チェリーを食べきる前に
阿瀬みち
チェリ子
ひとりでカクテルを作って飲んでいる。ひとり。
お酒は一人じゃないほうが楽しいでしょ、と言われたこともあるけど、そうでもないと思う。みんなそんなにひとりに耐えられないんだ? こんなに楽しいのに。あははは、音の出ない乾いた笑いが喉の奥でためらっている。ほんとうに笑うべき箇所なのか。私はひとりのときすらそんなつまらないことを気にしている。
甘いゆるやかなシロップの流れ。鼻から抜けるアルコールの香り。リキュール、ジン、ウイスキー。無糖炭酸やシロップ、ジュースで割る。味が薄くなった分をはちみつやアイスで補う。本当に好きなものを誰にも気兼ねなく、ひとりで味わえる。これ以上の幸福があるだろうか?
私よりもずっと孤独を愛していたはずのゆかりが結婚して、私はすこし動揺していた。あの子だけはなにがあってもずっと一人で生きていくと思っていたのに。だって、何を差し置いてもマイペースな女なのだ。そのゆかりが、結婚。結婚したという事実が私の意識を揺るがし、蜃気楼のようにたちのぼってくる。
残った、と言う言葉がまるで私の価値を傷つけているように感じる。被害妄想的だ。そう言い聞かせて、カクテルグラスに口をつける。透明なものが好きだった。ガラス、アクリル、クオーツ。かき氷シロップに蒸留酒を注ぐ。そこにチェリーを飾り付ければ気分が何となく盛り上がる。うまいカクテルだの、カタカナのややこしい名前だのはどうでもよかった。注文を取るためには気の利いた名前がいるかもしれない。でも私が作り私が飲むための酒ならくだらない名前はいらない。
とかなんとかかっこつけてグラスに口をつけようとした瞬間、
「眉間にしわ。お肌の曲がり角?」
という幻聴がした。
チェリーがよっこいしょ、とグラスの縁に腰掛ける。
「寂しいあなたに会いに来たよ☆」
チェリーがウインクした。星が飛んだ。
「きもっ」
私はチェリーをゴミ箱にシュートしようとする。
「待って、捨てないで! わかった、わかったから」
何がわかったというのだろう? チェリーなのに? 赤く色づけられた不気味なチェリーなのに?
「あなた昔思ってたでしょ? 真っ赤なチェリーをひとりで思う存分食べたいなぁって。夢が叶ってどう? どんな気持ち?」
「まぁ、そうね。おいしいよ。色がピンク過ぎて怖いけど」
「そうかぁ。夢がかなってよかったね」
夢、というのは昔、私がまだ実家で妹や兄とくらしていたころ、小さな缶詰のチェリーを必ず三等分させられていた時期に抱いた儚い幻想の話だ。まさかあの時の少女らしい夢がこんな恐ろしい事態につながったとでも言いたいのだろうか? 兄弟が複数いる家では必ずみんなが抱く夢ではないか。ひとり占めできるケーキや、一人用のプリン。おさがりでもない服や一人だけの靴。
私は缶詰のサクランボとしゃべる妄想におぼれていた。自分でも現状をコントロールすることができない。ちょっとした恐怖を感じるほどだった。
「必要なのは愛だよ、愛」
チェリーはまだ喋っている。うるさいな、と思った。いっそ食べてしまえば静かになるのかもしれない。私はチェリーをつまみ上げようとした。
でも待てよ、食べてしまってもまだ声が聞こえてきたとしたら? 自分の体の中からこの声が聞こえてきたとしたら? それこそ悪夢のようではないだろうか?
まぁ落ち着こう、すべての認識は私の中身から立ち上がっているものだ。現実なんてものはVR仮想空間の中の夢うつつのようなものじゃないか? 幻想や幻覚や幻視もいずれ私の感覚をすべている認知機能が掴んだつかの間の幻なのだ。
「愛。つまり私の潜在意識は結婚とか恋人を望んでいるということ?」
チェリーはちちち、と舌を鳴らした。チェリーのくせに。
「つまりとか簡単な言葉で結論を急ぐのは君の悪い癖だよ」
「そうか」
なんだかわからないけど納得してしまう。それもそうか、という気持ちになってきた。ひとり芝居なのに?
