第六章 世界には似ている人間が三人いる

 その日は、日が暮れかけてもまだ蒸し暑く、忠治は打ち水に精を出していた。すると、撒いたばかりの水の上を下駄で走り込んで来る者がいた。


「忠治さん」

「どうされました、診療は終わりましたが怪我でもされましたか」

「いや、僕のことではないのです」


 それは郊外に住む忠治の患者だった。外地に赴く前からもつき合いがあり、若いころから彼のことは知っている。久々に見たその表情は、歓喜に満ち溢れていた。

 そうして震える唇をはくりと開けて、今一度こちらの名前を呼んだ。


―忠治さん。

―私に子どもができましたよ。

―忠治さん、妻が妊娠したんです。

―忠治さん、私は…………んです。だから言ったじゃないですか。


「だから言ったじゃないですか、お…………」


* * *


 汗が鼻を伝うのを感じて目を開けると、辺りはすっかり夕暮れを通り越して宵闇であった。どれくらい車を走らせたのだろう。運転席と助手席では、千太郎と島根が剣のある会話を繰り広げている。そう言えば助手席の方に書生が乗るのは初めてのことだった。


「また忠治さんと二人きりになれなかったなぁ~」

「させるわけがないだろう」

「しかしお前も忠義な奴だな、いつでもどこでもこの人について来るしさ」

「あんたより腕が立つからしょうがないでしょうが。それにお前に言われたくないね」


 島根のからかいに、千太郎は窓の外を凝視しながらぶっきら棒に答えた。硝子窓がまるで鏡のように、千太郎のまだ少しあどけない顔を映し込んでいる。


「お前に似ている人、僕は前に見たことがあるよ。……写真でだけどね、綺麗な男だった。ちょっと枯れていて世を儚んでいる風ではあったけれどね」


 島根の言葉に千太郎は押し黙った。車がガタガタと揺れてヘッドライトが草木を照らし出している。毎度のことながら、恐ろしいほど田舎に来ているようであった。


「……世界には似ている人間が三人はいると言いますよね」

「うん、それでさ、お前が丁度三人目なんだ」


 島根が急激にハンドルを切った。ので、後部座席で正直忠治は飛び上がった。しかしバックミラーに映り込む千太郎の表情は涼しいものだった。


「忠治さんのところに書生が来るだなんて驚いたよ。キヌさんに聞いたら、随分小さいころからあそこに入り浸っているらしいじゃない」

「……キヌさん、おしゃべりだ」

「そんなところも好きだろう? 僕は好きだな、彼女のご飯は美味しいし」


 何か言いたげな島根に、千太郎が顎で話の先を促すのが見える。本人は黙りこくったままだったが、聞いてくれているという仕草に、島根は楽しそうに続けた。


「聞けば結構な屋敷の坊っちゃんだそうじゃないか。あの浜での一件のあと、どうにも坊主のことが気になって軽く調べさせてもらったよ」

「……」

「そうしたら何だ、お前は……ふふ」

「だったら何だって言うんだ」


 千太郎は竹刀袋を狭い車内で器用に取り出すと、島根の首元と窓の間にするりと渡した。それは音すらしない一瞬のことだった。忠治は寝たフリをしたまま、背中に汗を掻く。


「……危ない、手元が狂う。坊主は僕らと心中する気なのか」


 島根の嗤い声が車内に響き渡る。忠治は内心ヒヤヒヤした。この二人はこんなに仲が悪かったのだろうか。いやこれは話題が宜しくない。忠治の胃の辺りも、鈍痛でシクシクと痛むようだった。


「冗談じゃない。あんたに俺と忠治さんの本当のことなんて、何一つ分かるはずがないんだ」


 苦々しく絞り出すように言う千太郎が可哀想に思えた。島根は恐らく勘違いしている。だが千太郎は島根が『真実』を知ったと思い込んでいるようだった。つい狸寝入りを忘れて忠治が身を起こしたと同時に、島根が突然叫んだ。


「危ないっ」

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