のために生きる方が、正しいのではないかと思いまして。」

という彼。最近の風潮でそういう風に思ってしまうのだろうか。最近は趣味を捨てて、仕事に集中しなきゃならないと言って、ピアノ教室をやめていく人が増えている。其れ自体は悪いことではないけれど、そのせいで精神が不安定になってしまう人も少なくない。そうなるのであれば、ピアノを続けてくれればいいのになあ、と浩二は思った。

「こういう時期に、ピアノが故障するということは、もうピアノをやめろというサインなんじゃないかと思いまして。其れで僕は、世の中の風潮に従うべきじゃないかと思うんです。もうピアノをやってはいけないというか、そういうことを、世間言っていると思うんです。」

「そうだけど。」

と、浩二はぽつんと言った。

「世の中は確かに大変ではありますが、そのために自分の好きなことまで捨ててしまうというのは、一体どうでしょうか。そこまでしてしまうことはないと思うんですが。」

「いや、それは僕も考えました。でも僕は大した仕事もしてないんですから、やっぱり、好きなことをしているのはいけないと思うんですよ。それは、やっぱりぜいたくというかいけないんじゃないかなあ。」

古郡さんは、確か、クラウドソーシングというサイトで、依頼を受けた原稿を書く仕事をしている。さほど長時間やっているというわけでもないけれど、其れだって、立派な仕事だ。単に外で仕事をしているか、それとも家の中で仕事をしているか、それだけの違いであると思う。なのに、彼は、それを劣等感に思ってしまうようなのだ。

「なんでまた、そんな風に考えるんですか。いくら外へ出れないと言っても、ちゃんとご自宅で原稿書いてらっしゃるでしょう?」

「いやあ、僕は、一般的に生きている人間ではありません。ちゃんと、外へ出て働いて、というのが理想的というか、正しい生き方なんですよ。いくら家の中で仕事をしていると言っても、其れは難しいですよ。やっぱり男の癖に、家族と一緒に暮らしているのはおかしいって、言われてしまうんです。」

と、古郡さんはそういうのであった。それは、あくまでも彼が持っている症状というものであるのだ。別に、古郡さんに向かって、お前はダメだと口に出して言ったものは誰もいない。でもそう思ってしまうのだ。其れを妄想と言って、医療の力を借りなければいけない所もあるのかもしれないが、浩二は、音楽でそういうことができるのではないかと思っていた。

「一般的に言って、生きているとかいないとか、そんなことは考えなくてもいいんじゃないでしょうか。先ほども言いましたが、世の中のせいで、ピアノを辞める必要はないと思いますよ。」

浩二はそう彼に言った。彼の思っていることを、何とか消してほしいと思った。

「ピアノをやめるという必要はありません。僕は、そのまま続けて良いと思います。」

やっと浩二は、一番言いたいことを、いうことができたと思った。

「でもですね、ピアノも壊れてしまいましたし。」

と、まだ躊躇している古郡さん。

「ピアノが壊れてしまったら、直せばいいじゃないですか。ここにはなくても浜松に行けば、楽器関係の企業はいっぱいありますよ。其れを探して、何とかすればまたピアノを弾けるようになりますよ。簡単なことです、そんなこと。」

古郡さんに向かって、浩二は直ぐに言った。

「簡単なことですかね、僕たちには、すごく難しいように見えますけどね。」

古郡さんはそういうのであるが、浩二は、こう言い切ってしまった。

「そんなこと言うんでしたら、僕が修理できる人を見つけてきます。それで直してもらいますから、辞めるのは、其れができなかったらにしてください。」

とりあえず、そういって、とりあえず彼には自宅へ帰ってもらったが、さて、これからどうしようと思った。とにかく古郡さんの感じている世界観は間違っているから、浩二がそれを是正してやらなければならないのだった。古郡さんは、世間の人が、自分のことを悪い奴だとか、変な人だとか言っている、そういう風に感じているんだと思う。きっと彼の住んでいる世界には、常に、働いていない人はダメだと監視している人が居て、上のひとに、言いつけている。そういう世界に彼は住んでいる。

