第9話 地上の楽園②

 しばらく観察していたが、青年は一向に起きる気配を見せなかった。静かになったニケに不安を覚えたのか、そう、と扉の隙間から萌音が顔を覗かせる。片手にフライパンを携えた萌音は眠りこける青年をみとめると一度ニケを見やり、その後困惑した様子で青年に視線を戻した。


「……寝てるの?」

「うん、ぐっすり」


 ニケは青年の前に屈みこんだ。突拍子のない行動に驚くも、萌音も彼の背の後ろに隠れるようにして様子を窺う。ややあってニケは青年の肩に手を伸ばし、軽く揺さぶってみせた。


「……起きて。そのまま寝ていたら、風邪を引いてしまう」


 まだ雪は降っていないとはいえど冷え込む冬の朝。薄手のジャンパーを羽織っただけの青年の鼻の頭は既に真っ赤になっている。

 いつ頃からここで寝ていたのだろうか。指先を刺すくらい冷たくなった青年の肩を左右に再度揺すれば、彼はようやっと小さく唸りうっすらと目を開けた。


「大丈夫?」


 ニケが青年と目を合わせると、見る間にその目が大きく見開かれる。青年は驚いたのか後ろに下がろうとして、家の壁にしたたかに背を打ち付けた。かなりの痛みを感じているだろうに、彼はそれには全く気が付いていないかのようにきらきらとした目でニケを見つめている。


「さ、佐元ニケだ。え、ほんもの……?」

「うん、本物だよ」


 肯定の意を返すと、青年は飛びつくようにしてニケの手を掴んだ。冷え切った両の手で挟まれた己の左手をきょとんと見つめたニケに、青年は口早に言い募る。


ほり洸希こうき、二十歳です! お、おれを、貴方の弟子にしてください!」




「堀さん、コーンとポタージュどっちがいい?」


 このまま家の前で話していたら、三人揃って風邪を引いてしまう。初対面の、それも家の前で倒れていたような人間を家にあげることに萌音は一瞬躊躇したが、見るからに着の身着のままで飛び出してきたかのような洸希をそのまま見捨てることはできなかった。要は、良心の呵責に耐えかねたのだ。

 ケトルのスイッチを入れ、棚からクノールのスープを取り出しながら萌音は椅子に腰かけブランケットを頭から被せられた洸希に声をかけた。ニケは己のコートを洸希に着せたのち、ファンヒーターを彼の傍まで動かしている。


「お、お気遣いなく……」

「わかった、ポタージュにするね」


 萌音はポタージュ二袋とコーン一袋を箱から取り出した。ニケはコーンスープを好んでいるが、萌音はポタージュのほうが好みだ。なんたってクルトンが入っているから。

 ぱちん、とケトルのスイッチが戻る音がする。マグカップに粉末を入れ、沸騰したてのお湯を注ぐ。スプーンで何度かかき混ぜてから、萌音は洸希の正面にマグカップを置いた。


「火傷しないようにね」

「あ、えと、ありがとう、ございます」


 ファンヒーターを動かしていたニケが戻ってきて、萌音と並んで腰掛けた。テーブルの上に置かれたコーンスープに、彼は口角を上げる。

 洸希は両手でマグカップを持つと、何度か息を吹きかけ口を付けた。ポタージュを一口含んだ彼から「……あったかい」と安心しきった声が零れて、萌音はニケと正面を向いたまま視線を合わせてほんのりと笑う。


「それで、先生の弟子になりたいってどういうこと?」


 萌音が口火を切ると、洸希は両手を膝の上で揃えた。


「言葉の通りです。おれ、絵のこととかは全然わからないんです。でも貴方の絵のおかげで、二年ぶりに家から出られました」


 洸希は、受験に失敗して引き篭もっていたと語った。

 第一志望に落ちた途端自分に見向きもしなくなった両親から離れたくて、一人暮らしができる滑り止めの大学に進学した。

 最初の数ヶ月は頑張っていたけれどどうしてもその空気に馴染めず、掛け持ちしていたバイトにも意味が見いだせなくなって、学校にもバイトにも次第に行かなくなった。

 そうしてしばらく部屋から出ずに過ごしていたら、気が付いたら家から出るのが怖くなっていた。

 このままではいけないと外に出ようとする度に、吐き気が込み上げてきて踵を返してしまう。トイレに駆け込んで蹲りながら、ついさっき食べたばかりのインスタントラーメンを戻した。口の中が、酷く酸っぱかった。何のために生きているかわからなくて、けれど死ぬ勇気も持てなかった。