「もっと視野を広く持って」
「視野を、ひろく?」
「愛することを恐れないで!」
だんだんめんどくさいサクランボだな、という意識の方が勝ってきた。私はグラスに口をつけて傾ける。サクランボがグラスの縁から転げ落ちる。とぽん、とアルコールに漬かったのもつかの間、飲み干したグラスの中で私の唇とサクランボが触れる。自分で作っておいてなんだけど、甘くて飲みやすい。
私はグラスを置いて席を立った。キッチンで育てているミントをちぎってきて、分厚い丈夫な大きめのグラスの中でガシガシつぶした。そこにレモンを絞り入れてジンを注ぐ。モヒートもどきだ。
「ちょっと! ちゃんと食べなさいよ!」
チェリーが叫んだ。もうどうでもよかった。私は絞り終えたレモンの皮に口付けて、ミントの香りのするアルコールを飲む。
愛だの恋だの一生言ってろ。鼻に抜けるミントとレモンの苦みが心地よかった。喉や頬が冷えるのと裏腹に、目の下が熱くなってくる。
「ねぇ、私が悪かった、言いすぎたんだと思う。だから、私を食べて」
チェリ子が言った。私は素焼きのアーモンドを袋から直接手のひらに乗せてはほおばっていた。モヒートとアーモンドって最高じゃない? うまい。この世に素焼きのアーモンドよりもおいしいつまみがあるだろうか。子供の頃は鮮やかさに騙されて不気味に輝くサクランボを偏愛していたけれども、結局は渋皮に覆われた武骨な見た目のナッツが一番栄養があっておいしいのだ。アーモンドは突然立ち上がって愛こそすべて、などと語りださないし、中途半端な説教を垂れることもない。私を裏切らない忠実な種子。種子? なんていうのだろう。これは種の核を食べているのだと思うけど。まぁつまり、少し面白みがないやつの方が味があっていいかもしれない、と言うことだ。
育てたミントは競合する敵がいないからか、室内で必要以上の陽光を得られないせいか、いつまでも柔らかく優しい味だった。これで家にレモンの木があれば永遠にうまい酒が飲めるのになぁ。ライムでもいい。
「そう、私みたいな幼稚な生物はもう、あなたの世界には必要ないんだね」
チェリ子はさみしそうにこぼした。実際チェリ子の体からは真っ赤なシロップがあふれ出していた。
チェリ子が泣いている。よみがえる幼き日々の記憶。赤いチェリーとの邂逅。プリンアラモードのてっぺんに鎮座していた誇り高き姿はそこにはなかった。
「数が少ないって、まるで大事なものみたいに錯覚させるでしょ」
泣きながらチェリ子が言う。私は黙ってうなずく。
「ほんとは違うの。私だってわかってた」
ほんとうに愛されるっていうのは、たった一つしかない、って最後まで取っておかれることじゃなくて、いつも手が届くところにあって大事にされることなの。そのアーモンドみたいに。よく噛んで、味わって、飲み込まれること。
チェリ子の独白を聞いているとまるで自分がサスペンスドラマの探偵役になったかのように感じた。めんどくさい。
「おいで、チェリ子」
グラスを傾けると、チェリ子がころころっと唇のそばまで転がってくる。口に含むと、アルコールのにおいがした。歯で挟み込む。中から果汁、いや、チェリ子を煮詰めたシロップが飛び出してくる。ジワリと甘い。体の中から声が響いてくる、というふうなオカルトチックな事態にはならず、ただ静かにいつもの部屋の中で、私は一人たたずんでいた。
ゴミ箱に種を吐き出す。なんの変哲もない黄色い種だった。私は目を閉じる。チェリ子の声を思い出そうとしたけど、今はもうぼやけて何も考えられない。あの子なんて言っていたっけ、愛がどうとか、そして私は結婚について考えていた? どうでもいい。
氷で薄まったモヒートを飲む。ミントの香りがする。レモンやミントまで語りだしたらどうしよう、と思ったけれども何も起こらなかった。ひとりでグラスを洗い、片づけた。よく冷えたミネラルウォーターに口をつけ、その日は眠った。
次の日は日曜日だった。私は六時に目を覚まし、シーツやまくらカバーを洗い、布団を干した。そろそろコインランドリーに持っていきたいけど、ネットに入れるのが面倒だった。部屋を軽く掃除して、冷蔵庫をのぞく。ラップをしてチェリーがしまってある。ドキリとする。
試しに一粒口に入れてみた。何も起こらなかった。
安心してパンを焼いて、ちぎったレタスと串切りのトマト、目玉焼き、グレープフルーツのプレートを作って食べた。それから溜まっていた洗濯をこなし、出来上がるまでの間本を読んで、メールを返したり受信箱を掃除したり、必要な資料を読んだり読まなかったりして、昼になった。
