今日も君と

針間有年

今日も君と

 僕の生活のいたるところに彼女はいる。

 人気のないホーム。ビルの屋上。交通量の多い道路。川辺。挙句の果てには公園のブランコまで。

 薄い布のような黒のドレスを纏った美しい女性。

 どうやら彼女は「死」という存在らしい。


 まだ肌寒い五月の朝。目が覚めると、背中が冷たい。

 彼女が僕の背中に張り付いて、頭をすりすりしている。いつの間にベッドに入ってきたんだ。セクハラだろう。

 僕が起きたことに気づくと、彼女は布団を飛び出し、にっこりと笑った。

「おはよう」

「……おはよう」

「今日はお仕事が早く終わる日だね」

「どうして君が僕の予定を把握してるんだ」

「当たり前だよ。私はずっとあなたの傍にいるんだから」

 ストーカーだ。しかも、質が悪いことに僕にしか見えていない。

「さてさて、こんな朝は私がコーヒーを淹れてあげよう」

「自分でいれるよ」

「ふふ。任せなさいな。君を見ているうちに私もコーヒーを淹れることができるようになったんだから」

 ワンルームの小さな台所。心配になってついていくと、彼女はインスタントコーヒーの粉をコップの半分ほど入れていた。味が濃いどころの話じゃない。

「僕がいれる」

「どうして?このままお湯を入れるだけでしょう?」

「分量がおかしい」

 僕はため息をつき、粉を瓶に戻した。


 彼女との奇妙な同居生活が始まってずいぶん経った。

 僕は五年前から病院にかかっている。病名は、うつ病。

 大学時代から続く闘病生活。だが、中々に快方に向かわない。

 それでも、薬と主治医の力を借りて、苦しくも大学は卒業。アルバイト先の店長が僕を雇ってくれた。

 周りの人々に恵まれて、今日も何とか生きている。


「コーヒー、美味しい?」

 彼女は聞いてくる。

「何でそんな得意げなんだ。僕が淹れたのに」

「でも、準備したのは私だよ」

 彼女は無邪気に笑った。


 希死念慮。そんな言葉を聞いたことがあるだろうか。簡単に言ってしまえば「死にたい」という思いだ。

 僕がそれに囚われ始めた時、彼女は現れた。

 はじめは幻覚だと思った。彼女の声は僕にしか聞こえていないようだし、そもそも、見えていない。

 幻覚を見ている自分が怖くて許せなくて、僕は彼女を無視した。だが、彼女は日に日に現実感を帯びてくる。

 ある日、部屋に帰ると彼女はいた。

「おかえり!」

 僕の愛読書を手に彼女は元気よくそう言ったのだ。

 彼女は物に触れることができる。その瞬間、僕は彼女が幻覚ではないことを知った。

 それでも、なお幻覚の可能性は否定できない。彼女のことは、怖くて誰にも話していない。

 

 仕事帰り、僕は買い物袋と傘を手に帰り道をいく。

 雷鳴が轟く。

 公園の高い木の下に彼女が見えた。

 そこには、「死」が存在する。

 僕は惹かれる心を押さえ、家路を急いだ。

 光とともにすさまじい音がした。どこかで雷が落ちた。きっと、あの木に落ちたのだろう。

 彼女は「死」だ。そう、僕は彼女を望んではいけないのだ。


「おかえりー」 

 マンションの八階。部屋の扉を開けると、彼女は嬉しそうに僕を出迎えた。

 どうやら僕の部屋には死が溢れかえっているらしい。よくよく考えたらそうだ。

浴槽だって、包丁だって、飛び降りたら死ねる高さのベランダだってあるのだ。つまり、彼女は僕の部屋に常駐している。

「今日のご飯は何?」

 僕は顔をしかめる。あまり、言いたくない。

「……。野菜炒め」

「ふふ、今日も死骸の塊を食べるんだね」

「その表現、やめろって言ってるだろ」

「だってそうでしょう?肉も、キャベツも、醤油も、みーんな、なにかの死骸なんだから」

 僕は食卓に並んだ料理を見て、げんなりする。

「食事中は黙っとけ」

「やーだ!」

 彼女はしゃべり続ける。そのうえ、野菜炒めに手を出そうとする。

「君、お腹すかないでしょ?」

「すかない」

「だったら、食べるのはやめてくれ。僕の生活費のために」

「ちぇ!興味あるのになぁ」

 彼女はそう言って頬を膨らませた。

 彼女はとてもわがままだ。

 

