第3話 睡蓮の少女③


 企画展を出てそのまま階段を降りる。開館と同時に中に入ったのにいつの間にかもう十二時を過ぎていて、それを自覚した途端空腹を訴え始めた現金なお腹に眉をひそめた。ぐう、と自己主張した萌音のお腹の音はどうやらニケにも聞こえていたようで、折角だからという彼の提案で隣接する公園のキッチンカーで昼食をとることに決めた。


 日が高くなり少し暖かくなった公園を歩けば、小型のキッチンカーがいくつか並んでいるのが見えた。一瞥しただけでもピザやカレーといった食品から、タピオカなどの飲み物専用のキッチンカーもあることが分かって、地元ではなかなか見ることの出来ない光景に萌音は少し浮足立つ。萌音の想像する出店は夏祭りの屋台のようなものであり、キッチンカーというのがこんなにお洒落で生活に溶け込んでいるとは思わなかったのである。

 お昼時のためかどのキッチンカーもそれなりの人だかりができている。昼食にありつける時間はそれほど変わらないだろうからと一通り見て回ることにした。

 石窯が内蔵されたものや奇抜な色合いのものが物珍しく視線を巡らせいると、こじんまりとした可愛らしいキッチンカーの看板に書かれた「フィッシュアンドチップス」の文字に目が留まる。


「先生、フィッシュアンドチップスって何?」

「白身魚のフライとポテト。イギリスのファストフードで……ええと、食べてみる?」


 幸い前のお客さんが離れたばかりだったようで、背伸びしながらキッチンカーのおじさんにフィッシュアンドチップスとレモネードを二つずつ注文する。ニケと雑談しながら出来上がりを待っていると、思ったよりも早くビニール袋に入ったそれを受け取ることが出来た。


「……思ったより量多くない?」

「でも、お腹は空いているし食べきれると思う」

「じゃあ食べきれなかったら先生にあげる」


 ごちゃごちゃと言い合いながら近くのベンチを陣取って、膝の上でパックを開く。からりと揚がったフライとポテト。バーベキューソースのいい匂いが鼻腔をくすぐる。

 袋の底のほうからプラスチックのフォークを取り出してポテトを口に含む。ほろりと口の中でほどけたそれに思わず「美味しい」と口に出そうとして、隣に座るニケが律儀に両手を合わせて「いただきます」をしているのに気が付きそれに倣った。

 続けて小さめなフライを選んで口に運んだ。屋台のものだから脂っこいのかと思っていたが、思いのほかあっさりとしていて後味も鬱陶しくない。

 外で食べるご飯ってこんなにおいしいものだったかしらと思いながら横を見れば、ニケはパックと垂直にフォークを構え、三つ一気に刺したポテトを咀嚼している。


「すごくホクホクする」

「このフライって鱈だっけ。うちでも作れる?」

「……買って帰る? 魚、どこで売っているかな」

「腐る、腐るから! 帰ってからスーパー行こう、ね?」


 フィッシュアンドチップスの入った紙パックを膝に置いたまま近場の卸売市場を調べ始めたニケからスマホを奪う。このまま放っておいたら本当に魚を買いに行きかねない。


 ゆっくり食べていたためか膨れたお腹に残りのポテトを無理矢理突っ込み、なんとかフィッシュアンドチップスを食べ終えた萌音とニケはその足で動物園に向かった。

 入り口付近で生まれたばかりの子どものパンダに目を輝かせたり、テレビでやっていた建設途中の新しいパンダ舎の横をしげしげと観察しつつ通り過ぎたりするうちに、あっという間に夕暮れが近づいてくる。

 たくさんの動物の中でニケが一番興味を持っていたのは滅多に動かないと言われるハシビロコウという大きな灰色の鳥だ。死角になる位置に構え、ハシビロコウが首を動かす度に「動いた」と報告してくるのが面白くて仕方がなかった。「トトロじゃないんだから報告されなくたって私にもわかるよ」と言えば、彼は恥ずかしそうにそっぽを向いた。





 日帰り旅行を終え夕方の新幹線で地元へと戻ってきた萌音たちは、駅前でバスに乗り換え自宅最寄りのバス停で降車した。すっかり陽が落ちた大通りから家のある路地へと歩く。


 近くに海があるせいか微かに潮の匂いが混ざる風が頬を撫でてゆく。街灯に照らされたニケの横顔は光で凹凸が目立つせいか、いつもより石膏像めいていて表情が読み取れない。

 一定のテンポで歩く萌音たちの足音だけが、細長く続く路地に響いている。


「先生はさ」


 かつん、かつんとわざとかかとの音を鳴らしながら、萌音はニケの少し先を歩いた。楽しかった一日に水を差すような、今聞かなくたっていいことだということはわかっていたけれど、転がりだした言葉を止めようとは思わなかった。