だから、古郡さんは外へ出て働くことができないのだった。外へ出てしまったら、住んでいるところの違いから、何かトラブルが起きてしまうだろう。そういうわけで、クラウドソーシングというインターネットの世界で仕事をしている。クラウドソーシングだと、やりとりはすべて文章の中で行われているから、相手の表情や口調に気を遣う事はなく、余計な気遣いはしなくていいので、仕事がつづけられると古郡さんは言っている。そういうところも、又問題としてあげられるのであるが。

しばらくすると浩二のスマートフォンが音を立ててなった。

「はい、もしもし。」

浩二が出てみると、

「あの、古郡でございます。いつもお世話になっております、古郡英の母でございます。」

英とは、古郡さんの名前である。

「ああ、それで何の用でございますか?」

と浩二がいうと、

「ええ、実は、息子が今日、ピアノレッスンをやめてきたというのですが。」

というお母さんに浩二は次の文はどうなるか、すぐに予測することができた。多分、きっとレッスンを辞めたと本人は言っているが、親としてはやっと外へ出てくれたので、レッスンを続けてほしいという内容だろう。

「ああそうですか。先は言わなくても大丈夫ですよ。其れよりも現実的な話をしましょうね。あの、ピアノを壊してしまったというのは本当でしょうか。」

「ええ、そうなんです。あの子ったら、ピアノを一生懸命練習しているので、ピアノもそろそろがたがきてしまったのではないでしょうか。ほんとに、有名なメーカーでない、中古のグランドピアノなんか買うから、悪いと言えばそれまでなんですが。」

浩二が聞くと、お母さんはそう答えた。

「音はしっかりなりますか?」

「はい、ピアノ線が一本きれてしまいまして、音がならないんですよ。」

なるほど、そういうことか。

「わかりました。ピアノ線なんて、張り替えればよいだけの事です。僕が張り替えてくれる業者を探しますから、息子さんには、しっかりレッスンんい来てくれるように言ってください。」

浩二はそういって、お母さんを励ました。そして、

「業者が見つかったら、そちらへ連れていきます。しばらくお待ちください。」

と言って、急いで電話を切った。それでは急いで、ピアノを直してくれる会社を探さなければならないなと思った。この富士には優秀な職人がいないことは知っていたから、ピアノの製造で有名な浜松へ行ってみることにする。浩二は急いで新富士駅にいって、新幹線の切符を買い、急いで浜松駅にいった。便利な時代になったものだ。新幹線一本で、40分で浜松駅まで行けてしまうのだから。

確か駅から、あの会社は、歩いて15分程度の所にあったなと思う。目印にしていた建物を見つけ出して、浩二は、歩いていった。もう看板はずいぶん古いものになっているが、ここで間違いはない。浅村楽器店である。店の入り口をくぐると、かつては、古ぼけた楽器屋だったが、現在はたくさんのグランドピアノが置かれている大きな楽器店になっていた。

「あの、すみません。富士に住んでいます、桂浩二という者なんですが。」

浩二は、レジカウンターの前に立っている、受付の女性にいった。

「はい、どのようなご用件でしょうか。」

「あの、ピアノの修理をお願いしたい生徒さんがいるものですから、彼のピアノを修理してもらいたいんです。」

と、浩二がそういうと、受付は、一寸お待ちくださいね、といった。そして、どのような修理をすればいいのか聞いてきた。

「ええあの、ピアノ線を一本張り替えていただきたいんです。」

「メーカーはどこですか?」

浩二がお願いすると、受付は当たりまえのように聞いてきた。

「ええ、一寸マニアックなメーカーではありますが、ウェルアンドラングという名前のメーカーのグランドピアノです。」

それを聞くと、受付ははあ?という顔をした。確かに日本ではほとんど知られていないメーカーなので、浩二は正直に言うと、そういう反応しか返ってこないだろうなと思っていた。