昼に食べるものは決めていた。メロンソーダ。
かき氷シロップさえあれば、毒々しい色のゼリーも、飲み物も、パフェだって、作り放題だった。体に悪そうで、子供の頃に大好きだった食品が好きなだけ再現可能。私は背の高いグラスを用意して、ピカピカに磨いた。底の方にメロン味のシロップ、もちろん無果汁に氷をくわえ、キンキンに冷やしたサイダーを静かに注いぎ、氷の上にそうっとバニラアイスを落として、てっぺんにチェリーを載せれば完成。
そのとき、またあの声がした。
「またそんな子供っぽいもの食べて! ちゃんと食事を摂りなさい」
チェリ子だった。うんざりした。しかも今度はちょっとお母さんみたい。それにしても、まさか、チェリーに栄養を心配されるとはね。
「いいんだよ別に。朝食べたから昼は甘いもので」
私はとっておきのスタイリッシュなストローを取り出し、シロップを軽く混ぜ、メロンソーダを吸い込んだ。
「この味、懐かしい」
美味しかった。乾いた心に染みわたるよう。
「でも今、ちょっとお酒入れてみようかなって思わなかった?」
「思わないよ。布団干してるし」
「えー、寿莉ちゃんぽくないな」
お前が私の何を知っているんだ、と鼻から息が漏れた。
「全部だよ」
チェリ子は臆面もなく言った。
子供の頃の私は人形遊びが苦手だった。相手に何か喋らせるという遊びが得意ではなかった。小さいころに遊ばなかったつけだろうか、それとも小さいころに食べ散らかしたチェリーの怨念が今こうやって表れているんだろうか。
「寿莉ちゃん昔お酒に憧れてたでしょ? 漫画に出てくるような」
「まぁね」
「実際飲める年齢になってみてどう?」
「どうって、別に、普通」
「普通、か」
普通だった。ほんとうに。お酒を飲んで魔法がかかるみたいに恋に落ちることもなかったし、友情にアラザンがトッピングされたようなきらめきを与えてくれるわけでもなかった。そもそも私、あまり酔わない体質みたい。
チェリ子はアイスの上に載せていたんだけど、お尻が冷たい。と言ってサイダーに飛び込んでしまった。一回沈むとストローで吸うごとに張り付いてきて面倒なんだよな。先に食べればよかった。
「それは無理だよ」
チェリ子が言う。
「寿莉ちゃんは好きなものは大事に取っておく派だもんね」
私はストローでチェリ子の肌を突き刺して吸った。このまま食べてやろう、吸い尽くしてやろう、と思ったけど、ストローからは何も上がってこなかった。私が吸えるのは空気だけ。あきらめてぷは、口を離すとチェリ子がグラスの底に転がり落ちた。悠然とメロンソーダを飲む。スプーンでアイスを掬う。ごくごくと飲み干して、最後にグラスに残った氷とチェリ子を交互に見比べる。
「一番上に乗ってるときは可愛かったのに、今見ると不細工って思ったでしょ」
「思ってないよ」
「笑いなさいよ」
チェリ子は言った。被害妄想的なのは私から生まれた妄想だから仕方がないのかもしれない。
「笑わないよ」
私は言った。グラスのトップから零れ落ちたチェリ子を、私は笑えなかった。
メロンソーダのチェリ子を食べ終えて、ごみ箱に吐き捨てる。
まだ部屋の掃除は残っていた。布団をはたいて中に取り入れる。ベッドを整えて窓を拭く。電気の傘を軽くなでて観葉植物の土を霧吹きで湿らせる。誰かと一緒に住むなんて想像もできなかった。小さな小さな私の城。誰かを迎え入れて生活リズムが崩れてしまったり、かき乱されるのを想像しただけで吐き気がした。
そもそも両親の不仲を見て、結婚に夢がなかった。くだらない言い合いに人生の時間を費やすくらいなら、一人でいた方がずっといい。私は空いた時間で植物の世話をし、部屋を整え、絵を描くことができればそれで満足だった。
都心の遊びはどれも「遊ばされている」感じがして苦手だ。選ばされている。遊ばされている。自由なんかどこにもない。息が詰まりそうになる。
買い出しに出かけた。一週間分の総菜を作る。肉も野菜もまとめて使ってしまう。帰りにケーキ屋さんでプリンを買った。今時珍しい、卵が多めの固いカスタードプリン。カラメルが苦くて最高なのだ。
家に帰って調理をする。バットやタッパが料理で埋まっていくごとに、買ってきた食材がなくなっていく。パズルのような快感があった。マリネにしたり南蛮漬けにしたり煮込み料理は冷凍庫にストックして、肉は少し濃いめに味をつけて角煮にしたりする。
