第九話 崖上の男

 暗闇の中、目前の千太郎は迷いもなくザッシザッシと進む。忠治の方はというと、相変わらず軍医時代に習得したゲートルは大変役に立つし、先導する書生はこういう時ばかりは大変に頼もしい。


 千太郎の白いシャツは月の光を反射して青く煌めき、酷く目立った。時たま振り向いては忠治がキチンとついて来ているか確認してくる。


 闇夜の濃紺の中により深い色の髪の毛がはためき、その合間から真珠のように鈍く光る眼が見えた。斬りだった山道の上に、ぼぅっと橙色の灯りが変わらずに見えている。


 まるで浮世離れした不思議な心地だった。忠治たちはそこへ向かってひたすら登っていた。


 島根は、ひぃーはぁーっと何ともみっともない息づかいで忠治の後ろをどうにかこうにかついて来ている。後方の彼は暗闇の中で非難めいた呻き声をあげた。


「ちょっと、ちょっとちょっと。僕は知識人なんだからね……、忠治さんたち野蛮人のペースにはとても合わせられない」

「お前、体力が落ちたんじゃないのか」


 呆れたように忠治は少し立ち止まる。引退した忠治と違って、島根は現役なのだからもう少し頑張ってもらわないといただけない。発破を掛けようとしたら、先に頭上から軽んじた声がした。


「だったら下の車で待っていたら良かったんじゃないの。『神様』は俺たちだけでどうにかするしさ」


 きゃははと、千太郎が島根のみっともなさを喜んで笑った。それに島根が口惜しそうに唇を尖らせているのが見える。忠治に聞こえるくらいの声量で、ごにょごにょとまごついた。


「何言ってるんだ。熊でも出たらどうするんだよ……。大体さっきのウドの大木と一緒に夜を明かすなんてたまったもんじゃない」

「男なら誰でもいいんじゃないのか、好機じゃないか。それ、もうすぐ着くから頑張りなさい」


 忠治がそう告げると、足下の岩が細かく砕けて島根に降り掛かった。「ひゃぁ」だか「ぎゃぁ」だか間の抜けた叫び声が響く。まだまだ元気なようだ。


「ぉお~い、大丈夫ですかぁ~?」


 急に聞き慣れない純朴な声が聞こえた。見上げるとまるで昔話に出てくる農民のような出で立ちの男が一人。提灯をかざしてこちらを見下ろしていた。


「大丈夫です、そうそう死ぬような男じゃあないので」


 そう答えながら忠治は崖上に到着した。事実、幾度となく生死をかけた危機を乗り越えて来た男だ。だから今のみっともなさが加齢によるものだと感じて、忠治は少し可笑しく思った。


「左様ですか、ところで貴方がたは一体どちら様ですか? 私の屋敷の下男を、駐在を呼ぶようにこの道を行かせたんですがね」


 小柄な男は、自分よりもぐっと背の高い忠治を見上げながら首を傾げる。一度何かに気づいたように急に目を見開くと、慌てて余所よそしく目線を逸らせた。


「なぁに、村の掟か何か知りませんけど、貴方は村を救おうと使いを出しただけでしょう。僕らも村人にそれを口外しないし、問題はありませんよ」


 やっと追いついた島根が、そんな男の心配した動作を気遣って胡散臭く言う。さっきまで息も絶えだえだったとは思えぬ、流暢な言いざまだった。


「実は私たち陸軍の機関の者でして、偶然通りかかって先ほどあなたの使いにお話を伺ったんです。……『神様』が逃げたということで」


 忠治は簡潔に身の上を明かした。『陸軍』と聞いて男は島根をも見上げると、やはりそそくさと目線を逸らすのだ。伴う千太郎が黒髪の間から白い鼻をひくつかせた。


「僕と忠治さんがいれば、きっとお力になれますよ、この小坊主はまぁ役に立ったり立たなかったり……やれやれ、にしても酷い匂いだな」


 先程のみっともなさなど、まるでなかったかのようにおどけた素振りで、島根は鼻をわずかに啜った。驚いたことに、汗なども掻いていないので、もしかしたら先程の姿の方が『演技』のようにすら感じられる。島根はそうして、村人に続けて尋ねる。


「それで、一体何が起こったんですって?」

「……言うよりも見せた方が早いですね……こちらです」


 男は答える代わりに灯籠を振って、三人を道の先へと促した。村の異変だというのに、妙に落ち着いている。先ほど下で逢った男と違い、方言が全くないのも忠治には異様に思えた。


 薮を暫く行くと、急に開けて田畑が見える。道は村らしくそれなりに整えられ、少し先に茅葺き屋根の家々が見えた。ささやかな民家の扉は全て開け放されていて、戸口から外に向かって何やらゴロリと転がっている。

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