虹色のパレット

第5話 虹色のパレット①


 長袖の制服が暑くなく感じられる気温になった十一月。

 日直の仕事を終え、銀杏の匂いに辟易しながら萌音は速足で歩いていた。道中、学校の近くの公民館に立ち寄り、備え付けのスリッパに履き替える。

 自分の作品制作の傍ら、カルチャー教室の講師をしているニケは月に一度、ここで絵を教えている。以前謝礼はいくらくらい貰えるのかと聞いたことがあるが、「僕がやりたくてやっているだけ」とはぐらかされて教えてもらえなかった。正直なところ、絵を売っているところも見たことがないため、彼がどうやって収入を得ているのか甚だ疑問である。


 ともあれ、萌音がこうして公民館に立ち寄ったのはニケを回収するためだった。今朝がた確認したスーパーのチラシに、おひとりさま一つまでの卵が破格の値段で載っていたのである。萌音の下校時刻の少し前に教室が終わると話していたニケは恐らく片付けの最中だろう。

 企画展から帰ってきてから買ってもらったBABY-Gに視線を向ける。少し手を貸してからでもタイムセールには十分に間に合う時間だ。



 スリッパをぺたぺたと鳴らしながら薄暗い廊下を歩き、建付けの悪い扉の隙間から光の覗く奥の部屋を覗き込む。キィ、と音を立てて扉を開くと、油絵具の匂いが鼻を突いた。


「あ、萌音」


 おかえり、とニケが目を細めた。中腰になりながらカンバスを片付けている彼にただいまを返して、萌音はリュックサックを部屋の端の机に降ろす。


「片付け、私も手伝う」

「本当? 助かる。ええと、じゃあそこのプリントを、まとめてもらってもいいかな」


 ニケが指さした先、講師が使用する少し大きめの机には何枚かのカラーコピーされた絵画が重ねて置かれている。ニケのアトリエに入り浸るようになり、少しは絵画の知識も増えたと自負している。どんな絵画かしら、とプリントの向きを揃えながら確認すれば、誰しもどこかで見たことのあるような有名どころの絵画ばかりだった。

 ダ・ヴィンチの《モナ・リザ》、ドラクロワの《民衆を導く自由の女神》、ボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》。作品名だけでなく画家の名前まで思い浮かべられたことに成長を感じ、萌音は嬉しくなって次のプリントを捲る。

 そこには、三人の裸婦と、その前に跪いて手を差し出す白衣の人間が描かれていた。


「……萌音?」


 カンバスを片付け終わったのだろう、荷物をまとめ始めたニケが後ろから萌音の手元を覗いた。見たことのない絵画を前に首を捻る萌音に、ニケは目をぱちくりさせると、悪戯を思いついた子供のように人差し指を立てた。


「突然ですが、ここでクイズです」


 萌音の手元から一番上に重ねていたプリントを引き抜いたニケは、ほんの少し喜色を浮かべ、いくらか饒舌に話し始める。


 ニケが出題しようとしているクイズは「図像学」を基にしているらしい。図像学、あるいはイコノグラフィーとは、美術作品の表現やその由来について研究する学問のことだ。

 例えば「四足歩行でニャーと鳴く動物」と言われてほとんどの人が猫を思い浮かべるように、絵画にも「これを持っていたらこの人」「このポーズをしていたらあの人」というような約束事がある。それを使って絵のモチーフを当てるのが、このクイズというわけだ。一介のカルチャー教室で扱うような内容ではないらしいが、「目を養うのも大切だから」という彼の持論により、この教室でも時たまに出題しているのだという。

 最も、きらきらとした瞳を見るに恐らくはニケの趣味の一つといっても過言ではないだろう。職権乱用とはこのことである。


「それじゃあ、萌音。この黄色い球は、何だと思う?」


 ニケに促され、萌音は紙に目を戻した。ニケが示したのは、中央の白衣の人間から裸婦の一人へと差し出された黄色い球のことだ。それを手渡されて微笑む中央の女性とは対照的に、両脇の女性は不満げに見える。


「たぶん、林檎?」


 少し前、ニケのアトリエで勝手に見た絵画の解説本に、同じように黄金の球が中央に描かれている作品が載っていた。赤と青の服を着た二人の人間が走っている絵で、赤いほうがおかしな体勢で球を拾っていたのが妙に印象的だったため記憶に残っている。解説を読んでから驚いたのだが、この黄金の球はどうやら林檎を表しているらしい。およそ林檎と連想させるような描き込みはないのにも関わらず、だ。


 萌音が「林檎」と聞いてまず初めに思い浮かべるのは、アダムとイヴの「失楽園」だ。そこに黄金が加われば、竜が黄金の林檎のなる木を守る「へスぺリデスの園」を想起するだろう。

 ニケから時たまに教えてもらえる知識や、彼の所蔵資料のお陰で絵画のアトリビュートには詳しくなったという自負があるが、この二つが不正解ならば残念ながらこの絵画が何をあらわしているのか、萌音にはまるでわからない。


「先生、ヒントが欲しい」


 プリントを持つニケに右手を上げて進言する。現状の知識だけで解くにはあまりに難しい。そも、この女性たちや白衣の人間が何者であるのかすら、てんで想像がつかないのである。

 助言を求めた萌音に、ニケはううん、とひとつ首を捻った。そうして彼はその指先で、女性の一人を指差す。


「彼女はヴィーナス。ええと、アフロディーテのほうが、わかりやすいかな」


 茶目っ気たっぷりにウインクした彼の言葉で、ミロのヴィーナスにまつわる話が思い浮かんだ。

 ルーブル美術館に展示されている《ミロのヴィーナス》は、その両腕が失われている。しかし、この像が発見されたとき、林檎を持った左手と右の前腕がともに発見されているのだ。この腕がもし、《ミロのヴィーナス》のものであるとしたら、林檎を持つヴィーナスは――


「パリスの審判……!」


 昔、最も美しい女神に相応しいとされた黄金の林檎を巡り、ヘラ、アテナ、アフロディーテの三人が争っていた。ゼウスから公正な判断を任せられた、人類で最も美しい男であるトロイアのパリスは、林檎を得ようとわいろを贈ってくる三人の女神の中から「この世で最も美しい女」であるスパルタ王妃ヘレネを妻に与える約束をしたアフロディーテを選ぶのである。これによりトロイアとスパルタの間にはトロイア戦争が勃発することになるのだ。

 テレビでウイルスソフトの一種である「トロイの木馬」について取り上げられていた時、ニケがこの話をしていたことを覚えている。この家に越してくるより前、母と暮らしていたアパートで夕食を食べているときの、何気ない話題の一つだった。

 とつとつとしたニケの語り口が耳に心地よく、まだ素直に目を合わせられはしなかったものの、彼の言葉を聞き洩らさないようにと気を付けていたのだ。


「ぴんぽん、大正解」


 ニケがいきなり拍手をした。

 急に現実に引き戻され驚いて肩を竦ませるが、スキップでもし始めそうなほど上機嫌なニケの様子に、萌音は力を抜いて頬を緩ませた。

 難問から一転、見事正解を言い当てた萌音に、ニケが両手をあげてハイタッチを求める。一気に騒々しくなったカルチャー教室の一角で、興奮したニケにつられて萌音も思わず笑みをこぼす。


 それからしばらく珍しく饒舌に語るニケの言葉に耳を傾けてから、萌音たちはタイムセールへと赴いたのだった。



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