地上の楽園

第8話 地上の楽園①

 朝晩が冷え込んできた十二月の初旬。寝惚け眼をこすりつつ、萌音は布団から脱出した。時計の針はちょうど、十二と七とを指している。

 自室のカーテンを開けて外を見れば、ここ最近では珍しい晴れ間が覗いていた。曇り空の続いた週の貴重な晴天だ、早々に洗濯物を干さなければと萌音は気を引き締め直す。


 軽い足取りで階段を降りる。ちょうど眼下にいたニケにおはようの声を投げかければ、グレーのスウェットを着た彼は寝癖を手で押さえつつ、眠たそうに眉尻を下げた。


「先生、また絵描いたスウェットで寝たでしょ。お風呂入った後に描くときは着替えてから寝てって昨日も言ったのに」

「ついうっかり」

「……可愛く言っても許さないからね」


 悪びれることのないニケに溜め息をひとつ落とす。

 彼との生活に慣れてきてから気づいたことだが、ニケは存外茶目っ気があり、話していると大人の男性というよりかは小さな子供と会話しているような気分になることが多々ある。


「後で手洗いするからお風呂場に置いておいて。あ、朝ごはんはトーストでいい?」

「うん。この間買った、ミルクジャムを塗りたい」

「賛成!」


 六枚切りの食パンのプラスチックの留め具を外す。中から食パンを二枚取り出し、トースターのつまみをひねった。ジ、という音と次第に赤くなるトースターに満足げにひとつ頷き、萌音は戸棚からミルクジャムを引っ張り出しているニケを一瞥して肩を竦める。

 スイッチを入れたテレビに映るヒーローの変身シーンを背景に、萌音とニケの週末の朝はいつも通りゆるやかにはじまった。



 慣れた調子で卵を二つ割り入れ、塩コショウを少々。卵黄を切るようにかき混ぜ、熱したフライパンに流しいれた。食欲を刺激するじゅわりという音に気分を良くしながら、萌音は菜箸を躍らせる。

 黄金に輝くスクランブルエッグの匂いに気付いたのか、ようやっとミルクジャムを探し当てたニケがカウンター越しにひょこりと頭を覗かせる。


「スクランブルエッグだ」

「目玉焼きと迷ったんだけど、ミルクジャムがあるならこっちかなと思って。ケチャップでいい?」

「うん、勿論」


 冷蔵庫からそそくさとケチャップを取り出したニケは、ミルクジャムとそれとをテーブルの上に並べた。

 萌音はスクランブルエッグを入れる皿を取り出す流れのまま、バターナイフをニケに手渡す。ついでに野菜室から取り出したレタスを数枚千切り、水洗いする。湯気を立てるスクランブルエッグの横に添えたとき、チン、とトースターの小気味いい音が萌音たちを呼んだ。


 深い青の皿にのせられたスクランブルエッグに、ケチャップをかける。黄色と赤のコントラストが目に眩しい。

 次いで伸ばした手の中で、ぱか、と空気の入る音を立てて瓶が開く。顔をのぞかせたつやつやとしたジャムに、思わず目を合わせてにんまりと笑う。

 曇天続きの晴れ間とか、卵が綺麗に割れたこととか、囲んだ食卓の目の前に誰かがいることとか。

 辞書には載っていないけれど、きっと幸せとはこういうことを言うのだろうなと、萌音は漠然とそう思った。


「いただきます、しようか」

「そうだね、冷めちゃう前に」


 ちょうどよい焼き加減のトーストにミルクジャムを伸ばして、萌音とニケは揃って手を合わせた。





 朝食を摂り終えた萌音たちは、ピンチに陥るプリキュアの声をBGMにテーブルを片付けていた。新聞を取ってこなくちゃと席を立ったニケに、そろそろ洗濯機を回そうと萌音も立ち上がる。

 脱衣所のカゴに入れられた衣服をぽいぽいと洗濯機に放り込む最中、そういえばニケのスウェットを手洗いしなくてはならなかったということを思い出す。


「萌音、萌音、ちょっと」


 ぼんやりと考え事をしていれば、己を呼ぶ声が耳に届いた。洗濯機に放り込もうと掴んでいたバスタオルをカゴに戻し脱衣所から半身を覗かせれば、ニケは困惑の色の濃い顔で玄関に繋がる部屋の入口から顔を覗かせている。


「どうしたの先生」

「玄関に……人が、倒れている」


 ニケの言葉に萌音はキッチンに立ち寄って、乾かしていたフライパンを引っ掴んだ。何か起こっても撃退できるようにと構えつつ近づいてみる。

 臨戦態勢の萌音を庇うように半歩前に出たニケによって少しだけ開かれた玄関扉の向こうに、履き潰されたスニーカーが見えた。


「……酔っ払い?」

「そうかもしれない。……萌音は、下がっていて。何かあったら危ないから」


 ニケは一息にそう言って、萌音を押しのけ家の外に出た。


「先生! ちょっと!」


 焦った声をした萌音が玄関扉を内側から叩いている。ニケは「大丈夫」と一言返して、足元にいる人間に視線を向けた。

 スニーカーから伸びる細身のデニムパンツ。淡い栗色のくせ毛が四方八方にはねている。立てた膝に顔を埋めたその人間は、幸せそうにすぴすぴと寝息を立てている。

 軽く屈んでみても、アルコールの匂いは感じない。まるで陽だまりにでもいるかのような表情で寝言まで呟いたその人間に、すわひと悶着あるかと構えていたニケは拍子抜けして、体の緊張を解いた。


「……男の、子」


 足元では家の外壁にもたれかかかるようにして、一人の青年が寝息を立てていた。


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