「なんでさ、私のこと、引き取ったの?」



 足音が、一つ消えた。右手に持った美術館のお土産のビニール袋がこすれる音が聞こえる。


「聞こえてたんだ。ママのお葬式の時、親戚の人たちがママのこと悪く言ってたの。私にパパがいないのは、ママがパパの不倫相手だったからなんだって」


 母が「パパは遠いところにいる」と言っていたから、萌音は幼稚園の頃からずっと、父は自分が小さいときに死んでしまったのだと思っていた。けれど、働きすぎて倒れた母が亡くなって、初めて会うような親戚たちが押しなべて母を罵るのを聞いてはじめて、萌音はそれが思い違いだったことを知ったのである。

 親戚たちが、悪いことをしたのだから母が死んでしまったのは当然だと言い連ね、そんな母から生まれた萌音を「かわいそうな子」だと哀れみながらも蔑んだ目を向けていることに気が付かないほど、萌音は馬鹿ではいられなかった。


「最初は保険金目当てとか、ロリコンかもとか、色々考えてた。でも先生、毎日アパートにご飯持ってきて、おやすみ、きちんと戸締りするんだよってだけしか、言わないし」


 母が亡くなった後、ひとり遺された萌音を好んで引き取ろうとする親戚は一人もいなかった。ニケだけが、萌音に声をかけてくれた。

 初対面の親戚の男に不信感を募らせる萌音にニケは毎晩、母と暮らしていたアパートまでタッパーに入ったあたたかいご飯を持ってきた。食べなくてもいいから。おやすみなさい。戸締りだけはきちんとしてね。ニケは決まってその言葉を繰り返していた。

 こうしてニケの家で暮らすようになって気付いたが、この家から萌音の住んでいたアパートまでは車で片道三時間と一寸ちょっとかかる。簡単に移動できるような距離ではない。

 ニケに絆された萌音が「一人でご飯を食べるのは寂しいから」なんて言い訳をして彼を家にあげるようになるまでの一ヶ月半、彼はどうやって毎日出来立てのご飯を持ってきていたのだろう。


 それからも、萌音が家を離れたくないことを察して、母の葬儀から半年以上、ニケは小学校から帰ってくる萌音を出迎えて一緒に夕飯を食べるためだけにアパートに通っていた。決まりごとのように、おやすみの挨拶と戸締りの注意を繰り返して、手を振って。

 この家で彼と共に暮らすようになってからも、どこまでなら甘えても許されるのか気になって「中学までは持ちあがりの学校に行きたい」と言えば、ニケは少しも迷うことなく毎日のように学校まで送り迎えしてくれていた。結局、罪悪感に耐え切れなくなってこうして転校を選んだわけだけれど。


「……僕は、何か萌音に嫌なことをしてしまったかな」


 迷子の子供のような声色でニケが呟く。違うの、と反射的に叫んだ。


 そうじゃない、そうじゃないんだよ、先生。


「なんで、こんなに優しくしてくれるの?」


 声が掠れる。

 少しの間があって、柔らかい足音が萌音を追い抜いたのが分かった。


「深雪さん──萌音のお母さんが僕にしてくれたことを、しているだけ」

「……ママ?」

「うん」


 電灯の下、スポットライトに照らされたようなニケがとつとつと続ける。


「中学生の時に両親が亡くなったんだ。僕はおかしな容姿をしているから、親戚のなかでも浮いていて。深雪さん、忙しいのに、いつも晩御飯を作りに来てくれた」


 玄関で揃えたパンプスと、スーツにエプロンを締めた後ろ姿を覚えている。

 ニケが足を止めた。一つに結わえた真っ白い髪が、夜闇にぼんやりと浮かび上がっているように見えた。


「もういいよって、何も返せないよって言っても、深雪さんは笑うだけだった。……萌音と自分が重なって、他人事だとは思えなかった。きっと、深雪さんならこうするって思った」


 だから僕は僕のために萌音に優しくしているんだよと、ニケは困ったように頬を掻く。


 ニケは自分のためだなんて言うけれど、萌音にはそうは思えなかった。

 だって自分は確かに二度、先生に救われたのだ。一度目は彼が自分に手を差し伸べてくれた時。二度目は今、この瞬間。

 彼は、母が萌音の大好きな「ママ」だと証明してくれた。親戚皆が母のことを悪く言うけれど、少なくとも自分とニケの目に映る母は、萌音の知っている大好きな「ママ」の姿だということを教えてくれた。視界が潤む。いつの間にかこちらに歩み寄っていた彼の姿が揺らぐ。


「泣いてない。泣いて、ないから」

「うん」

「ほんとに泣いてないから、嘘じゃないよ」

「うん、わかってる」


 目頭をパーカーの袖で乱暴に拭って、言い訳のように繰り返した。

 帰ろうか、とニケが言った。鼻を啜って、うん、と返す。


 この時、萌音は初めてニケの手を握った。萌音の手なんてすっぽりと包み込んでしまうくらい大きな手のひらは、柔らかく微笑む彼とは反対に少し無機質な感じがした。






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