第十二話 銃太郎

 あの晩も、季節は違ったけれども。こんな風に生暖かい風が吹いて満月が出ていた。忠治は患者宅の祝いごとに呼ばれて、珍しく黒い背広などを着ていた。あの老人のように、道すがら、灯籠などを携えて。


「やぁ、忠治さん。待っていたんですよ」


 玄関で出迎えたのは忠治の『患者』だ。駄々広い屋敷の一人息子である。昔からのよしみなので、忠治は名前で呼ばれていた。

 白い着物を着ていて、前髪はバサバサと彼の端正な顔に降り掛かっている。おめでたい宴だというのに、それにそぐわない格好は普段の彼らしくなかった。


「母さんは今日も本当は渋ったんですけどね、僕はどうしても息子を一目貴方に見せたくって……」


 そういえば、この男の祝言にも呼ばれなかった。それというのも彼の母親に忠治が酷く疎まれているからである。彼女は未亡人で、この屋敷の主でもある。忠治はその母親の妹と、幼いころに情を交わしていた。だがその女性は若くして労咳で亡くなってしまったのだ。


 女主人は、まるでその原因が忠治のせいだと言わんばかりに、顔をつき合わせてもツレなくされるのが常だった。しかし屋敷の主治医という立場は不思議と揺るがない。


 思えば、この青年が忠治を買ってくれているからという理由が大きかったのだろう。現に、かかりつけの医者が訪れているというのに、屋敷はひっそりと静まり返り、主である彼女は、やはり姿を見せなかった。


「僕らが出向いても良かったんですがね、妻の具合が、あまり良くなくて」


 そう言って男は屋敷の入り口へ忠治を誘導してくれる。灯籠を受け取ると、中の火を静かに吹き消して折り畳んだ。大層な玄関の入り口の脇にそっと置く。


 この家はだだ広いのに使用人があまりいない。それでも、こういう時玄関にいるはずの爺がいないことを、忠治は少し不思議に思った。


「どれ、それでは少し診てやろう。産後に奥方をあまり無理をさせてはいけないよ」


 忠治は聴診器を出しながら一度玄関に腰を降ろした。皮の靴の紐を丁寧に解いて並べる。こんなこともあろうかと、診療する道具はちゃんと持って来ていた。


「はい、苦労しましたからね……いつぞやはスミマセンでした」


 男は項垂れて診療鞄を受け取ってくれる。その仕草に、忠治の方が何だか申しわけない気持ちになった。片膝を立てて立ち上がった。鞄も出来れば自分で持ちたかった。


「いや……いいんだよ、私の誤診だったのだろう」


 この夫婦は結婚から数年経つにもかかわらず子宝に恵まれず、忠治の診療所に検査に来たことがあった。とは言っても訪れたのは男の方だけで検査は限られたわけだが。昔のよしみで、軍の研究施設の職員にこっそり検査を依頼した。結果は、男の精子では子どもは望めそうになかった。


「妻と母も最初は折り合いが悪かったんですけどね、妊娠してからは凄く上手いこといって……、人間って単純なものですね」


「婆さんはどうしている」


「忠治さん相変わらず口が悪いですね、……人の義母ははおやに、この家の親分はあの人なんですよ。僕なんて名ばかりです。さて、こちらですよ」


 男がまるで少女のようにくすりくすりと笑いを零すと、ピタリと足を止めた。長い飴色の廊下の突き当たりに、襖が二人を待ち構えていた。


「入るぞ」


 先ほどまでの、物腰の柔らかい低姿勢な態度を一変した声。家の主らしい鋭く強い声を上げて、男は両腕を広げるようにして扉を開けた。


「ひっ」


 襖の向こうを見て、忠治は思わず声を上げた。実は彼の妻に会うのは初めてのことだった。だから真っ正面に座っていた女を見て仰天したのだ。


 ぞぉっとして思わず逃げるように廊下を走り戻る。焦り過ぎて忠治はその場に転げてしまった。すると、音もなく男は忠治の傍まで歩んで来てこちらを見下ろした。


 患者の、『銃太郎じゅうたろう』は、恐ろしいほど冷たい瞳でこちらを見つめていた。

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