喫茶しにざま
米村ひお
第1話
あの世とこの世の境目にある川のほとり。
緑の草原に、レンガづくりの喫茶がポツンと建っています。
つたが絡まる壁にはロートアイアン。
『しにざま』の刻印は、現に未練を残した者を引き寄せてしまうのでした。
喫茶の店主は、見る者によって姿かたちを変えるという。
「さて、今日もゆるっとはじめましょ」
店先に黒板ボードが置かれれば、それが開店の合図。
***
カランコロン、
格子状の木枠に厚いガラスがはめ込まれたドアが開く。
カウンターでグラス磨いていた男とも女ともつかない巨体の店主が、肉に埋もれて見えない首をドアに向けた。
「いらっしゃい」
店主の声は男だったが、その話し方は気だるい女のそれであった。
店に入ってきたのは青年だった。
端正な面立ちが元来の賢さを感じさせる、物静かな男だった。
ドアノブに手を掛けたまま、店内を見渡す。
落ち着いた色で統一された店内は金縁の枠に入れられたモチーフのよくわからない前衛的な油絵がいくつか飾ってあり、コーヒーとトーストの香りが鼻をくすぐった。
クラシックの流れ、観葉植物と籐製の間仕切りが人の目を隠している。ワイン色の別珍が張ってある椅子の四人掛けテーブル席が、青年の右手に一つ、その奥に一つ、正面窓際に一つ見えた。
それから左手奥に五人ほど掛けられるカウンター席があって、パリッとした白いワイシャツと黒いベストを着こなしたロマンスグレーの紳士がカウンターからこちらを見ていた。
「いらっしゃい」
物腰の柔らかい声と笑みに導かれ、青年は一歩踏み出した。
四人掛けの席には客がちらほら座っていた。その誰もが静かに本を読んだり、新聞を広げていたり、コーヒーを片手に思い思いに過ごしている。
カウンターに着席すると、店主はお冷と厚手のお絞りを出して言った。
「いらっしゃい。今日は暑いね」
そう言えば今日は蒸し暑い陽気だったと、店主に言われて思い出した。
右手にある出窓から外を眺めると、夏の日差しを遮るように蔓が這わせてあった。
「ゴーヤですよ。緑のカーテンというものに興味が湧いて初めてみたんですが、ただ植えればいいと思っていたんです。それで放ったらかしにして置いたら去年は散々でして。そしたら、お客さんが教えてくれましてね、摘心をしなくちゃいけないってね。恥ずかしながらそういう作業を知りませんでしたから、その反省を踏まえて今年はしっかり摘心をしているから、上手く出来ていますよ」
窓の外のゴーヤに優しい目を向ける店主に視線を戻した青年は言う。
「失敗は成功のもとですね」
「本当、その通りです」
店主に差し出されたメニューを受け取り、青年は皮製の表紙を開く。
見開きに収まるメニューは、コーヒーから始まって、ブレンド、アメリカン、次にウインナーコーヒー、紅茶、ジュースはミックスとオレンジ、メロンソーダがあった。
軽食はトースト、サンドウィッチ、ピラフ、オムライス、定食は焼肉とハンバーグ、チキンソテー、おまかせがあった。
アイスコーヒーを頼もうとして顔を上げた青年はふと、カウンターの隅に鎮座しているカキ氷機が目にとまった。
「カキ氷をください、レモンミルクで」
欲求のままに注文をすれば、
「かしこまりました」
店主はにこにこと返事をした。
カキ氷機に乗せられた大きな角氷はぐるぐる回りはじめ、回るたびに薄く削られる氷はガラスの器に溜まってゆく。器用に手首を返しながら尖った山型に氷を盛ったあと、黄色く透き通ったシロップをかけると氷は解けて柔らかい山になった。最後に練乳を見せ付けるようにたっぷりかけられたかき氷と、ナプキンの巻かれた柄の長いスプーンがそっと青年の前に置かれた。
「レモンミルク、おまちどおさま」
