ニケの肖像
外瀬 薫
睡蓮の少女
第1話 睡蓮の少女①
朝五時の潮風に、先生のコートがセイルのように風を孕む。逆光に照らされた影が柔らかく伸びて砂の上で踊る。珍しくぴんと伸ばされた背が大きく広がって、一瞬の後にまた萎む様を繰り返している。
せんせい、の形をなぞった唇からうまれた音が空気を震わせて、彼の鼓膜を揺らした。
人肌めいた温もりを含む海風が頬を撫でて街の方へと抜けてゆく。振り返った彼の声は風に攫われ、さざ波に呑まれてしまう。
私はもう一度、せんせい、と彼の名を呼んだ。
***
「明日、朝一の新幹線で上野に行こう」
夕飯のハンバーグを箸で器用に切り分けながら、まるで明日の献立でも提案するみたいにニケはさらりと告げた。
手にしていたチューブから勢いよくケチャップが飛び出して、萌音は慌てて我に返る。ようやく秋めいてきた十月のあたま。つまりは先日行われた初めての文化祭の振替休日として三連休となった週末のことを、彼は話しているらしい。
クラスメイトは打ち上げだなんだと話していたが、生憎と萌音は転校してきてすぐにそこに混ざれるほどのコミュニケーション能力を持った陽キャでもなければ、平気な顔をしてボッチでいられるほど図太い神経もしていない。渡りに船の提案に、萌音は一も二もなく頷いた。
クラスラインの投票フォームの欠席にチェックをいれて、幹事であるクラスメイトに週末は家族で出かける予定がある旨を送信する。程なくして、既読がついた。文末の「今度は黒戸さんも来られるといいね」の文字に「ごめんね、また誘ってくれると嬉しいな」の一言と、ぺこりと頭を下げるまんまるい猫のスタンプを続けざまに送り付ける。
中学生というのは大人が思うよりずっと面倒くさくて、こうしたラインの言葉一つで簡単に村八分にされてしまう。ただでさえ季節外れの転校生として目立ってしまった萌音は、クラス内で可もなく不可もなくという立ち位置を得ることに躍起になっていた。
綱渡りのような作業に溜め息をつきそうになる。いっそのことスマホを持っていない体にするべきだっただろうか。いや、きっと今のご時世、それはそれで目立ってしまっていただろう。
親指を立てたウサギのスタンプを数分の時間を空けてから確認し、萌音はスマホの画面を伏せてテーブルに置いた。
「友達?」
いつの間にかハンバーグを半分まで食べ進めていたニケが首を傾げた。
「……知り合い、かな。クラスメイトの女子だよ。打ち上げ断る連絡したの」
「行かなくていいの? 何なら、旅行は来週にしても、」
「いいの、行きたくなかったから。まだこっちの学校に友達いないし」
言葉を被せるようにして俯けば、ニケは「そっか」と一言、分かっているのか分かっていないのか曖昧な返事をして、味噌汁の入ったお椀に手を伸ばす。
佐元ニケという男は、血縁である萌音から見てもかなり浮世離れしていた。画家という職業のせいかもしれないし、それともただ単にそういった性分なのかもしれない。
それでも、世間一般的に見ても整った部類に入るだろう、アトリエにある石膏像を思わせる長い睫毛と鼻筋の通った顔つきは、ニケの持つどこか人形めいた不思議な魅力を引き立てていた。
顔の造形だけではなく、高さの合わない椅子を使うからか自信なさそうに丸まった猫背も、無造作に括った真っ白な長髪も、彼のうつくしさをより一層際立たせている。
味噌汁を啜る姿も絵になるなあ、なんて思いながら、萌音は少しだけ大きめに切り分けたハンバーグを咀嚼した。
食器を洗うニケに、カウンター越しに皿と箸とを渡す。ご飯を作るのは萌音の仕事で、洗い物は彼の仕事。ここに越して来た時に二人の間で決めたルールだ。本当はニケが家事は全て自分がやると主張していたのだが、何かしらすることがないと参ってしまいそうだった萌音が頑なに拒否したのである。
色々なことが立て続けに起こり過ぎたせいか、一年前のことなのにはっきりとは覚えていないが、唯一の肉親だった母を亡くし、遠縁の親戚であるニケに引き取られて、萌音を取り巻く環境は目まぐるしく変化していた。何か役に立たなければ彼に追い出されると思っていたのかもしれない。
「先生、上野のどこに行くの? 動物園?」
一応血の繋がりはあると言えど、ほとんど他人と変わらないくらい遠縁である彼の呼称に萌音はしばらく悩んでいた。ウンウン唸りながらも、ニケが画家という職業上での呼称である「先生」という案を出したのはつい先日のこと。「佐元さん」よりほんの少し近い距離間にくすぐったさを覚えながら、萌音は彼に呼び掛けた。
昨日の夜の全国ニュースで、パンダ舎が改修されるとかなんとかというニュースがやっていたような気がする。母と二人で住んでいた家の近くに動物園がなかったことは勿論、何より母が仕事で忙しかったので滅多なことでは外出できなかったのである。
この家の近くには動物園はあるみたいだが、越してきてからまだ足を運んだことはない。最後に動物園に行ったのは恐らく、小学生の時の秋の遠足だったように思われた。
「動物園も、いいね。採用」
「え、もしかしてノープランだった?」
まさかの返答にぎょっとすれば、ニケは泡だらけの手で萌音の差し出した皿をシンクに引っ込めた。
「ううん、ノープランじゃあないよ。企画展を見に行きたくて」
言葉を探しながら話すようにゆっくりと、独特な発音をする彼はどことなく嬉しそうに見える。鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気だ。
それにしても、企画展。初めて聞く単語だが、どうやら動物園ではないらしい。
「大規模な、印象派の展示があるんだ」
「インショーハって、絵の何か?」
「うん。ええと、萌音に分かるものだと何かな……そうだ。ほら、この間の」
濡れた手を拭いてスマホを出したニケが一つの画像を表示する。
草原の上で日傘の女性が絵を描いているイラスト。この間の金曜日にニケと並んで見た映画だった。このイラストのモデルになっているのが、その「インショーハ」の絵だという。
「明るくて、なんかふわふわしてる」
思いついた感想をぱっと呟けば、ニケは目を細めて頷く。
「萌音は興味がないかもしれないけれど……どうかな」
「インショーハって人の他の絵とかもあるんでしょ? いいよ、先生が見たいもの見に行こうよ」
ありがとう、と彼は笑ってスマホをしまった。
「じゃあ明日早いし、お風呂洗ってくるね。あ、今日は先生が先でいいよ」
上機嫌なニケの様子に、萌音は「ここに来てから休日に遠出するのは初めてだな」なんてことを考えて、少しだけ気恥ずかしさを覚えた。火照った頬をごまかすように、早口でそう言って脱衣所へと足を向ける。洗った食器を棚に戻していたニケの声が背に届く。
「そうだ、萌音。あのね、『印象派』は画家の名前じゃあないよ」
萌音は振り返り、キッチンへと駆け戻ってひとつ叫んだ。
「そ、そういうことは先に言って!?」
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