第五話 蜘蛛の神様
「まぁ忠治さんが僕のお相手なんて憧れるが……、後々のお前の反撃を考えると手なんて出せそうにないや。折角の旅路だよ、楽しく三人で行こうじゃないか」
「島根」
忠治が鈍い音を立ててテーブルを平手で打った。それでも大分我慢した方だと思う。千太郎はバツが悪そうに中腰になっていた腰を椅子へ落とした。
こほんと忠治は小さく咳をして態度の悪さを誤摩化す。
「はいはい、わかりましたよぅ。本題に入れば宜しいんでしょう」
島根が肩をすくめたところで、黒地の小袖に白いエプロンをつけた女給仕が、つやつやと光る粟ぜんざいを運んで来た。それをすがるように受け取って、千太郎は急激に大人しくなった。
「忠治さんに診てもらいたいのは、いわゆる『神』ってやつなんですが」
「『神』や仏像の類いは、俺の専門外だぞ」
「『蜘蛛』の『神様』と言いますか、まぁそう名乗ってS県のある山奥の村人を支配しているそうなんです」
「『蜘蛛』……確かに蜘蛛は神話の類いに度々登場するし、そこを祀った神社の存在を聞いたことがある」
「そんなこと誰に聞いたんです」
島根の問いに、忠治は自身も首を傾げて答えた。
「さぁ、遠方の患者とかお喋り好きのご婦人に……だったかな」
島根は上品に餡子をスプーンの上に乗せて、音を立てて啜りながら続けて喋る。
「随分と今回の話に都合が良い患者さんですね、まぁいいでしょう。僕の上司がちょっと変わっていましてね、そういう風な不確かな情報が入ると確かめないわけにはいかない性分なんですよ」
それにまた千太郎は怪訝そうな顔をした。それを見て、島根が言いわけのようにつけ加える。
「まぁ、僕への指令ってのもまた曖昧で『神様の正体を暴いて、捕らえるか殺せ』ってことみたいなんですけど」
「その『神様』ってのが何か悪さしているんですか。『人を殺せ』とか『女を犯せ』とか邪教だったりするわけ。アンタみたいな糞男に殺されなきゃいけないような『悪さ』ってやつをさ」
可愛い顔をした学生風の少年が、甘味を食べながら際どい台詞を次々と吐いている。何度も通り過ぎるフリをしていた給仕の女性が、ぎょっとしたようにお盆で口元を隠した。
「時勢が時勢だからな、天皇や国に対する忠誠心の揺らぎと、人々に対する支配力を懸念してのことだろう」
忠治はまるで自分が島根の上司から直接命じられたような口ぶりで答えた。島根はそれに頷くと、足を組んで煙草を吹かした。彼の灰色のスーツがシャリシャリと揺れる。
彼は確かに日本陸軍の人間ではあったが、戦線から離れて久しかったのでまるきり軍人らしさは消えている。グレーのスーツに黒い外套、黒い帽子。
どちらかと言うと胡散臭い、詐欺師や雑誌記者風の出で立ちだった。ただ、顔だけは無駄に彫が深く男前なのである。ニヤニヤと忠治の言葉につけ足しをする。
「その通り。その得体の知れない『神』とやらを祭り上げて、天皇へのお心を忘れやしないかと心配しているんだ、ま、僕の上司が、だけどね」
「……宗教というのは流行病にも似ているから。お前の上司の懸念も分からなくはない。要はその『神』という存在の根拠を打ち崩せばいいんだろう」
忠治は観念したように、両手の指を組んでため息をついた。島根は『ニッコリ』と音がしそうなほど大げさに笑んで答えた。
「左様で」
忠治は求められることの全貌が分かって、椅子に寄りかかるようにしてやっと粟ぜんざいに口をつけた。辛党の忠治には甘過ぎる。これから請け負う仕事内容も相俟ってげんなりとする味わいだった。
「さて、こうもゆっくりしてられんのです。すぐに出発しましょう。明日の朝までには着いてしまいたい『事情』が出来ましてねー、実は」
そう言って、さっさと島根は財布を引っ掴むと会計に向かって歩き出した。
「おい、鳥取、説明が足りねぇぞ」
千太郎は忠治の食べ残した分まで粟ぜんざいを飲み下すと、乱雑に席を立ち皮の鞄と竹刀袋を抱えて店を出て行く。
置いて行かれないように忠治も慌ててあとを追うと、路上に停めてある黒塗りの車のドアを、島根が開いたまま待っていてくれた。ただ、その『急ぐ事情』とやらは説明せずじまいだった。
六人乗りの島根の車は胡椒臭い彼の性格とは裏腹に快適だ。午前中に出発してどんどんと郊外に進み、周りはいつの間にか木々や畑ばかりになった。
西日が窓から差し込んで、ウトウトと目を瞑っていると少し蒸し暑くまるで夏の午後のようだ。忠治の意識は数年前の夕方へと、ゆっくりとゆっくりと墜ちて行った。
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