スプーンを手に、青年は巻かれているナプキンを解く。
「いただきます」
誰にでもなく言い、青年はかき氷の頂点にスプーンを挿した。一番練乳のかかっている部分を口に含んで、目を瞑り、味を噛み締めている。
ゆっくり口で溶かして、こくっと飲み込んだ。
「カキ氷、好きなんですねぇ」
カキ氷を目を瞑って堪能する客は初めてだった店主は、にこやかに言う。すると、次の一口を掬い上げた青年は、こんな事を口にした。
「帰りに食べようって、甥っ子達と約束をしていたんです」
「ほぅ、出かけた帰りに。今日は暑いからカキ氷日和、といったところですね」
「はい。湖で遊んだ帰りに、カキ氷を食べられる店があって、今日こそはそこへ寄ろうと……」
睫毛を伏せて、掬ったカキ氷を口に運んだ。
「寄れなかった、というわけですね」
「甥っ子が助かったのかが、心配で」
「どれくらいの子かね」
「小学校三年生なので、九歳です」
「九歳の男の子か……そうだな、お客さんより前にそれくらいの子供は渡っていませんよ」
「そう……ですか、よかった」
安堵した様子の青年だったが。それでも睫毛を伏せたまま、カキ氷にスプーンを挿しては抜き、挿しては抜きしている。
「臆しているのですか」
その様子を見ていた店主は青年に問いかけた。だが青年は答えなかった。
店主は片づけを終えて、グラス拭きを再開する。
クラッシックが流れ、客が雑誌を交換するために時折席を立つ音しかしない。
どれくらい時が経ったのか、わからない。けれど窓の外はまだ、太陽が空高く上って緑のカーテンを照らして、光が透けて青々とした葉が風に揺れている。
青年の心に浮かぶのは、親友に紹介された女の子だった。
長い黒髪の、健康的な肌色で、目鼻立ちがはっきりしていて、いつも白い歯を見せて笑っている。違う色の靴下を履くのがトレンドだといって、オーバーオールのよく似合う可愛らしい子だった。
ひと目見たときから好意を持った。この子が自分のそばに居てくれたら毎日がどんなに楽しいだろうかと想像した。
けれど、その子は親友と付き合うようになった。そして少し経ったころから、その子は笑わなくなった。
子供が出来ても浮気が絶えず、浮気相手から別れるように迫られたと相談された事もあった。
その時、俺と一緒になろうと喉まで出かかった。
けれど青年は言い出せなかった。
親友も大事、この子も大事……もし、この子が俺の元へ来たいと言ってくれたら、返事もせずに連れ去るのに。
そんな自分を、ただの意気地なしと思わずにいられなかった。
その時、店主の言葉で我に返った。
「今更臆する事なんて、あるのでしょうか」
ガラスに器に色の付いた水が溜まって、それを混ぜていた青年は、手を止めて顔を上げた。
「……あの、追加いいですか」
「はい、何に致しましょう」
「伝えたい事があるんです」
「現世に戻りたい、という事ですか」
店主の笑みに隠された狂気を感じ取り、青年は恐る恐る答える。
「そんな事が出来るとは思っていません、でも噂では、あなたならそれが出来ると……」
「…………噂を流したのは、誰かな」
柔らかい物腰の中に鋭い怒りが混じっている。佇まいは変わらないのに、一瞬で空気を変える店主に恐怖を覚えたが、それでも青年は嘘偽り無く答えた。
「子供の頃に読んだんです、この店と同じ名前の……喫茶しにざまという絵本を」
すると店主は、一瞬にして態度を軟化させた。
「ああ、あの本ですか」
「ご存知でしたか」
「あれは私が書いたんですよ、店を出したばかりの、駆け出しの頃にね、この店を知ってもらいたくて。噂じゃなければいいんですよ、うんうん」
上機嫌でグラスを磨く店主に、青年は胸を撫で下ろした。