「なんですか。それは。」

「オーストリアでは、有名なピアノメーカーではありますが、確かに日本では持っている人も少ないですよね。国産のピアノより安いという事で、購入されたそうです。」

まあ確かに、ヨーロッパの中古ピアノを買った方が、国産のヤマハとかカワイの新品を買うよりも安く買えてしまったという例は結構ある。それで、変な名前のピアノメーカーのピアノが、一般家庭に蔓延ってしまっていることが多い。誰でも、マニアックなメーカーを持てるようになっている時代と言えよう。

「そうですか。そんなメーカー、うちでは扱えませんね。うちは、楽器屋ですが、どこのメーカーを扱っているわけではありません。そんな私たちも知らないメーカーを持っているなんて、よほど、頭の偏った、変な人にしか見えませんね。」

そういわれても仕方なかった。時々、そういうマニアックなものを持っている偏屈な名匠もいないわけではないからだ。

「でも、直してもらわないと、その生徒さんが練習できなくなってしまうじゃないですか。ピアノのメーカー何て星の数ほどあるくらい、ご存じでしょう?」

と、浩二が言うと、受付はいやな顔をした。店のひとだって、確かにマイナーなメーカーのピアノを修理したとしても、店の宣伝材料にはならないということは、よく知っている。

「そうかもしれないですけど、うちでは扱えません。そんなマニアックというか、名前の知られていないメーカー。一体その生徒さんというのはどういうひとなんでしょうかね。」

浩二は、ついにそれを聞かれてしまったと身構えた。

「はい、一寸精神的に不安定な人ではありますけれども、ちゃんと意志は通じますから、問題はありません。」

といった。やっぱり、店の人はいやそうな顔をする。そうなってしまうのはわかるんだけど、でも浩二は何とかしなければならないのだった。

「僕は、彼と話をすることだってできますし、その気になれば、通訳することだってできます。だから

彼のピアノを修理してやってください。」

それでも店の人は嫌そうな顔をする。

「どうかお願いします。マニアックなピアノメーカーだし、多少不安定な人ではありますけれども、ピアノは、大事な道具なんですよ。彼のためにも、ピアノを直してもらえませんか。」

浩二は、そう懇願した。受付の人は、いやな顔をする。確かに、精神の不安定な人のもとを訪ねるのは、一寸勇気のいる行動であることは間違いないのだが。

浩二が、この店ではやってもらえないか、とあきらめて帰ろうとすると、

「ちょっと待ってください。その人はどういうひとなんですか?」

と、店の奥から、ピアノ修理のエプロンをしめた、頭の真っ白なお爺さんがやってきた。

「どういうひとって、精神がおかしくなった人のところに、ピアノを修理にいってくれとこの人は言うんですよ、この人は。」

受付の女性はいやそうな顔をして、浩二を顎で示した。

「それでは、いつ行けばいいのか、教えていただけないでしょうかな?」

「ええ、なるべく早く来てください。僕はその生徒さんにはぜひとも、ピアノを続けてほしいと思うんです。」

お爺さんの話に浩二は直ぐに食いついた。

「わかりました。じゃあ、明日そちらに伺いましょう。時間は何時ごろ、希望されますか?」

「ちょっと、大森さん、変なことを言わないでください。あたしたちの店のメンツに傷が付くんですよ。」

受付係はそういうが、大森さんと呼ばれたおじいさんは、表情を変えなかった。

「大森さん何を言っているんですか。精神障碍者ですよ。何をするのか、わからない人ですよ。そんな人にピアノを教えている先生なんて、大した事ありませんよ。そんな人に、ピアノを修理しても、碌なことはないでしょう、通訳がなきゃ、言葉も通じないなんて。そんな人が音楽なんかして、音楽に傷がつくんじゃないかしら?」

