第2話 睡蓮の少女②
明くる日。朝九時の開館前に萌音とニケは美術館へ辿り着いた。地下にある入り口へ続くエスカレーターの前には大行列ができており、カップルや老夫婦など少し見渡しただけでもたくさんの人がこの「印象派」の企画展に関心を持っていることが窺える。
耳を澄ましてみるに、どうやら後ろの夫婦は大阪から来たらしい。職業柄、ニケがこういった展示に興味があるのはわかるが、ここに集まっている客たちも皆、絵を描いているのだろうか。もしかしたら、印象派どころか絵画のことすらまるで知らずに着いてきたのは自分くらいかもしれない。
残暑の厳しかった平日とは違って今日は珍しく少し肌寒い。パーカーの袖を少しだけ伸ばして、萌音はリュックサックを背負いなおした。
「先生の分のチケットはもう買ってるんだよね?」
「うん。発売日に、コンビニで発券したんだ」
すごく便利、とニケは嬉しそうにチケットを眺めている。
「それにしても、そんなに前から計画してたならもっとはやく言ってくれればよかったのに。私に断られるかも、って思わなかったの?」
萌音は中学生のため無料で入館できるが、ニケはそうはいかないだろう。これは憶測にすぎないが、彼は恐らく萌音が行かないと言っていたらチケットを用意していることも隠してしまっていたに違いない。
「……でも、萌音は一緒に来てくれているでしょう?」
ニケの言葉にうぐ、と唸る。現にこうして着いてきてしまっている手前、反論のしようがない。
そうこうしているうちに開館の時間になったようで、行列が少しずつ進んでゆく。赤茶色の美術館、ガラス張りの窓には今回の企画展の大きなポスターが飾られている。
矢印の表示と人の流れに従って階段をのぼれば、奥まったところに展示の入り口らしき場所が見えた。
「私は学生証見せればいいんだっけ」
「うん。左のほうが空いているから、そっちに行こうか」
萌音は緊張しながらスタッフに学生証を見せ、チケットを受け取る。黒いドレスを着た女の人が描かれている綺麗なチケットだ。校外学習で博物館や美術館を訪れることはあったが今日のように何らかの目的をもって訪れるのは初めてで、周りの年齢層が自分より高いのもあって少しだけ大人になったような心地がする。
半券をリュックサックにしまって入り口に足を踏み入れれば、思っていたより展示室は暗く感じられた。淡い色をした壁には両手を広げた間隔で絵画が並べられていて、ひとつひとつの絵がライトで仄明るく照らされている。ゆっくりと動きながらたくさんの人がそれぞれの絵を鑑賞している。
ニケによれば、この企画展は海外にある美術館の改修工事中に収蔵品を日本で展示しているものらしい。主な展示品は六十点ほどで規模としてはそこまで大きなものではないものの、国内では滅多に見られない作品が揃っているという。好きなものの話をするときの彼はいくらか饒舌だった。
ニケに続いて、あたりを見渡すように足を進めてゆく。入り口から四枚目に並べられた風景画に、萌音の目は釘付けになった。
匂いがしたのだ。潮の香りと、すこしだけ甘やかな空気の匂い。
思わず手を伸ばしかけて、絵の前の柵に気が付きはっとして引っ込めた。
「……気に入った?」
いつの間にか横に並んでいたニケがそう問いかけてくる。萌音は絵から視線を外さないままひとつ頷いた。頭のてっぺんから稲妻が走ったかのように身動きが取れない。
よく目を凝らして絵を見てみる。海と空の手前に一本の木が描かれている。松の木だろうか。斜めに生えたそれの枝は葉の重みで少ししなっていて、誰かを呼び止めようと手を伸ばした人の腕のように見える。
その後ろ、細かな点で描かれた海は青や緑、それから白い光の反射を写してさざめいている。遠くに見える山々の斜面には仄かに赤みがさしていて、白んでいく空の様子からきっと朝焼けが見られるような早い時間に描いたのだろうと思われた。
「朝焼け。いいね、素敵だ」
無意識のうちに口に出していたのか、ニケが満足そうに目を細める。
しばらくの間そうしていただろうか、やっとのこと視線を動かせるようになった萌音はニケに示された絵画の注釈に目を通す。クロード・モネ、《アンティーブ》。萌音の視線を追ったニケが、この絵を描いた画家の名前と作品名だと耳打ちする。
頷きながら萌音が目線を下に向けると、そこにはクロード・モネの書いた手紙の一部が記されていた。「私がここから持ち帰るのは、甘美さそのものだろう」。百年以上も昔の画家が感じた匂いを今、自分も感じたのだろうか。なんだかくらくらしてきて、萌音は思わずニケの服の袖を握る。この絵を通して自分も南仏のアンティーブを訪れたような、タイムスリップしたような気持ちだった。
ゾクゾクと背筋を走るそれが興奮なのか恐怖なのかは判別がつかなかったが、それでも萌音の体はなかなかこの絵画の前から動き出すことは出来なくて。それから優に三十分もの間、ニケは立ち尽くす萌音の横で、微笑みを称えながら寄り添ってくれていた。
半ば放心状態だった萌音はやっとのことで《アンティーブ》の前から離れ、企画展を一通り見て回った。ニケは少ないと言っていたけれど萌音にとって六十枚の絵はかなり多く感じられた。要所に置かれているソファで休みつつ展示全てを周り終える。
チケットに書いてあった黒いドレスの女の人が描かれたエドゥアール・マネの《フォリー=ベルジェ―ルのバー》のパネル解説は興味深く、クロード・モネの描いた他の作品である《花瓶》も淡い色で描かれた花が飛び出てくる錯覚を覚えるほど素敵であった。
しかしながら最も印象に残ったのは、あの《アンティーブ》だ。展示の出口近くのお土産コーナーで、ニケが自分の作品制作の傍らで務めているカルチャー教室の生徒らへのお土産を選んでいる最中、萌音はクリアファイルとにらめっこしていた。
《アンティーブ》が描かれたA4のクリアファイルはとても惹かれるところがあるけれど、学校で使うにはもったいないような思いもある。けれどそうするとどこで使えばいいのか思い付かない。そんな思考の繰り返しだ。
「それも買おうか」
いつから見ていたのか、百面相をする萌音の背後からニケが声をかけた。慌てて両手を振って否定する。
「で、でも、使うときないし」
「……学校では使わないの?」
ニケはそう言うと一部手に取ってレジへと向かってしまう。大丈夫、いらないよと言いながら萌音は彼の後をついていくけれど、どうやら彼は聞く耳を持ってくれないようで、にこやかに応対するレジの店員にカゴごと手渡した。
「いいって言ったのに」
「遠慮はだめ。萌音はもう少しわがままを言ってもいいと思う」
「遠慮じゃなくて。もったいなくて、使えないし」
俯いた萌音にニケは顎に手を当てて少し考えるポーズをしてから「……ファイルも萌音に使ってほしいって言ってる」なんて見当違いの答えを返す。
その様子に萌音は彼が折れる様子のないことを察し、素直にありがとうと言えなかったことを少しだけ後悔しながら店員からビニール袋を受け取った。
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