気がつくと外は暗く、気温がずいぶん下がっていた。暖房を強める。出来上がったばかりの料理を少しずつ味見して、おなかが膨れてしまった。晩御飯はこれで済ませて、目的のプリンアラモードを作る。
プリンを器に出して、泡立てた状態で売っている冷凍生クリームを絞る。キウイやオレンジを飾り付け、プリンのカラメル色の頭頂部にホイップを絞り、そこにもまた、チェリーを。
チェリーを? 置いてもいいものだろうか。またしゃべりだしたりしたらどうしよう。少しためらったのち、結局私はチェリーを置いた。チェリーのないプリンアラモードなんて、鼻のない雪だるまみたいなものだ。
「結局あなたは私を呼ぶのね」
チェリ子が言った。
「別に呼んだわけではない」
「愛こそすべてよ」
チェリ子が言う。そう。と呟いてプリンを削り取っていく。痩せていくプリンを見るのは忍びない。私の口が大きくてプリンを一飲みできるくらいだったらよかったのに。
「愛って何なの?」
「私が愛、そしてあなたが、あなた自身が、愛」
チェリ子は削られていく足場から転がり落ちるのを防ぐように身をよじった。王座がなくなっていく。ふるふると震えている。箸休めの果物に手を掛けた。酸っぱくて、おいしい。私は本当は甘いものよりは酸っぱいものが好きなのだ。でも酸っぱいものをより酸っぱく感じるために甘いものは存在している。まるで人生みたい。
「さくらんぼの存在意義について真剣に考えたことはある? 私は単に雰囲気だけの存在なのかな。例えばお刺身のパックに入っている造花、みたいな」
チェリ子が言った。
「雰囲気と言うか、赤いものがてっぺんについていると可愛いよね。ペコちゃんのほっぺも赤い。ピカチュウのほっぺも赤い。赤い、血色がよい、鮮度が良い、とかそういうあれでしょ、だから千枚漬けも赤いんでしょ」
「ビートルートみたい。私の色ってビートルートに似てない?」
チェリ子が言った。ビートルートというよりはなんだろう。蛍光の、昔持ってたおもちゃのリップスティックの色に似ているんだよな、チェリ子の色。青みがある赤。
日本のおもちゃ業界はなぜか青みピンクや青みレッドが大好きだ。イエベ秋の私はいつもそれにイライラしていた。似合わないものを持たされるいら立ち。望んでもいないものを押し付けられる苦しみ。
「ピンクが憎いの?」
「そうではなくて。まぁ、そぐわない、というだけのこと」
「でもあなたは私が好きだったでしょ」
「だってチェリーは身につけなくてもいいからね」
「私を愛してほしい」
チェリ子がまっすぐ私を見上げた。私は一旦スプーンを置く。チェリ子を見つめ返した。チェリ子はよく見ると間抜けな顔をしている。目と目の間隔が離れている。
「愛してるよ」
私が言った。
ぽとり、とプリンがグラスの上で倒れた。チェリーが零れ落ちる。恥ずかしそうに身をよじるるチェリ子をそっと指先でつまみ上げた。チェリ子が気まずそうに口元のクリームをぬぐった。
「ずっと大好きだよ」
「嘘、だって……」
「好き」
チェリ子を口に含む。甘くて、酸っぱくて、水っぽい缶詰のチェリー。本物とは似ても似つかない味がする、加工品のチェリー。飲料を含んで味が薄まらない、白いクリームをまとったプリンアラモードのてっぺんのチェリーが、私は何より大好きだった。
お皿の端に種を吐き出して、枝と一緒に寄せる。残ったクリームとプリン、果物を食べ終えて、私は席を立った。容器を洗いながら、チェリ子はいったい私に何を伝えたかったんだろう、と考える。考えたところで意味などないのかもしれない。そもそもチェリ子は、チェリーだ。考えることなど初めからできない。私が見ている幻なのだから。
後片付けを終えて、私は冷蔵庫からサクランボの残りを取り出してイスに座った。チェリーを口に含む。種と枝が積み重なっていく。チェリ子はもう現れなかった。
チェリーに愛を説かれたところで、ね。
真っ赤になった唇はまるで口紅を塗ったみたいで、鏡の前で私は思わず笑った。どうりでお母さんが必要以上に食べさせてくれなかったはずだ。ちょっと毒々しくて、ちょっと間抜けで、ちょっとだけ滑稽だった。今の私、チェリ子に似ている。
チェリーを食べきる前に 阿瀬みち @azemichi
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