受付はいやあそうな顔をしてそういうことを言うが、大森さんは、意思を変えなかった。

「明日伺いますから、そのお客さんの名前を教えてください。」

「はい、古郡英さんです。富士市の川成島というところに住んでいます。修理内容は、ピアノ線を張り替えて欲しいということです。」

「ああ、わかりました。ピアノ線の張替えですね、確かに、承りましたよ。ただ、私はね、運転免許を持っていないので、新富士駅まで迎えに来てくれますか。其れさえしていただければ、その方のお宅まで行くことにしましょう。」

浩二は、うれしそうな顔をして、大森さんにありがとうございます!といった。

「大丈夫ですよ。どんな人であれ、ピアノを弾きたいという思いは同じです。その古郡さんというひとだって、ピアノを弾きたい気持ちはあると思います。」

浩二は急いで、古郡さんの経歴や現在の様子などを説明した。そして持っているピアノメーカーは、ウェルアンドラングというマイナーなメーカーであること、少しばかり精神疾患を持っているが、意思の疎通は可能であるということも話した。大森さんはわかりましたと言って、笑顔で頷いてくれた。

浩二は、浜松というところに来ることができてよかったと思った。浜松は楽器の町である。素敵な人がいてくれるところである。よかったと思いながら、浩二は店を出た。受け付けの女性は、やっぱりいやだという顔をしているが、大森さんはにこやかな表情をして、浩二が出ていくのを見送った。

その次の日。

浩二が新富士駅へ行くと、大森さんはすでに待っていた。浩二は大森さんと一緒に、タクシーに乗って

、古郡さんのお宅へ行く。

「今日は、桂です。古郡さん、ピアノを直してくれる方が来てくれました。」

浩二は、うきうきしてインターフォンを押すが、古郡さんは出てこなかった。一体どうしたと思って、もう一回インターフォンを押すと、

「ああ、すぐ行きます。」

出てきたのは、古郡さんのお母さんであった。

「おはようございます。ピアノの修理をやってくれる人を見つけてきました。こちらの大森さんという方が、ピアノを直してくださいます。」

浩二がにこやかにそう説明すると、古郡さんのお母さんは大変悲しそうな顔をして、二人の顔を見た。

「実は、英ですけれども、昨日、大暴れして、警察に連れて行ってもらいました。今、病院にいます。お医者さんの話では、しばらく落ち着くのには時間がかかるだろうと言われました。何回も、同じことを、繰り返すんですね、、、。」

お母さんは、静かにそういうことを言った。

「そうですか。英さんが、無茶なことをしないでくれてよかったですよ。生きていてくれるだけでも、救いじゃないですか。」

浩二は、そういうことを言ったが、お母さんは、もう終わりにしてほしい、もうこんな事、繰り返さないでほしい、という表情をした。確かに、そう見えてしまうかもしれない。

「ほんの小さなことでも良いですから、変化してほしいんですけど、あの子はいつまでたっても変わらない。この家だけが、時間はむなしく過ぎていくんですね。どうして、私たちだけ、こんなに不幸なんでしょう。」

と、まあ確かにそれはそうだ。お母さんの言い分もわかる。でも、浩二は、古郡さんは、必ず返ってくるんだということを思い出してしまった。

「すみません。せっかく来ていただいたのに、追い出すような羽目になってしまって。」

そういうお母さんであるが、浩二はお母さんに向かってこう切り出した。

「お母さん、今は病院で直してもらわなければなりませんが、英さんが戻ってきて、又ピアノのレッスンに来てくれるようになるようにしましょう。だって、せっかく、ピアノレッスンで外へ出るきっかけができてくれたんですから。それを継続させることも、大切なんじゃないかなあ。だから、ピアノを直してあげようじゃありませんか。」

そういって浩二は隣にいた大森さんに目配せした。大森さんも、お年寄りらしく、いつくしむような眼で、お母さんを見た。

「ちゃんとピアノを修理いたしますから、心配しないでくださいね。」

にこやかに言う大森さんに、お母さんは何か決断ができたらしい。一つしっかりと頷いて、

「わかりました。お願いします。」

と二人をピアノのある部屋へ案内した。

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楽器の町にて 増田朋美 @masubuchi4996

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