第4話 睡蓮の少女④
週が明けた。連休明けの少し憂鬱な空気の中、萌音は文化祭の打ち上げの話で盛り上がるクラスメイトの間を抜けて、窓際の後ろから二番目の自分の席へと一直線で向かう。不参加を選んだのは自分だが、きゃらきゃらと笑うクラスメイトに疎外感を感じるのもまた事実だった。
「お、おはよ、黒戸サン」
斜め後ろの席のクラスメイト、荻須るのが小声で萌音におはようを告げた。萌黄色のブックカバーを被せた文庫本の両端を掴んだままの彼女から、授業以外で声をかけられるのは初めてだ。
「おはよう、荻須さん」
笑顔で挨拶を返す。金曜日、打ち上げの欠席のために連絡をしたのは彼女だ。参加できなかったことに対する謝罪を再度伝えれば、「日程、合わせられなくてごめんね」と逆に謝られる。
気弱な性格なのか、なかなか合わない視線は萌音の手元のあたりでせわしなく動いている。転校してきて間もないが、積極的に打ち上げの幹事をやるようなタイプにはどうしても見えない。恐らく体よく誰かに押し付けられ、それを断り切れなかったのだろう。
通学鞄から教科書や筆記用具を取り出していると、手元の文庫本に目を戻していたはずのるのが突然、「あ!」と声をあげた。ビクリと体を震わせ恐る恐る振り返れば、なぜか彼女は萌音の手元を凝視している。
「モネ!?」
いきなりの名前呼びに心臓がうるさく跳ねる。
るのが「あの、き、企画展の、」とどもりながら萌音の手にしていた《アンティーブ》のファイルを指差したことで、彼女の言う「モネ」が自分の名前ではなく「クロード・モネ」のものであることに気が付いた。
「い、行ったの?」
「うん。週末に家族と」
「あ、えと、言ってたやつ、かぁ。……黒戸サンは、絵が好きな、の?」
「えっと、全然知らなかったんだけど、家族が絵を描いてるから一緒に行ったんだ。初めてちゃんとした絵画を見たんだけど、クロード・モネの《アンティーブ》に感動したの。ずっと絵の前を離れられなかったから、先生にも驚かれちゃて、」
饒舌に語り始めていた自分に気が付き、萌音は慌てて口をつぐむ。
気持ち悪いと思われたかもしれないと、萌音は自分の失態に歯噛みした。今の自分はとても「オタクっぽかった」。転校先に馴染むまで、ラインの返信一つ、普段の挨拶一つに至るまで目立たないでいようと徹底していた自分にとっては大失態である。
そうっと彼女の様子を窺うと、意外なことにるのは目をキラキラさせて前のめりになりながら萌音の話を聞いている。
「あ、あんね、ウチ絵ぇ習っててな。ちょうどその企画展行きたいわーって話してたとこやったからめちゃめちゃ羨ましいわぁ。せや、マネのバーのやつ、実際見てみてどうやったん? 写真では見たことあるんやけど、やっぱし直接見るのとは違うーゆうか、」
るのは一呼吸で、これだけの言葉を発して見せた。パチパチと瞬きをして呆然としていれば、彼女はバツが悪そうに頭を掻く。
「あかん、興奮しすぎて自分が何ゆうてるかわからんくなってきた。あんな、ウチ、好きなことになると止まんなくなるとこ、悪い癖やってよく言われるんよ。……アー、えと。黒戸サンと仲良、くなりたい、と思ってたから。……おんなじものが好きだったことが、嬉しくて、」
「仲良く。……私と?」
「う、うん。だから幹事も、立候補して」
「立候補」
「……黒戸サンのラインが、知りたかったから」
自分で言っていて恥ずかしくなったのか、真っ赤になった顔を文庫本で隠したるのが、細い声で「……もう堪忍したってぇ」と蚊の鳴くような声を出す。
彼女につられるように赤くなった頬を一度つねり、痛みに顔を
「じゅ、じゅぎょ、始まるから。……前、向いとらんと」
顔を伏せたまま教卓を指差したるのの言葉を受けて、体の向きを戻す。机の上にはニケが買ってくれた《アンティーブ》のクリアファイル。教室に入ってきた教師に気が付かないほど萌音はまじまじとそれを見つめ、知らず唇の端を緩めた。
帰ったらまずはありがとうって言わなくちゃ。
先生のお陰で、新しい学校で初めての友達ができそうだよ、って。
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