第3話 七日目の終わり
その違和感に気がついたのは恐らく真司だけであった。
翌日、暦の周りにあった影は前日の比ではない程、大きくどす黒いものになっていた。
当の暦はそれには当然気がついていないようで、薄ぼんやりとした顔でペンポーチの中を出し入れしている。
そんな顔さえも影のせいで見えない真司は、モゾモゾと黒い物体が蠢く姿に顔を歪めた。
「ちょっと、君。なんかあったわけ?」
「あ……ううん。ちょっと寝不足なだけだよ」
暦の声に合わせて何か低いうめき声のようなものが聞えてくる。その音は、ただでさえ小さな暦の声をさらに聞き取りづらいものにしている。
「いやそうじゃなくてさ、呪いのことなんだけど。なんか、神社の賽銭盗んだりとかさ。なんか、」
「ごめん。ちょっと、今はそういうのに付き合ってる余裕、ないかも。ごめんね」
言葉の途中で遮られた真司はそれに構わず話を続けるつもりであったが、顔の見えない不気味さに怖気付き、自席に座り直した。
「……分かった。悪かったな」
六限が終わる頃には真司のストレスはピークに達していた。
あの後、何度も暦の異常さを伝えようと声をかけたものの、ゆるりふわりと交わされ続け、真司は昨日の出来事を思い出していた。
恐らく暦は昨日の陰口を気にしているのだろう。それくらいは真司にも予測できたが、ここまであんな軽口を引きずる理由までは、真司には分からなかった。
真司が不満を滲ませながら黒い影を睨み付けていると、六限の終業のチャイムが鳴り、椅子を引く音と共に黒い影が揺れ動いてから、慌てて真司は席を立った。
「ちょっと、君……」
「おい、待ちなさい!」
暦がまとう影に手を伸ばしかけた真司の腕を、物理的に遮ったのはさっきまで教壇で授業をしていた教師だった。
「な、何ですか!?」
「何ですかじゃないだろ! お前、授業中何をこそこそやっていたんだ!」
どうして今日に限って、と真司は苛立ちを覚えた。
「別に何もしてないですよ! 俺、今急いでるんです!」
この不毛なやり取りの間にも、黒い塊がどんどん遠ざかっていく。
「何をそんなに急ぐ必要があるんだ。お前、部活入ってないだろう」
ああ、面倒くさい。この教師が真司のことを目の敵にしているのは知っている。所詮これが憂さ晴らしであることは分かり切っている。
「すいません! 本当、トイレ。漏れそうなんで、さよなら!」
真司は教師にそう強く言い放ち、廊下へと駆け出した。
「おい!」
真司がそのモヤを見つけたのは、本来暦が死ぬはずであった交差点の前だった。
「うわっ!?」
真司が伸ばした腕は、暦の姿が見えないせいで空を切った。
ゆらり、とモヤが揺らいだことから、暦が歩みを止めたことだけは伝わって来る。
「あのさ、悪いこと言わないからここ通るのやめた方がいいよ。歴史は繰り返すって言葉知ってる?」
暦は何も返答しなかった。実際は小さな声で何かを言う前だったのだが、モヤから発せられる雑音によりそれはかき消されていた。
「君さあ! いちいち気にしすぎだろ! 大方、昨日の陰口を気にしてんだろうけどさ、あんなの大したことじゃないだろ!」
しびれを切らした真司は、人目を気にせずにそう声を荒げていた。
真司の声に、周りにいた通行人や帰宅中の学生が軽く視線をよこす。
「や、やめてよ……」
暦の小さくブレた声は、ようやく真司の耳に届いた。
「え? なに? 声小さいんだけど」
信号は点滅し始め、なんとか渡ろうとする数人が二人のそばを駆けていく。
「やめてよ、意味わかんないよ。ただでさえ浮いてたのに、古賀くんのせいでもっと避けられるようになっちゃったし、もうやめてよ……」
「だから、そんなに気にすることでもないだろ。そもそも避けられてるのだって俺のせいじゃ……」
真司はいつもより冷たく突き刺さる周りの視線に、ふと我に返り、黒いモヤを凝視した。
「……え、泣いてる?」
「ごめん。もう、行くね」
「おい!? 赤っ……」
赤信号へと変わったばかりの横断歩道に飛び出した暦に伸ばした腕は、クラクションとゴムの擦り切れる音に遮られた。
死に至る暗影 ユイ @homare_ND
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