第七話 現れた木偶の坊

 キキキっと、車が砂利の上を横に滑った。ヘッドライトに照らし出された砂埃が舞う。そうなる前に、何か大きな黒い影が、右側の山の斜面から飛び出して来た。


 横に投げ出されながらその姿を、忠治は目撃する。車は道を阻む形で何とか止まった。


 忠治は車が停止したのを確認してから、無言で黒い診療鞄を掴むと、後部座席のドアを蹴破るように開けた。背にした車内からは、車を大事にしていた島根の非難するようなため息が聞こえたのだけれど、人を轢いていたとしたら『こと』だ。


「大丈夫ですか」


 忠治は怒鳴るようにしながら車の前方へと回ったが、そこには砂埃ばかりで、先ほどの人影は見当たらなかった。キョロキョロと辺りを見渡してから、後ろを振り返る。


「島根、よもや轢いたんじゃあ、あるまいな」


 車を降りて忠治の背後へやって来た島根が、大げさな動作で否定するように腕を上げた。まるで心外で、自分の方は被害者だと言う雰囲気だ。


「轢いてやいませんよ。轢いていたらもっと衝撃があるし、液体的な物だって飛び散……」

「しぃ」


 島根が不謹慎なことを言いかけたところで、忠治の傍に来ていた千太郎が、唇に人差し指を当てて姿勢を低くした。周りを見渡す彼の白い目ばかりが光る。千太郎は黒目の大きさは普通だ。しかし実は目が大きいので、その白い部分は妙に光を集めるのだ。


 静かになると獣のような息遣いが、道の上から密やかに聞こえてくる。車のライトから少し逸れた場所に、大きなヒキガエルのようなポーズで男がしゃがみ込んでいた。


 着物の色も茶色く、短く刈り込まれた髪の毛も土をかむっていたので、忠治たちは存在に気づくのに遅れた。男はゆっくりと涙と鼻水で汚れた顔を上げた。案外に若い。


「だ、大丈夫かね」


 忠治が労って声を掛けると、男はまるでそれを拒絶するかのように、垢まみれの腕を振り回してから獣のように呼吸をした。そうして歯の奥で呻くように呟いた。


「『かみ』さんが壊れなすった」

「かみさん、奥さん?」


 千太郎が首を傾げる。するとそれに不服そうに青年が千太郎を睨みつけるが、千太郎はじったりと青年を見つめるだけで涼しい顔をしている。まるで、繋がれて吼えたてる犬を、安心な少し離れた塀から見下ろす猫のような表情だった。


「いや違うだろ、『神様』でしょう、ねぇ忠治さん。そう、僕らが逢いに来た。いや、暴きに来た……か」


 意味深に嗤う島根と千太郎の言うことは置いておいて、忠治は律儀に男に向き直る。それはもう律儀に。顔中ぐしゃぐしゃにしているのは、どこか痛めたかと思ったのだ。


「どうされました、怪我はありませんか」

「怪我はねぇ」

「平気だそうです、よ」

「どれ」


 放っておこうとする島根を押しやって、忠治は男を懐中電灯でゆっくりと照らした。やはり。


 泥だらけの顔は意外に若々しく、促して立ち上がらせると上背のある島根よりも背が高いようだった。ただ農作業のためなのか酷い猫背で蛙のような体つきに見える。むきむきの腕は垢だらけで、酷い匂いがした。


「今日は神さんのだいっじな儀式だったんだぁ、……だども急にあっばれだして逃げちまったんだと。ほいで様子さ見に家から出た男さぁ、何人も殺された」


 急に男が叫ぶように事情を伝え出したので、忠治は吃驚して思わず一歩後ろに下がった。しかし男は追いすがるように忠治ににじり寄って来る。


「だからおら、下の町の駐在さんに知らせようと思って崖さ降りたんだ、おらたちの村には駐在さんさぁ、いねぇすけ」

「ち・か・い」


 忠治の顔の後ろ脇から竹刀袋がにゅっと現れて、こちらにがぶり寄っている『神様』のいる村の青年の胸を突いて押した。一突きでそんなに衝撃は受けていなそうなのに、不思議と青年の身体は忠治から離れた。腰に千太郎の細い腕が回されていて、後ろに引っ張られていた。

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