 洸希は何の色も乗せない声で、淡々と話し続ける。萌音は口を挟むことすらできずにそれを聞いていた。

 それから彼は一転して顔を上げ、明るい声を出した。


「そんな時、SNSで知り合った友人が偶然、佐元さんのこと教えてくれたんです。それから貴方のことを調べて、最初の個展で展示された《クロト》に出会いました」

「くろと……?」


 自身の名字と同じ名前をした絵の題名に、萌音は隣に座るニケの顔を窺った。ニケはそんな萌音に気が付き、「僕が、最初に描いた絵のこと」と薄く微笑む。

 ニケはそのまま、洸希の話を促した。どうやらこれ以上語る気はないらしい。


「《クロト》を見たとき、この絵の人に会いたいって思いました。でも、一晩中検索画面に写った絵画を眺めていて、少し違うことに気がついたんです。……こんな風に人を描ける貴方に会いたい、貴方と話してみたいって、思いました」


 気が付いたら、二年ぶりに家を飛び出していた。はじめて個展の開かれた町は洸希の家からそれほど遠くはなくて、電車を乗り継いでこの町に辿り着いてからは「佐元」の標札を探し回った。


「こうして直接話せるなんて、夢みたいだ……」


 洸希の口から、思わずといった調子で言葉が漏れた。それは長年恋しく思ってきた人にやっと会えたときのような、あえて言葉に表すのなら憧憬や恋情といった色を含んでいるように思えた。

 そういうことか、と腑に落ちた。洸希にとっての《クロト》は、萌音にとっての《アンティーブ》のようなものだったに違いない。

 頭のてっぺんから電流が走ったかのように、その場に縫い付けられるような感覚。思わず手を伸ばしてしまいそうになるような心地。

 軽い酩酊にも似たそれは自身にも覚えのあるもので、萌音は洸希の言葉に強く共感を覚えていた。


 ニケが断るのならば、どうにかして説得してあげたい。萌音がそう思い始めたとき、洸希がおずおずと片手を上げた。


「あ、あの……すみません。警察、呼んで頂いても……?」

「どうして?」

「あの、話していて、あらためて、自分のしていたことがストーカー行為だって、気が付いたので……」


 萌音とニケはその言葉に揃ってぽかんと口を開けて、それから顔を見合わせて笑った。もう既に、二人は洸希のことを悪い人間だとは思えなくなっていたのだ。

 萌音はひとしきり笑ったあと、ねえ、とニケに話しかけた。


「先生の隣の部屋、空いてたよね」

「うん。カンバスがたくさん置いてあるから、片付けは必要だけど」


 目をぱちくりさせる洸希に、「実は、弟子をとるのははじめて」とニケが微笑む。

 沈んでいた洸希の顔が喜色に塗れる様を、ニケは眩しいものを見るような目で見つめていた。




「と、ところであの、そちらのお嬢さんは先生の姪っ子さんですか?」


 ひとしきり話がついてから、洸希が純粋な興味とでもいうようにそう問いかけた。萌音はその言葉に身体を固まらせる。和やかな空気に流されていたが、洸希にとって憧れの画家の横にいる少女の存在は謎でしかなかっただろう。

 心がすっと冷えるのを感じる。自分とニケとの関係が傍目から見れば異質なものに映るということに、改めて気付かされたような気がした。


「どうして、そう思ったの?」

「えっと、娘さんにしては大きいし、妹さんにしては似ていないと思ったので……」


 ニケが首を傾げると、洸希は戸惑いながそう答える。

 確かに年齢的にはそう見えるだろう。実際ニケとは叔父と姪よりはるかに薄い血の繋がりしかないのだが。

 自分とニケとの関係性をあらわすには、どうしたって母の存在に言及する必要が出てくる。初対面の相手に語るにはどうにも口が重いと戸惑い、視線を揺らした萌音の横でニケは柔らかく微笑んだ。

 膝の上、固く結んだ手にニケの大きな手が重なる。萌音を安心させるように、ニケは重ねた手をぎゅっと握った。


「萌音は、僕の家族だよ」


 ね、と笑いかけてきたニケに、何も言えずに頷く。潤みそうな視界を、萌音は唇を噛んで堪えた。

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ニケの肖像 外瀬 薫 @tnsm_croakcroak

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