第四話 汁粉屋にて
翌朝。件の男、島根と待ち合わせた喫茶店は、いつの間にか『お汁粉屋』に変貌を遂げていた。煉瓦造りの洋風だった印象が、青い暖簾の旅館風に雰囲気が変わっている。
あの橙色と焦げ茶と黒がチカチカと混じり合っているのが好きだったのに。がっかりして忠治が思わず身をすくめて立ち止まると、千太郎が早く行けとばかりに竹刀袋の先で背中を小突いた。酷い書生だ。
千太郎を伴って店内へ入ると、窓際の中ほどの席に陣取っていたのは島根だった。いつも通り薄手の外套とつばの広い帽子を机の脇に持ち込んでいる。身体が大きいので、妙に窮屈そうに見えた。
「やぁ、忠治さん。お待ちしていましたよ。可愛子ちゃんの方はお久しぶりかな」
「……帰っていいですか」
「おっと、まぁ座れよ。出発前に苦学生に粟ぜんざいでも奢ってやるからさ~」
「……」
千太郎の実家は裕福だというのに、忠治のところに間借りして学校へ通うことに酷く反対されてしまい、経済面で圧力を受けていた。つまり仕送りが他の学生より極端に少ないのだ。
粟ぜんざいと聞いて、甘い物に目がない千太郎は素直に忠治のために椅子を引いた。普段下宿先の大家を、小莫迦にした態度しか取らないというのに、些細なところではキチンと年長者を立てる。
つまり育ちが良い。幼いころ忠治のところで育たなくて良かった。こんな風には育てられる自信は正直ない。
「外で待ち合わせとはまた、珍しいですね」
「実は、俺は医者の会合で千太郎は実家への帰省ってことになっている」
「は、何でまた別行動なんかに偽造しているんですか」
島根は面白がって、机の下で革靴の踵をカツカツと鳴らした。行儀の悪さに忠治は咳払いをする。そうしてからコソコソと島根に口を寄せた。男はそれはもう大喜びで耳を近づけてくる。
「実は、キヌさんが診療所に居座っていてだな」
「ははぁ、それは真実を知ったらついて来ちゃいそうですね」
「ついて来ちゃいそうだろ。暇しているんだ彼女」
「でしたら仕方がないですね」
そう言って島根は忠治の手元を見る。黒い診療鞄は忠治が開業したころに、島根が祝いに買ってくれたものだった。それを思い出したのか島根は少し嬉しそうに言った。
「長旅の予定なのに、随分軽装ですね」
「必要な物は限られているからな、……と、そんなに遠いのか」
黒い皮の診察鞄を椅子の脇の台に押しやると、忠治は腰を降ろした。そのせいで席が結構狭い。しかし細身の千太郎は、するりと猫の如く忠治の脇に座り込んだ。
次の瞬間には、縁が装飾された丸テーブルに肘ごと突っ伏して、黒く切りそろえられた前髪の隙間から島根を睨みつけて威嚇し始める。
千太郎が島根を嫌っているのには大きな理由がある。それは島根が『男色家』だということに他ならないばかりか、彼はカモフラージュで妻帯者でもあった。そうしてそれを悪びれもしない。
「本当にあんたと一緒にいなけりゃあならないのですか。場所さえ教えてくれるのならば、忠治さんと俺だけでも行けると思うのですけども」
「僕がいなけりゃ始まらないでしょう、何。また僕に襲われるとでも思っているの。前から言っているように僕は青二才の鼻たれなんて興味がないの、あの時は忠治さんが勧めるもんだからついさぁ」
「俺を巻き込むな」
事実だが忠治は居心地悪く感じて咳払いをする。千太郎は忠治のことを非難するように見つめたあと、島根に対して指を突き出す。ああ、給仕が注目している。いたたまれない。
「俺の心配なんざぁしていないですよ、あんた後輩だか何だか知らないけど、軽々しく忠治さんを使い過ぎだ。気でもあるんじゃねぇのか」
忠治はどんどんと牙を剥く千太郎を目線で咎めると、島根に向き直る。彼は少年なぞ意に介せず、粟ぜんざいを三つ給仕に注文していた。
給仕の若い女性は、まるでキネマのブロマイドから抜け出て来たような島根に、頬を赤らめているのだからどうしようもない。
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