第7話 虹色のパレット③


 夕食を終え、カレーの皿を水につけた萌音はリビングで宿題に取り掛かっていた。プリントの上ではポップな太字で書かれた「自分史を作ろう!」の文字が躍っている。

 そっと、真正面に座るニケの顔を覗き見た。ブルーライト対策の眼鏡をかけた彼は、真剣な顔つきでキーボードを叩いている。


 こちらに越してきてから、ニケは出会ったころとは異なる表情を見せるようになった。それはカルチャー教室で見せたような子供のような表情だったり、料理の時に見せた空恐ろしさを覚えさせるくらいうつくしい顔であったりと様々だ。

 佐元ニケ。二十代後半。仕事は画家、月に一度カルチャー教室で絵画教室の講師をしている。性格は浮世離れした天然、中学生の時に両親が他界していて母に恩義を感じている。好きな食べ物は、恐らくプリン。

 ニケについて萌音が知っていることはたったこれっぽっちしかない。母が亡くなり、ニケと初めて会ってからもう十ヶ月が経とうとしている。

 萌音はお気に入りのシャープペンシルで、プリントの誕生日の記入欄に十一月十四日、血液型の欄にA型と書き入れる。


「先生の誕生日っていつ?」


 突然の問いに、ニケはきょとんとした表情を浮かべ顔を上げた。パソコンの画面を反射して青く光るレンズ越しに、彼と目が合う。


「誕生日? 九月の六日だよ」

「えっ、もう終わっちゃってるじゃん。なんで言ってくれなかったの」

「ええと。引っ越しの準備とか、慌ただしくしていたから」


 バツが悪そうに視線を逸らすニケに、萌音はわかりやすく憤慨してみせる。ぷう、と頬を膨らませれば、レンズ越しの彼の緊張が緩んだのが感じ取れた。


 ニケは、萌音が自分について関心を持つことをあまり好まない。例えば彼の仕事だったり、絵画についてだったりといった質問には嬉々として答えるけれど、ニケ自身のプライベートな話題──例えば子供の頃の話や萌音の母との思い出──については極端に口数が少なくなる。

「名前の理由」と書かれた四角に、萌音はすらすらと文字を書き入れた。先生の名前の由来はどんなものなのかしらと考えて一瞬、ペンを止める。

 ニケ、という名は彼の年齢を考えるとかなり珍しいものであるように思う。萌音や、つい先日友人となった「荻須るの」の名も所謂キラキラネームの一つだが、現在においてはそこまで意表を突くものではない。しかし、「ニケ」という名は現在でも滅多に見られないものだろう。

 まず第一に、ニケとは本名なのだろうか。画家をしていることを踏まえると、もしかしたらペンネームのようなものである可能性も考えられる。

 ──そこまで考えて、萌音は言葉を飲み込んだ。これもきっと、「踏み込んではいけない話題」だと思ったからだ。


 ニケは萌音に惜しみない愛情を与えてくれる。遠縁の親戚なんていうほとんど他人のような中学生を、萌音の母に世話になったからなんていう陳腐な理由で、だ。

 それをくすぐったく感じているから尚更、萌音はあのいっとううつくしい横顔のような、見たことのないニケの表情が怖かった。自分の手の届かない、理解できないところにニケが行ってしまえばもう二度と、彼は戻ってこないような予感がするのだ。

 萌音が知らないふり、気付かないふりをしていれば、ニケは優しい彼のままでいてくれる。萌音の理解が及ばないような存在ではなく、母を亡くした日に手を伸ばしてくれたあたたかな彼のままでいてくれるのだ。


「萌音は、誕生日に何がほしい?」


 ニケは手すさびにシャープペンシルを分解していた萌音の目を覗き込む。こうして萌音と目を合わせるとき、ニケは本当に、悲しくなるほど優しい顔をする。とろけるような、花がほころぶような、陽だまりのようにあたたかな表情。

 ニケは恐らく、この表情を浮かべるたびに萌音がひどく安心することに気が付いている。


「……授業参観。来てくれるって言ったから、いらない。来てくれるならそれで……えっと、それが、いい」


 萌音だって、自分に都合のいい偶像を彼に押し付けているなんてことは理解していた。

 けれどそれでももう少し、見返りを期待しない優しさに素直に甘えられるようになるまで待っていてほしいと、萌音はまた、口に出さない我が儘を胸の中に閉じ込めた。

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