 風呂に入り、寝支度を整える。

 夜、ベッドに転がる。明日も仕事だ。

 部屋の明かりを消す。その瞬間、闇が覆いかぶさってくるのを感じる。将来に対する不安。人間関係。病気の事。

 こんな夜は、彼女が底なしに魅力的に見える。彼女は妖艶な笑みを浮かべた。そして、その冷たい体で僕を包み込むのだ。

 僕の頭は彼女に支配される。彼女のことしか考えられなくなる。

 彼女は僕を苦痛から解放する存在。彼女の元に行く手順を頭の中で巡らせるのだ。それは、とっても心が躍って、僕は得も知れぬ陶酔感を味わう。

 明日こそ必ず君の元へ行こう。

 毎晩そう思う。だけど、できない。僕は意気地がないんだ。

 やがて薬が効きはじめ、眠りに落ちた。


 店長が申し訳なさそうに僕に告げた。

 解雇。

 僕はふらふらと家に帰った。あまりにも呆然として、その夜は彼女のことすら頭に浮かばなかった。そして、眠れないまま、空が白み始めた。

 朝だ。

 皆、活動する。あるべき場所に行くんだ。学校、職場。僕には行くべき場所がない。

 息が詰まった。彼女が恋しくて恋しくてたまらなくなった。

 彼女の姿が目に入る。いつものように黒いドレスを纏った美しい女性。

「なあ、君は『死』なんだろう」

 彼女は頷く。

「だったら僕を殺してくれ。この無意味な僕を」

「それはできない」

 彼女は冷たく言い放った。

「私はあなたを殺すことは出来ない」

 そうか。なら、僕が僕を殺そう。今なら、できる気がする。

 僕は玄関から脚立を持ち出し、ベランダに出る。午前四時半。朝日がまぶしい。まだ、人の姿は見えない。今飛び降りても死ぬのは僕だけだ。

 両親や友人の姿が頭に浮かんだ。悲しむだろうか。でも、そんなことさえどうでもよかった。

 ただ、何があるか分からない「死後の世界」、そして、死ぬ間際の痛み。それは怖い。少しだけ、しり込みする。

 できれば即死したいな。

 僕は脚立を広げた。

「ねえ、あなたは死んでしまうの?」

 脚立に足をかけた僕に彼女は問う。彼女の冷たい手が、僕の腕に触れた。

「私はあなたが好きよ」

「僕も君のことが好きだ。だから、君の元へ行こう」

「それじゃあ、意味がないの」

 彼女は僕を背中から抱きしめる。

「あなたがこの世から消えてしまう」

「それが僕の最も望むことだよ」

 もう何も考えたくない。消えることができるのなら、僕はもう苦しまない。

「あなたが消えたら、誰が私に恋い焦がれてくれるの?」

「今のご時世、そんな人間いくらでもいるよ」

「あなたじゃなきゃ駄目なの。だって、私はあなたの『死』なんだから」

 僕は悟った。

 「死」は全ての生き物に訪れる。命あるものには必ず「死」が付きまとう。

一つの命に、一つの死。

 僕という命に、彼女という死。それは対になっていて、切っても切り離せない関係。

 彼女が僕の前に姿を現したのも、僕しか見ることができなかったのも納得がいく。つまり、彼女は誰のものでもない。僕だけのものなんだ。

 だとすれば――。

「僕が消えたら君も消えるのかい?」

「いいえ、私は存在し続けるわ。でも、私は憎しみにさらされるでしょうね」

「どうして」

「だって、皆から大切なあなたを奪った化物なんだから」

「いや、違うよ」

 僕は自嘲する。

「君は感謝されるだろう。厄介者を殺した英雄として」

「そうかしら」

「そうだよ」

「でも、私に恋する人はあなたしかいないわ」

 沈んだ声。

 僕は彼女を強引に振り払う。

 もう、生きたくなんかないんだ。

 そして、脚立を上る。最後に彼女を振り返る。

「君との生活は苦しかった。でも、楽しかったよ」

「そう」

 彼女が僕の腕をつかみ、脚立から引きずり下ろした。体勢を崩し、僕は無様にしりもちをつく。

「何するんだ!」

 声を荒げた。そして、息を呑む。

「なら生きてよ」

 彼女の瞳には、涙が浮いている。

「ずっと、私に恋い焦がれて生きて」

 矛盾している。

 「死」に恋をし、生きていくなんて。

 だけど、まだ見ぬ「死後の世界」より、目の前にある君という「死」の方がよっぽど魅力的で――。

 僕は君を抱きしめてしまった。まだ、君とともにいたいと思ってしまった。

 君を意識できるのは僕が生きているからこそ。なんて皮肉な話だ。

 それでも、僕は脚立を片付け、食卓に料理という名の死骸の塊を並べるのだ。


 残念ながら、僕は死ぬことができなかった。

 おかしな話だ。僕を引き留めたのは家族でも友人でもなく、「死」だったのだから。


 今日も朝日が部屋を照らす。

 君は僕の背にくっつき、鼻をすりすりしている。

 また勝手にベッドに入って。だから、それはセクハラだと言っただろう。

「おはよう」

 僕が声をかけると、彼女は満足げに笑った。


 僕は今日も君に恋をしながら生きていく。

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