「いつもはこんな事しないんですけど、絵本を読んで覚えていてくれたあなたの愛に応えて、特別大サービスをしましょう。いってらっしゃい」
店主の言葉が終わったと同時、青年の目の前は真っ白になり――
気づいた時には、自宅のある市営団地に続く急な下り階段の一番上に立っていた。
足元の影は伸びて、世界は茜色に染まっている。
遠くで蜩が鳴き、じっとり蒸す夕刻の空気に飲み込まれる。
シャツが体に張りつく不快感に、現世の感覚が呼び戻された。
その時、細い路地を一台のスクーターが走ってきた。髪の長い女性が半帽をかぶって運転し、その背中にはおぶり紐で子供がくくられている。
女性は頬を赤くし、目を真っ赤にして急いでいる様子だった。
「アスミちゃん」
青年は一歩踏み出して、女性の名を呼んだ。会いたかった人を目の前にして、気持ちが逸る。
けれど、アスミと呼ばれた女性は青年に気づかない。そのまま真っ直ぐ、青年めがけてスクーターを走らせてくる。
「アスミちゃん!」
青年は声を大にして、大きく手を振った。
その時、アスミの背中に居た幼女が女性に声を掛けた。
「ママ、はるくんだ!」
その言葉にアスミがバイクを止めると、幼女は夕日を指差して言った。けれどその目はすぐそばを見つめている。
幼女の言葉に驚くアスミは言う。
「何言ってるの、これから晴君のお通夜に行くのに」
肩越しに幼女と話したアスミは、勝手に零れた涙をごしごし拭う。すると不意に、眩しいくらいだった夕日が影になり、不思議に思って夕日へ首を向ければ、そこに居たのは紛れも無い、晴―青年―だった。
「……はる、くん」
目を見張るアスミ前に、晴は笑みを向ける。その瞳は、胸のうちに秘めた思いを伝える前のそれに変っていった。
アスミも、そんな晴に瞳を奪われたまま、じっとりした沈黙が横たわる。
「親友の奥さんだから、言えなかったけど」
汗と涙で張り付いて、毛先が口に入ってしまっている長い髪をそっと取ってやる。その時ふと、晴は思い出したように背中に背負われている幼女に目を向けた。熱い思いのせいでアスミしか見えていなかった晴は、幼い瞳と見詰め合うと苦笑いをして。軽く唇を噛んだ。
そして、軽く息を吸って。
「幸せになって」
精一杯の気持ちを伝え、微笑むと。アスミはぼろぼろと涙をこぼして言った。
「ぅん、わかった」
頬に触れようと伸ばされた晴の手が夕闇に消えて、アスミははっとする。スクーターは団地へ下る急な階段に踏み出す手前で、かろうじて止まっていた。
「はるくん、助けてくれたね」
背中の幼女に言われ、アスミは小さく頷いて涙を拭う。
「急いでて近道しようと思ったママがよくなかったね、いつもの道を行こうね」
「うん」
***
カランコロン
サロンのドアが開き、男とも女ともつかない、巨体の店主は言う。
「いらっしゃい」
店主の声は男だった。けれどその話し方は、気だるい女のそれであった。
再び店に戻った青年は、カウンターに座った。
「メロンソーダ下さい」
「かしこまりました」
パリッとした白いシャツと黒いベストを着たロマンスグレーの紳士な店主は、アイスピックで氷を割り、グラスへ入れた。
「叶いましたか」
美しい緑色のシロップをグラスに注ぎながら、店主は問う。
すると青年は、
「……死んでも俺は俺でした」
そう言って軽く自嘲して。
「でも、悔いはありません」
箔押しされたコースターの上に置かれたメロンソーダを見下ろして、
「はぁ、喉からからだ」
ストローの包みを勢いよく破いた。
了
喫茶しにざま 米村ひお @kojiro-001
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