第6話 虹色のパレット②



 タイムセールを無事に勝ち抜き、萌音たちは並んで帰路についた。ニケの肩にかかるビビットピンクの花柄をしたエコバッグは、美術館の土産物店で買ったお土産の一つである。

 今日の目玉品だった格安の卵を二パックと、チラシにのっていたレタスとしめじ。それから値引きシールのついた豚の細切れ。野菜とカレールーはストックがあったはずというニケの言葉で除外したものの、加えて六枚切りの食パンと牛乳、ケチャップとを放り込んだバッグは今にもはちきれそうだ。


「先生、手伝わなくて大丈夫? 牛乳とケチャップ、私のリュックに入ると思うんだけど」

「萌音は、今日一日、頑張ってきたから。それに、今から出したら、卵が潰れてしまうかも」

「それもそうだけど……」


 ニケ一人に食材を全て持たせている罪悪感に苛まれつつ、頑なに譲ろうとしない彼に萌音は諦めを含んだ声音で返した。

 十八時を過ぎた住宅街。時折吹きつける海風がちくちくと肌を刺して、季節の移り変わりを感じさせる。萌音がニケの元に越してきてから、初めての冬が訪れようとしていた。



 人感知型の玄関のライトが、門を開いた萌音たちに反応して光を強めた。ニケはポケットから鍵を取り出して一足先に中に入る。


「おかえり、萌音」

「ただいま。……先生もおかえり」

「うん。ただいま」


 二人で帰宅するたびに交わされるただいまとおかえりに、少しのこそばゆさを覚える。先にキッチンへ向かったニケの背を見送って、萌音は玄関の鍵を閉めた。


 母と二人で暮らしていたころ、鍵っ子だった萌音は真っ暗な家で一人、母の帰宅を待っていた。人気のないアパートはお化けか何かでもいそうな気がして、萌音は夜遅くに母が帰ってくるまでリビングから離れられなかった。

 この家に越してきてから、ニケは萌音が帰ってくる時間に鍵を開け、リビングにいてくれる。用事があって家にいられないときもあるけれど、その時彼は決まって玄関とリビングの電気をつけたまま出掛けるのだ。

 さりげないニケの気遣いに触れるたび、ほんのりと熱を持ったように心があたたかくなるのを感じる。きっと、それを伝えるべきなのだとは分かっているけれど、言葉にするタイミングを逃してしまって、未だ感謝を伝えられずにいる。

 ニケがあまりに当たり前のようにその優しさを萌音に与えるものだから、喜びより戸惑いが勝ってしまうのだ、と毎度のように心の内で言い訳を連ねている。



 制服から着替え、玉ねぎを切り始めていたニケの横で手早く手を洗い直した。基本的に炊事は萌音の担当だが、カレーの日だけ、彼はどうしてか手伝いたがる。

 元々、萌音は帰宅の遅い母に代わってほとんどの家事を担っていたのだ。別段、料理に苦手意識もないため、正直なところカレー作りに手伝いは必要ない。

 しかし、嬉々として腕まくりをするニケと並んで料理をすることに、嬉しさを覚えていることも事実だった。だから萌音は半ば押し切られるようにして、カレーの日だけは彼と並んでキッチンに立っている。


 ニケと色違いで買ったオレンジのエプロンの紐を結び、萌音は人参の皮をピーラーで剥いてゆく。トントンと、隣から規則的に響く包丁の音はまるでBGMのようだ。萌音の手には大きな包丁も、骨張ったニケの手に渡ると途端におもちゃのような小ささに思えてくる。「硫化アリルめ……」とうめき声をあげるニケにくすりと笑いをこぼしながら、萌音は人参を乱切りにする。


「そういえば今日、授業参観のお知らせもらったんだった。先生、十五日って空いてる?」


 クッキングヒーターのスイッチを入れ、油をひく。換気扇のスイッチを入れながら何気ない口調でそう切り出せば、玉ねぎと格闘していたニケは涙で潤んだ目を何度か瞬かせた。


「授業参観?」

「うん。うちのクラス、家庭科なんだよね」


 ニケがくし切りにした玉ねぎを横からまな板ごと奪い取り、温まったフライパンに流し込む。じゅわりと音を立てた玉ねぎを焦がさないようにヘラを動かしてゆく。


「料理をするの? 萌音は、料理が得意だから、あっという間に出来上がってしまいそう」

「……んん。子どもの頃の話とかするんだ。名前の由来を話したり、ちっちゃい頃の写真を使って発表したり」


 予想外のところで褒められて、萌音は変な声で唸った。喜んでしまったことがばれないように、常と変わらないトーンで話すことを心がける。

 幸い気付かれていないようで、「懐かしいな」と呟いたニケにこれ幸いとばかりに食いついて話題の転換を図る。


「先生もやったの?」

「うん。名前と、昔の写真。ちょうど、萌音と同じくらいのときだったかな」

「……おうちの人、来てくれた?」


 企画展からの帰り道、萌音が感情を吐露したあの日。中学生の時、両親が亡くなったとニケは話していた。

 踏み込んでも大丈夫な話題か確かめるように、萌音は恐る恐る彼の様子を窺う。ニケは泥を落としたジャガイモの皮を丁寧に剥いている。


「来てくれたよ」


 萌音はその答えに安心し、「そっか」と返そうとして彼の表情を覗き込み、息を止めた。

「来てくれたよ」と告げたニケの横顔は、あまりにも幸せそうだった。まるでこれ以上のさいわいはないとでも言うような、うつくしい笑みだった。

 けれど萌音にはどうしてかそれが、触れれば壊れてしまいそうなほど繊細なものに見えたのだ。


 ニケはこうして時折、萌音にはわからないような表情を浮かべることがある。それは決まって彫像のようにうつくしく、まるで美術品を目の前にしたような心地さえ感じさせた。

 しかしそんな表情を見る、そのたびに、ニケが遠くへ行ってしまうような気がして萌音はほんの少しの恐ろしさを覚えるのだ。


「だから、萌音の発表、楽しみにしているね」


 ──続けられたニケの言葉で、萌音は一瞬で我に返った。


 小学校や前の中学の授業参観には、まだ互いをよく知らなかったこともあってニケが来たことはなかった。

 言外に行くという意思を滲ませた彼に、平静を装って背を向けて冷蔵庫の扉を開く。買ったばかりの豚の細切れの乗ったトレイを取り出し、値引きシールの貼られたビニールを破いた。軽く身をほぐしながら、飴色に炒めた玉ねぎの入ったフライパンに投入する。

 肉の焼ける音だけがキッチンに響く。萌音はそろりと、切り分けられたニンジンとジャガイモに手を伸ばした。傾けたまな板から音を立てて鍋に転がりこんだ根菜を大きくかき混ぜる。

 時々見える豚肉にまだ赤みが残っていたことに気付いたけれど、どうせ煮込むわけだしいいだろうと見なかったふりをした。


 しばらくの間があって、堪え切れず「来てくれるの?」と問いかけた萌音に、ニケは「勿論」と、当然のことのように破顔した。

 その顔はつい先ほどの壊れそうな笑みとは異なっていて、萌音は胸を撫でおろした。



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